花巻城本丸跡で土塁・溝跡を確認!最新発掘調査の成果を解説
岩手県花巻市の花巻城本丸跡で、城の外周を形づくっていた土塁と溝跡が確認されました。
陶磁器や瓦、和釘、古銭なども見つかり、本丸の防御構造だけでなく、城内の建物や人々の暮らしを考える新たな材料が加わりました。
花巻城は、中世の鳥谷崎城を基礎として、豊臣政権の奥州支配と南部氏の領国経営のなかで改修された城です。
今回の発見を過去の調査成果と結び付け、花巻城がどのように築かれ、使われたのかを分かりやすく解説します。
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花巻城本丸跡の発掘調査で何が見つかった?
令和8年度の調査では、本丸西辺・南辺の土塁や溝跡が確認され、陶磁器や瓦を含む多様な遺物も出土しました。
花巻市教育委員会は、令和8年(2026年)5月から花巻城本丸跡の発掘調査を進めました。
調査対象となったのは、本丸外周の構造や変遷を調べるうえで重要な西辺部と南辺部です。
市の発表によると、土塁と溝跡のほか、陶磁器、瓦、和釘、古銭などが確認されました。成果を公開する現地説明会は、同年10月24日に設定されました。
詳しい測定値や遺構の年代については、今後公表される調査報告を待つ必要があります。
本丸西辺部と南辺部の土塁を確認
あけぼの姫今回確認された土塁は、花巻城本丸の範囲や防御構造だけでなく、築城工事の順序を考えるうえでも重要な遺構です。
土塁とは、敵の侵入や攻撃を防ぐため、土を高く盛って築いた防御施設です。
城の周囲に設けることで、内部への視線や進入を遮り、塀や柵を支える基礎としても利用されました。
令和8年度(2026年度)の調査対象には、本丸西辺から南辺に残る土塁と、その南西隅に位置する三社跡一帯が含まれています。
調査計画では、土塁上に絵図で描かれた塀の痕跡や、令和7年度(2025年度)に調べられた御台所前御門付近の土塁との違いを確認することが目的とされました。
今回の発表によって土塁が確認されたことは明らかですが、どの時期に築かれ、何度改修されたのかは、土層や出土品を含めた分析が必要です。
土塁の内部構造を詳しく調べれば、前身の鳥谷崎城から花巻城へ移行したときの工事と、その後の修築を区別できる可能性があります。
溝跡は本丸外周の構造を考える手掛かり
あけぼの姫土塁とともに発見された溝跡は、排水施設、防御施設、区画の境界など、複数の役割を想定できる遺構です。
今回の調査では、溝跡も確認されました。
ただし、花巻市が公開した速報的な案内では、溝の幅・深さ・延長や、土塁との具体的な位置関係までは示されていません。
そのため、直ちに「堀」と断定することはできません。城内の溝には、敵の進入を妨げる堀のほか、雨水を流す排水溝や、施設の範囲を区切るための溝もありました。
花巻城は河岸段丘上に築かれており、本丸の周囲には高低差があります。盛土によって平坦面を造成した城では、雨水による土塁や建物基礎の崩壊を防ぐ排水も重要でした。
溝内から出土した遺物や堆積した土を調べれば、溝が使われた年代や、埋め戻された時期を推定できます。
今後は土塁と溝を別々に見るのではなく、本丸外周を構成した一組の施設として検討する必要があります。
陶磁器・瓦・和釘・古銭が出土
あけぼの姫陶磁器や瓦などの出土品は、城内で使われた道具や建物を示す一方、出土位置と地層の確認が欠かせません。
今回確認された遺物には、陶磁器、瓦、和釘、古銭などがあります。
陶磁器は食事や茶の湯、貯蔵などに使われた道具であり、産地や年代を調べることで、本丸を利用した人々の生活や流通の範囲を考えられます。
瓦と和釘は、城内の建築物を検討する材料です。瓦の文様や製作技法が判明すれば、建物の格式や造営年代を推定できる場合があります。
ただし、発見された遺物が、その場所で実際に使われていたとは限りません。造成のために別の場所から運ばれた土へ混入した可能性や、建物の解体後に捨てられた可能性もあります。
古銭についても、流通していた時期と埋没した時期が一致するとは限りません。
したがって、種類だけで年代を決めず、出土した地層や遺構との関係を確認することが重要です。
花巻城はどのような城だった?
花巻城は河岸段丘の地形を生かした平山城で、中世の鳥谷崎城を基礎として南部氏の時代に大きく改修されました。
花巻城は、北上川と豊沢川によって形成された河岸段丘上に築かれた城です。
北・東・南側の急崖と河川を防御に利用し、本丸・二之丸・三之丸を堀や土塁によって区切っていました。
その前身は、稗貫地方を支配した稗貫氏の鳥谷崎城です。
天正18年(1590年)の奥州仕置後、この地域は南部氏の支配下に入り、城も近世的な軍事・行政拠点へと改修されました。
河岸段丘の地形を生かした平山城
あけぼの姫花巻城は三方を急な崖に囲まれ、河川と段丘の高低差を天然の防御施設として利用した平山城です。
平山城とは、平地に接する小高い丘や台地に築かれた城を指します。
花巻城は標高約85メートルの河岸段丘上にあり、北・東・南側には約15メートルの高低差を持つ急崖があります。
北側を流れる北上川、のちの瀬川も、自然の外堀に近い役割を果たしました。
城内は本丸・二之丸・三之丸という三つの曲輪に分けられています。曲輪とは、土塁や堀などで区画された城内の平坦な区域です。
最北部に本丸を置き、その南側と西側を二之丸、さらに南側を三之丸が囲む梯郭式の縄張りでした。
地形そのものが険しい北・東・南側に対し、台地が続く西側では人工的な防御施設を整える必要があります。
今回、西辺部と南辺部の土塁や溝跡が調査されたのは、自然地形と人工施設をどのように組み合わせたのかを明らかにするためでもあります。
前身は稗貫氏の鳥谷崎城
あけぼの姫花巻城の前身は稗貫氏が本拠とした鳥谷崎城であり、奥州仕置を境として城の支配者と役割が変化しました。
中世の花巻地方では、稗貫氏が鳥谷崎城を拠点として稗貫地方を支配していました。
しかし、天正18年(1590年)、豊臣秀吉による奥州仕置によって稗貫氏は所領を失い、この地域は南部氏の領有となります。
奥州仕置とは、小田原合戦後の秀吉が東北地方の大名・領主の所領を再編した政策です。
鳥谷崎城は単に名称を変えただけではありません。発掘調査から、16世紀末から17世紀初頭に石垣の構築や土塁・堀の強化、大規模な盛土造成が行われたと考えられています。
一方、本丸の位置や中世城館の中心部については、なお検討すべき点が残されています。
城の下層から中世の陶磁器や古い地表面が確認されることは、近世城郭の下に前身の城や施設が重なっている可能性を示します。
今回の調査でも、遺構の前後関係を丁寧に確かめることが、鳥谷崎城から花巻城への変化を解明する鍵になります。
北秀愛・北信愛が花巻城と城下町を整備
あけぼの姫南部氏の家臣である北秀愛と北信愛は、花巻城の改修と城下町の整備を進め、領国南部の重要拠点を築きました。
天正19年(1591年)、北秀愛(きた ひでちか)は花巻城代(城を管理し、周辺地域の統治を担う役職)となりました。
鳥谷崎城から花巻城への改称も、この時期に行われたと伝えられています。
秀愛の死後は、父の北信愛(きた のぶちか)が城代を継承しました。信愛は北松斎とも呼ばれ、慶長14年(1609年)ごろから城内外の本格的な改修を進めたとされています。
本丸・馬出・二之丸・三之丸の整備に加え、御殿、役所、城門、城下町の建設も進められました。
慶長5年(1600年)の岩崎一揆では花巻城が攻撃を受け、北信愛が本丸を守ったと伝えられます。この経験も、その後の防備強化に影響した可能性があります。
慶長18年(1613年)に信愛が没すると、南部利直の子・南部政直が城主となりました。
花巻城は軍事拠点であると同時に、和賀・稗貫地方を統治する行政拠点として発展したのです。
過去の発掘調査で見えてきた本丸の姿
平成30年度から続く調査により、本丸御殿の規模や造成方法、城門と枡形、石垣などが次第に明らかになりました。
花巻市教育委員会は、平成30年度(2018年度)から本丸跡の内容確認調査を継続しています。
第1期調査では本丸御殿を中心に調べ、令和7年度(2025年度)からは外周部を対象とする第2期調査に移りました。
これまでの調査では、御殿の礎石や整地層に加え、御台所前御門、枡形、石垣などを確認しています。
令和8年度の土塁・溝跡も、こうした成果の延長線上に位置付けられます。
本丸御殿の規模と盛土造成
あけぼの姫本丸御殿の遺構は良好に残り、その下では厚い整地層が確認され、城を造り替えた大規模工事が見えてきました。
本丸御殿は、城主や城代の居所であるとともに、政治・儀礼を行う中心施設でした。
花巻城の御殿は盛岡藩主を迎える御成りの場であり、和賀・稗貫地方を治める行政拠点でもありました。
これまでの調査から、御殿の範囲は東西約87メートル、南北約43メートルと推定されています。
御殿の下では、場所によって約55~130センチメートルの厚さを持つ整地層が確認されました。過去の調査区では、自然堆積層まで約1.5メートルに達する地点もあります。
城郭の平坦面を盛土によって造る方法は、山形市の飯田館跡でも確認されています。飯田館跡で確認された切土と盛土による城づくりと比較すると、地形に応じた造成技術の違いを理解しやすくなるでしょう。
これは、もとの地面の上に大量の土を盛り、本丸の平坦面を造ったことを意味します。
盛土には、本丸周辺の堀を掘った際の土が使われた可能性があります。堀の掘削と本丸の造成を組み合わせれば、土を効率的に利用できます。
現代風にいえば、掘削工事と造成工事を一体化した大規模な土地改良事業だったと考えられます。
御台所前御門・枡形・石垣を確認
あけぼの姫令和7年度の調査では、本丸の入口を守った御台所前御門と枡形、石垣が確認され、城門の具体像が見えてきました。
御台所前御門は、本丸御殿の台所施設に近い入口に設けられていた門です。
令和7年度(2025年度)の調査では、門柱を据えたと考えられる大型の礎石据付穴が確認されました。
構造は、二本の主柱と控え柱で屋根を支える薬医門であった可能性が示されています。
門前には、東西約20メートル、南北約5メートルの枡形が設けられていました。枡形とは、城門の前後を方形に区切り、攻め込んだ敵の動きを抑える防御空間です。
門周辺では野面積みの石垣も確認されました。自然石を大きく加工せず積む方法で、築城初期に造られた可能性があります。
ただし、石垣の構築を穴太衆の技術と直接結び付ける見解などは、現段階では推定です。
令和8年度に調べられた土塁や溝との位置関係が整理されれば、本丸入口から外周部までの防御設計を立体的に復元できるでしょう。
土塁内部から先行する築地塀を確認
あけぼの姫過去の調査では土塁内部から築地塀とみられる構造が確認され、築城以前の寺院との関係が注目されています。
令和7年度の調査では、後世の土塁に覆われた築地塀と考えられる構造が確認されました。
築地塀とは、土を層状に突き固めて造る塀です。確認部分は基底幅約2.5メートル、残存高約1.2メートル、上端幅約1メートルとされています。
本丸には、かつて瑞興寺が存在し、南部氏の支配開始後に現在の坂本町へ移されたという伝承があります。
このため、築地塀が寺院に関係する遺構である可能性も指摘されています。
しかし、伝承と遺構を直接結び付ける文字史料や決定的な出土品は確認されていません。現時点では「瑞興寺の塀」と断定せず、花巻城の土塁より前に存在した構造物として扱うのが適切です。
築地塀が寺院施設なのか、中世の鳥谷崎城に伴うものなのかによって、本丸一帯の歴史像は大きく変わります。
今回の土塁調査との比較は、先行施設が近世城郭へどのように取り込まれたのかを考える手掛かりになります。
今回の発見にはどのような歴史的意義がある?
新たに確認された遺構と遺物は、本丸外周の防御、建物の変遷、城内生活を総合的に復元する材料となります。
今回の成果で重要なのは、土塁・溝・遺物を個別に発見したことだけではありません。
本丸御殿を中心とした第1期調査に、本丸外周を対象とする第2期調査の成果が加わった点に意味があります。
御殿、門、枡形、石垣、土塁、溝の関係を検討することで、花巻城本丸を一つの空間として理解できるようになります。
今後の保存整備を考えるうえでも欠かせない基礎資料です。
本丸外周の防御構造を具体的に検討できる
あけぼの姫土塁と溝跡の位置や年代が明らかになれば、本丸をどのように守り、出入りを管理したのかを復元できます。
今回の調査は、本丸外周部の構造と変遷を明らかにする目的で行われました。
本丸は城の最重要区画ですが、御殿だけで成立していたわけではありません。門、石垣、塀、土塁、溝などが組み合わされ、外部からの進入を防いでいました。
特に花巻城では、三方の急崖を自然の防御として利用する一方、地続きとなる方向には人工的な施設を設ける必要がありました。
土塁上に塀や柵が設けられていたか、溝が土塁の内側と外側のどちらに位置するかによって、防御の仕組みは異なります。
また、すべての施設が同時に造られたとは限りません。鳥谷崎城から花巻城への改修、岩崎一揆後の防備強化、江戸時代の修築など、複数の工事が重なった可能性があります。
今後、土層の切り合い関係や出土品の年代が整理されれば、防御施設が造られた順序を具体的に検討できるでしょう。
出土品から建物と城内生活を読み解く
あけぼの姫陶磁器や瓦、和釘、古銭を組み合わせれば、本丸の建物、食生活、流通、改修の時期を多角的に考えられます。
城内生活を復元するには、建物跡だけでなく、そこで使われた品々を調べる必要があります。
陶磁器の産地や器種からは、食事、貯蔵、茶の湯などの様子を推測できます。遠隔地で作られた陶磁器があれば、花巻が広域流通と結ばれていたことを示す材料になります。
瓦は、屋根を持つ建物の存在や格式を考える手掛かりです。過去の調査では、南部家の家紋に関係する向鶴文の軒丸瓦も本丸から確認されました。
和釘は、門や御殿、塀などの木造建築に用いられた可能性があります。形状や出土位置を調べることで、建物の解体や改修との関係を検討できます。
古銭は城内での金銭使用を示す可能性がありますが、意図的に埋められたものか、偶然失われたものかを見極めなければなりません。
複数の遺物を遺構と結び付けることで、城内の具体的な活動が見えてきます。
詳しい年代と性格の解明は今後の課題
あけぼの姫今回の発表は重要な速報ですが、遺構の年代や溝の役割、出土品との関係は正式な調査報告での検討が必要です。
発掘調査では、何かが「見つかった」という情報と、それが「何であるか」という解釈を分けて考える必要があります。
今回、土塁・溝跡・陶磁器・瓦・和釘・古銭が確認されたことは、花巻市の発表によって確かめられます。
一方、土塁が最初に築かれた年代、溝が防御用か排水用か、出土品がどの建物に伴うのかについては、速報だけでは判断できません。
今後は、遺構の測量図、土層断面、陶磁器や瓦の編年、過去の絵図や文献史料を照合する必要があります。
土塁内部に複数の工事段階が認められれば、鳥谷崎城から花巻城への改修過程を細かく分けられるかもしれません。
また、調査成果は花巻城の保存計画や史跡整備を検討する基礎となります。
城跡の研究では、一つの遺構だけでなく、周辺の城や地形、文献史料を組み合わせることが重要です。羽衣石城・十万寺城・番城を一体的に捉えた調査も、城の役割を広い視点から見直した事例です。
遺構を安全に保存しながら、その価値を来訪者へどのように伝えるかも、今後の重要な課題です。
まとめ
①本丸跡で土塁・溝跡と多様な遺物を確認
令和8年度(2026年度)の花巻城本丸跡発掘調査では、西辺部・南辺部の土塁と溝跡が確認されました。
陶磁器、瓦、和釘、古銭も出土しており、本丸の防御施設、建築物、城内生活を考える新たな材料となります。
ただし、溝の具体的な役割や遺構の年代は速報段階では明らかになっていません。今後公表される正式な調査成果に注目する必要があります。
②花巻城は鳥谷崎城を基礎として改修された
花巻城の前身は、稗貫氏の本拠であった鳥谷崎城です。
天正18年(1590年)の奥州仕置後、この地域は南部氏の領地となり、北秀愛(きた ひでちか)と北信愛が城郭と城下町の整備を進めました。
河岸段丘の急崖や河川を防御に利用しながら、土塁、堀、石垣などを加えた近世城郭へ造り替えられたと考えられています。
③過去の調査から御殿・城門・造成方法が判明
平成30年度(2018年度)以降の調査では、本丸御殿の範囲や厚い整地層、御台所前御門、枡形、石垣などが確認されました。
土塁内部では、それより古い築地塀とみられる構造も見つかっています。
今回の土塁・溝跡を過去の成果と結び付ければ、本丸御殿を守った外周施設と、城の改修順序をより具体的に復元できる可能性があります。
④今回の成果は保存整備にもつながる
今回の発見は、花巻城本丸の防御構造と変遷を解明するだけでなく、将来の保存・整備に必要な基礎資料となります。
一方、遺構の性格や年代を確定するには、地層、出土品、城絵図、文献史料を総合的に検討しなければなりません。
確認された事実と研究上の推定を分けながら、今後の調査報告や追加発掘を見守ることが大切です。
参考資料
Webサイト・公的機関の解説
花巻市の令和8年度 花巻城本丸跡発掘調査現地説明会の案内では、今回確認された遺構と出土品を確認しました。
本丸外周部の調査目的や前年度の成果については、花巻市が公開する令和7年度 花巻城本丸跡内容確認調査の結果を参照しました。
城の立地や縄張り、本丸御殿、整地層、出土瓦については、同市の令和5年度 花巻城本丸跡内容確認調査の結果で確認しました。
花巻城の前身と南部氏による改修については、花巻市の花巻城跡散策を参照しました。
本丸の歴史的背景と初期調査の成果については、花巻市の平成30年度・令和元年度 花巻城本丸跡内容確認調査の結果で確認しました。

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