国史跡・羽衣石城跡の最新調査と「秀吉の鳥取攻め」を紹介

戦国史トピックス

国史跡・羽衣石城跡とは?最新調査で見えた秀吉の鳥取攻め

鳥取県湯梨浜町に残る羽衣石城跡は、戦国大名・南条氏が本拠とした東伯耆屈指の山城です。

最新の総合調査では、山頂部の曲輪や出土品だけでなく、周辺に築かれた十万寺城・番城との関係も見直されました。

とりわけ注目されているのが、天正9年(1581年)に羽柴秀吉が進めた鳥取城攻めとの接点です。

最新調査から、羽衣石城をめぐる攻防と秀吉の山陰戦略を分かりやすく読み解きます。

読了時間:約20分

目次

羽衣石城跡の最新調査を紹介するミニ講演

国史跡への指定と総合調査の成果を受け、羽衣石城を秀吉の鳥取城攻めと結び付けて紹介する講演が開催されます。

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羽衣石城跡(うえしじょうあと)は、令和8年(2026年)2月17日に周辺の二城とともに国史跡へ指定されました。

それに先立ち、湯梨浜町は地形測量や発掘調査、文献調査の成果をまとめた総合調査報告書を刊行しています。

今回の講演では、城の姿を紹介するだけでなく、秀吉と毛利方の動きを踏まえて羽衣石城攻防戦を再検討します。

地域の城跡から鳥取城攻めの舞台裏に迫る点が、講演の大きな特徴です。

「お城EXPO in 熊本」で最新成果を紹介

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令和8年(2026年)10月に開催される催しで、羽衣石城跡の調査成果と鳥取城攻めとの関係が解説されます。

令和8年(2026年)10月3日・4日に開催される「お城EXPO in 熊本」では、湯梨浜町によるミニ講演が予定されています。

演題は「最新調査で蘇る羽衣石城攻防戦―秀吉の鳥取攻めの舞台裏に迫る」です。

講師は、湯梨浜町教育委員会で文化財を担当する尾川伸弘氏です。城郭研究者の加藤理文氏もゲストとして登壇します。

講演は10月3日が午後3時から、4日が午後2時15分からで、それぞれ約30分の予定です。

予約不要・聴講無料ですが、座席は各回先着30人とされています。参加を予定する場合は、直前に開催状況を確認すると安心です。

開催時間や会場については、湯梨浜町の公式案内で最新情報を確認できます。

羽衣石城跡と周辺二城が国史跡に指定

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今回の指定では羽衣石城だけでなく、十万寺城と番城も一体的な城跡群として評価された点が重要です。

令和8年(2026年)2月17日、羽衣石城跡 附 十万寺城跡 番城城跡が国史跡に指定されました。

羽衣石城は南条氏の本城ですが、その防衛や救援を考えるうえでは、周辺の山城も見逃せません。

南側の十万寺城と北東側の番城を合わせて見ると、一つの山城だけでは分からなかった広域的な防御体制が浮かびます。

また、羽衣石城からは日本海や東郷池、羽合平野、北条平野などを広く見渡せます。

陸上・水上交通を監視できる位置に築かれた点も、東伯耆を支配する拠点として重視された理由です。

指定内容は、文化庁の国指定文化財等データベースで確認できます。

214ページの総合調査報告書を刊行

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測量・発掘・史料調査をまとめた報告書は、羽衣石城を城郭と歴史の両面から考える基礎資料となりました。

湯梨浜町は令和7年(2025年)、『羽衣石城跡及び付城跡群総合調査報告書』を刊行しました。

報告書は全214ページで、地形測量、発掘調査、縄張り、出土品、文献史料などの成果が収録されています。

縄張りとは、曲輪・堀・土塁などをどのように配置したかを示す、城全体の設計です。

現地に残る地形だけでなく、地下の遺構や陶磁器などを照合することで、城が使われた時期や場所ごとの役割を検討できます。

さらに、新たに紹介された史料も含まれており、羽衣石城を秀吉の鳥取城攻めと結び付けて考える材料になりました。

羽衣石城はどのような山城だった?

羽衣石城は南条氏が約230年にわたって本拠とした山城で、複数の曲輪群を備えた大規模な城郭でした。

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羽衣石城は、標高約372メートルの羽衣石山に築かれています。

山頂の主郭を中心に複数の尾根へ曲輪が広がり、地形を利用した防御性の高い構造を備えていました。

城下の平地からは急峻な山城に見えますが、山頂からは東伯耆の平野や水上交通路を監視できます。

単なる避難場所ではなく、南条氏の政治・軍事・交通支配を支えた本拠だったと考えられます。

南条氏が東伯耆支配の本拠とした城

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羽衣石城は貞治5年(1366年)に築かれたと伝わり、戦国時代には南条氏の領国支配を支えました。

伝承によれば、羽衣石城は貞治5年(1366年)、南条氏の祖とされる南条貞宗によって築かれました。

貞宗は、鎌倉幕府滅亡期に活躍した塩冶高貞の子であったとも伝えられます。

ただし、中世前期の築城経緯には後世の伝承が含まれるため、築城年や人物関係を確定的な史実として扱うのは慎重であるべきです。

その後、羽衣石城は約230年にわたり南条氏の本拠として使用されたと考えられています。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後、南条氏が改易されると城も役割を終えました。

山城が長期間利用された事実は、南条氏が東伯耆で一定の地域支配を継続したことを示しています。

山頂の主郭から尾根へ曲輪群が広がる

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山頂の主郭を中心として複数方向へ曲輪が延び、斜面と尾根を利用した複雑な防御空間が形成されていました。

羽衣石城の主郭は山頂部にあり、東西約66メートルに及ぶ細長い平坦地です。

曲輪とは、山を削ったり土を盛ったりして造った、建物・兵士・物資などを置くための平坦な区画です。

主郭から北西方向へ多数の曲輪が連なり、さらに二ノ上ノ谷、八幡平、上中谷と呼ばれる曲輪群が放射状に展開しています。

一つの山頂だけを守るのではなく、尾根筋や谷への接近経路を段階的に押さえる構造でした。

このような曲輪の配置は、兵士の移動や物資の保管、敵の侵入に備えた防御など、場所ごとに異なる役割があった可能性を示します。

最新調査では、個々の曲輪だけでなく、山全体を城として利用した姿が明らかになりつつあります。

出土品から戦国期の城内生活を読み解く

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陶磁器や土師器、建物の痕跡は、南条氏の時代に城内で営まれた軍事活動と日常生活を伝えています。

発掘調査では、羽衣石城跡から16世紀を中心とする陶磁器や土師器が確認されました。

土師器とは、古代から中世にかけて広く使われた素焼きの土器で、皿や煮炊き用具などに用いられました。

八幡平の曲輪群では、礎石や柱穴に加え、天目茶碗など茶に関係する遺物も見つかっています。

これらは、城内に建物があり、武士たちが一定期間生活していたことを考える手掛かりです。

一方、主郭では瓦が確認されていないため、建物が存在したとしても、板葺きや草葺きだった可能性があります。

出土品は華やかな天守の姿を復元するものではなく、戦国期の実用的な山城生活を具体的に伝える資料なのです。

現在の模擬天守は戦国時代の建物ではない

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山頂に立つ天守風建築は景観の象徴ですが、南条氏の時代に存在した天守を復元したものではありません。

現在、羽衣石城跡(うえしじょうあと)の山頂には白壁の天守風建築が立っています。

最初の建物は昭和6年(1931年)、南条氏の子孫にあたる人物によって建てられました。

現在見られる建物は、平成2年(1990年)に再建された模擬天守です。

模擬天守とは、城跡の象徴や展望施設などを目的として、史料に基づく厳密な復元とは別に建てられた天守風建築を指します。

戦国時代の羽衣石城に、現在と同じ形の天守が存在したことを裏付ける史料や遺構は確認されていません。

見学の際は、現在の建物と地下に残る本来の城跡を分けて理解することが大切です。

羽衣石城と秀吉の鳥取城攻め

天正9年(1581年)の鳥取城攻めは鳥取城だけの戦いではなく、羽衣石城を含む広い地域で展開しました。

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羽柴秀吉は織田信長の命を受け、毛利氏の勢力圏であった中国地方へ侵攻しました。

東伯耆の羽衣石城は、織田方へ転じた南条元続の本拠であり、毛利方にとって見過ごせない存在でした。

吉川元春は鳥取城救援に向かう過程で羽衣石城を圧迫し、秀吉も南条氏を支えるため軍を動かします。

そのため羽衣石城周辺は、織田・毛利両勢力の境界をめぐる重要な舞台となりました。

南条元続が毛利氏から織田方へ転じる

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南条氏の離反によって羽衣石城は毛利方の勢力圏に浮かぶ織田方の拠点となり、緊張が高まりました。

天正3年(1575年)に家督を継いだ南条元続(なんじょう もとつぐ)は、当初、毛利氏と協力関係にありました。

南条氏は尼子氏の衰退後、毛利氏の影響下に入り、東伯耆の支配を維持していたとみられます。

ところが、元続は天正7年(1579年)に毛利氏から離反し、織田信長方へ転じました。

これにより、羽衣石城は毛利方の領域に近接する織田方の前線拠点となります。

毛利氏の山陰方面軍を率いた吉川元春にとって、背後や補給路を脅かしかねない南条氏の存在は大きな問題でした。

元続の決断は単なる主君の変更ではなく、羽衣石城を大規模な地域紛争へ巻き込む転換点になったのです。

秀吉は兵糧攻めで鳥取城を包囲

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秀吉は鳥取城を力攻めで攻略するのではなく、周囲を封鎖して兵糧を断つ包囲戦を進めました。

天正9年(1581年)、羽柴秀吉は二万を超えるともいわれる軍勢を率いて因幡へ進みました。

秀吉軍は鳥取城の周囲に陣城を築き、人や物資の出入りを厳しく遮断します。

陣城とは、合戦時に軍勢が駐屯し、敵城の監視や包囲を続けるために築いた臨時の城です。

鳥取城には吉川経家が城番(城の守備・管理を担う役目)として入りましたが、城内の食料は十分ではありませんでした。

包囲が長引くにつれて飢餓が深刻化し、経家は城兵や住民の命を救うため開城を決断します。

鳥取城攻めは「兵糧攻め」の代表例として知られますが、その背後では羽衣石城をめぐる駆け引きも続いていました。

吉川元春は羽衣石城を圧迫した

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鳥取城を救援しようとした吉川元春は、進路上の脅威となる羽衣石城への対応を迫られました。

毛利方の吉川元春は、鳥取城の救援を目指して伯耆から東へ軍を進めました。

しかし、進軍経路の近くには織田方へ転じた南条元続の羽衣石城がありました。

羽衣石城を残したまま因幡へ進めば、側面や背後を攻撃される危険があります。

このため元春は、鳥取城へ直行するのではなく、まず羽衣石城周辺に軍事的な圧力を加えたと考えられます。

天正9年(1581年)10月25日には、元春が東郷池の対岸に位置する馬ノ山へ進出しました。

鳥取城をめぐる戦いは、一つの城を包囲する攻城戦にとどまらず、因幡・伯耆の複数拠点をめぐる広域戦だったのです。

秀吉と吉川元春が東郷池周辺で対峙

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鳥取城開城後、秀吉は羽衣石城を支援するため東伯耆へ進み、吉川元春と向き合ったと伝わります。

鳥取城が開城したのち、羽柴秀吉は南条元続と弟の小鴨元清(こがも もときよ)から救援を求められました。

江戸時代に編纂された地誌によると、秀吉は天正9年(1581年)10月27日に「高山」と呼ばれる場所へ進みました。

一方の吉川元春は、東郷池西岸の馬ノ山に布陣していたとされます。

後世の記録には秀吉軍が数万、元春軍が六千ほどだったとの記述がありますが、兵数をそのまま史実とみなすことはできません。

両軍の間で大規模な決戦は起こらず、秀吉は羽衣石城へ食料や弾薬を届けたのち撤収しました。

元春も軍を引いたため、羽衣石城は当面の危機を脱したと考えられます。

十万寺城と番城が示す歴史的意義

周辺の二城を含めて検討すると、羽衣石城が単独ではなく、複数の拠点によって支えられていた可能性が見えてきます。

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十万寺城(じゅうまんじじょう)は羽衣石城の南側、番城は北東側に位置しています。

いずれも大規模な土塁や堀切などを備え、羽衣石城をめぐる戦時の緊張と深く関係したと考えられます。

とくに十万寺城については、秀吉が南条氏を救援するために利用した城ではないかという説が示されています。

この二城の調査により、羽衣石城を中心とする城郭群の役割が再評価されました。

十万寺城は秀吉の救援拠点だった?

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織田・豊臣系城郭にみられる特徴から、十万寺城を秀吉の「高山」とする新しい見方が示されています。

十万寺城跡は、羽衣石城から南へ約850メートル、標高約432メートルの山上にあります。

主郭はおよそ70メートル四方に及び、東側や北西側には大規模な堀切が設けられています。

堀切とは、敵が尾根伝いに接近できないよう、尾根を断ち切る形で掘られた溝です。

城内には織田・豊臣系の築城技術と共通する可能性がある構造も認められています。

このため、秀吉が羽衣石城へ物資を届ける際に築いた、または利用した救援拠点ではないかという説が浮上しました。

江戸時代の地誌に登場する秀吉の陣所「高山」を、従来説の御冠山ではなく十万寺城に比定する見方です。

ただし、秀吉の築城を直接証明する同時代史料はなく、現段階では有力な研究仮説の一つです。

番城は羽衣石城の北方を監視した可能性

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北東の高所に築かれた番城は、羽衣石城へ近づく敵や東郷池周辺の動きを監視できる位置にあります。

番城跡は羽衣石城の北東約450~500メートル、標高約400メートルの山上にあります。

城名の「番」には、見張りや警戒を担う場所だったことを連想させる響きがあります。

山頂付近には複数の曲輪が置かれ、その周囲には帯曲輪状の平坦地も確認されています。

帯曲輪とは、山腹を帯のように取り巻く細長い曲輪で、敵の横移動を妨げたり、防御兵を配置したりする空間です。

番城からは、羽衣石城の北側や東郷池周辺の交通を監視できたと考えられます。

具体的な築城者や使用年代には検討の余地がありますが、羽衣石城の北方防衛を補助した可能性が指摘されています。

三つの城を一体として考える意味

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羽衣石城・十万寺城・番城を結ぶことで、戦国期の山城が拠点のネットワークとして機能した姿が見えてきます。

従来、羽衣石城は南条氏の本拠という単独の城として紹介されることが少なくありませんでした。

しかし、南側の十万寺城と北東側の番城を地形上に配置すると、それぞれが異なる方向を受け持つ構造が浮かびます。

本城は支配と籠城の中心、番城は監視や北方防御、十万寺城は南方の防衛または外部からの救援拠点だった可能性があります。

これらの役割は完全に確定したわけではありませんが、三城を一体的に調べることで戦時の運用を具体的に検討できます。

国史跡の指定名称に二城が「附」として含まれたのも、羽衣石城の歴史を理解するうえで欠かせない遺跡だからです。

一城だけでなく城同士の関係を見ることが、最新の城郭研究における重要な視点となっています。

確認された事実と研究上の仮説を分ける

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調査成果を理解するには、遺構や出土品で確認された事実と、史料から導かれた解釈を区別する必要があります。

発掘・測量調査により、十万寺城跡に大規模な曲輪、土塁、堀切などが存在することは確認されています。

羽衣石城や馬ノ山を見渡せる位置にあることも、地形から確かめられる事実です。

一方、十万寺城を秀吉の陣所「高山」とみなし、秀吉が築いた救援用の城とする説は研究上の解釈です。

立地や縄張りは説を支える材料ですが、築城者と年代を直接示す同時代の文書は現在のところ確認されていません。

今後、発掘調査で年代を絞り込める遺物や建物跡が見つかれば、仮説の検証が進む可能性があります。

「分かったこと」と「これから確かめること」を分けて読む姿勢こそ、最新調査を楽しむ鍵になります。

まとめ

羽衣石城の最新調査は、南条氏の本拠という従来の理解を広げ、鳥取城攻めとの関係を考える材料を示しました。

国史跡となったのは羽衣石城だけではなく、十万寺城・番城を含む城跡群です。

三つの城を一体的に見ることで、南条氏の領国支配、毛利氏との攻防、秀吉による救援の可能性がつながります。

一方、十万寺城と秀吉の関係には未確定の部分が残されています。

今回の成果は、結論を示すだけでなく、新たな研究課題を提示した点にも意義があります。

①最新調査の成果は講演と報告書で確認できる

令和8年(2026年)のミニ講演では、総合調査によって更新された羽衣石城像が分かりやすく紹介されます。

羽衣石城跡では、地形測量、発掘、縄張り、文献史料を組み合わせた総合調査が進められました。

その成果は全214ページの調査報告書にまとめられ、国史跡指定を支える重要な資料となっています。

「お城EXPO in 熊本」のミニ講演では、調査を担当した湯梨浜町教育委員会の専門職員が成果を解説します。

専門的な報告書を読む前に、城の構造や鳥取城攻めとの関係をつかめる機会です。

現地を訪れる場合にも、城の見方を深める予備知識になるでしょう。

②羽衣石城は南条氏の支配を支えた山城

羽衣石城は急峻な山上の要塞であると同時に、東伯耆の交通と地域支配を担った政治的な拠点でした。

南条氏は羽衣石城を中心として、東伯耆に長期間にわたる勢力基盤を築きました。

山頂の主郭から尾根へ展開する曲輪群は、兵士や建物、物資を複数の区画へ配置できる構造です。

陶磁器や土師器、天目茶碗などの出土品は、城内で軍事活動だけでなく日常生活も営まれていたことを伝えます。

現在の模擬天守だけを見るのではなく、曲輪・堀・斜面などの地形を観察すると、本来の山城の姿を想像できます。

③鳥取城攻めは羽衣石城にも及ぶ広域戦だった

秀吉の鳥取城攻めを理解するには、包囲された鳥取城だけでなく、伯耆方面の動きにも目を向ける必要があります。

天正9年の鳥取城攻めでは、秀吉軍が鳥取城を包囲する一方、吉川元春は救援のため東進しました。

その途中にあったのが、毛利氏から離反して織田方へ転じた南条元続の羽衣石城です。

鳥取城開城後には、秀吉と元春が東郷池周辺で向き合い、秀吉が羽衣石城へ物資を供給したと伝わります。

この経過から、鳥取城攻めが因幡だけで完結せず、伯耆を含む広い地域で進められた戦争だったことが分かります。

④十万寺城の性格は今後も検証が必要

十万寺城を秀吉の救援拠点とする説は魅力的ですが、現段階では確定した史実ではありません。

十万寺城跡には大規模な堀切や土塁があり、羽衣石城と馬ノ山を意識したと考えられる位置にあります。

その構造や眺望から、秀吉が布陣した「高山」に比定し、南条氏への物資供給に使われたとする説が示されました。

しかし、秀吉による築城を直接証明する文書や、築城年代を確定できる考古資料はまだ十分ではありません。

今後の発掘調査や史料研究によって、築城者、年代、具体的な使用目的が明らかになることが期待されます。

参考資料

Webサイト・公的機関の解説

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