飯田館跡の曲輪はどう造られた?第2次発掘調査の成果を解説
山形市南部の丘陵に残る飯田館跡で、第2次発掘調査が行われました。
今回注目されたのは、華やかな武具や装飾品ではありません。曲輪の地下に残された地山や盛土から、中世の人々が斜面を平坦に整えた過程が見えてきました。
土の重なりは、完成した城の姿だけでは分からない築城工事の痕跡です。
本記事では、令和8年度(2026年度)の調査成果を中心に、曲輪の意味や造成方法、飯田播磨守(いいだ はりまのかみ)との関係、発見の歴史的意義を分かりやすく解説します。
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飯田館跡第2次発掘調査で何が分かった?
令和8年度(2026年度)の調査では、西側の小曲輪と北・東側の斜面を掘り下げ、館を造成した際の整地状況が確認されました。

飯田館跡は、山形県山形市大字飯田に所在する中世の城館跡です。
第2次発掘調査は、急傾斜地で進められる土砂災害対策事業に伴って、令和8年(2026年)6月から実施されました。
今回の成果は、曲輪の形を確認しただけではありません。地山の上に人工的な土を加え、傾斜地を平坦に整えた過程が明らかになった点に大きな特徴があります。
土砂災害対策事業に伴って行われた発掘調査
あけぼの飯田館跡の発掘は、急傾斜地で行われる土砂災害対策事業に先立ち、地下に残る遺構を記録して保存するために実施されました。
飯田館跡第2次発掘調査は、遺跡そのものを調べる目的だけで始まったのではありません。
工事によって遺構へ影響が及ぶ可能性があるため、事前に遺構や土層、出土品の位置と状態を記録する必要がありました。
このような調査は「記録保存のための発掘調査」と呼ばれます。遺構を現地で残せない場合でも、図面、写真、測量データ、出土品を保存し、将来の研究へつなげます。
公益財団法人山形県埋蔵文化財センターの 令和8年度発掘調査遺跡一覧 によると、調査予定期間は6月から10月までです。
調査区には急斜面も含まれるため、細長い調査溝であるトレンチを設け、安全を確保しながら地層の重なりが調べられました。
西側の小曲輪と北・東側の斜面を調査
あけぼの第2次調査では、館の中心部だけでなく、小規模な平坦面や曲輪の縁、斜面に残された造成の痕跡が詳しく調べられました。
曲輪とは、城内に設けられた区画のことです。「郭」と表記される場合もあります。
曲輪には建物や柵を設けるほか、兵士の配置、物資の保管、城主や家臣の生活など、さまざまな役割がありました。
今回調査された西側の小曲輪では、柱穴と思われる遺構が確認された平場を、半分ずつ掘り下げています。
北側では、主郭から一段低い平坦地の斜面際にトレンチを設定しました。東端に位置する比較的広い平場も調査対象となっています。
飯田館跡第2次の発掘調査速報 では、場所によって土層の重なり方が異なることも報告されています。
館の全域が一度に同じ方法で造られたとは限りません。複数地点の調査成果をつなぐことで、曲輪ごとの造成方法や役割が見えてくる可能性があります。
地山の上に土を盛って曲輪を造成
あけぼの曲輪の断面では、自然の地盤である地山の上に別の土を重ね、北から南へ低くなる地形を平坦に整えた痕跡が確認されました。
発掘調査速報によると、曲輪の下部から黄色い地山が確認されました。
地山とは、人の手によって動かされていない自然の地盤です。その上には一つの層を挟み、地形を整えるために盛られたと考えられる土がありました。
地山の高さや傾きを調べることで、造成前の地形を推定できます。
今回の調査では、もとの地形が北側から南側へ向かって、緩やかに低くなっていたと考えられています。
そこで低い部分へ土を加え、建物を設置したり、人が活動したりできる平坦面へ造り替えたのでしょう。
ただし、人工的な盛土が確認された一方、その年代は確定していません。山形県埋蔵文化財センターも、土を盛った時期は今後検討するとしています。
したがって、この盛土を飯田播磨守による築城工事と直ちに結び付けることはできません。
曲輪はどのように造成されたのか
飯田館跡の土層からは、傾斜した自然地形を削り、低い部分へ土を加えることで、活動に適した平坦面を造った様子が読み取れます。

中世の城づくりでは、高い部分を削る切土と、低い部分へ土を加える盛土が組み合わされました。
飯田館跡では、黄色い地山、旧表土とみられる黒色層、固く締まった整地層などが確認されています。
それぞれの土層が重なる順番を調べることで、自然の斜面が曲輪へ変わり、その後に建物や穴が造られた過程を検討できます。
曲輪とは城の機能を支えた平坦な区画
あけぼの曲輪は中世城館を構成する基本的な区画であり、建物や兵士を配置できるように、山や丘の斜面を加工して造られました。
戦国時代の城というと、天守や高い石垣を思い浮かべるかもしれません。
しかし、東北地方を含む中世城館の多くは、自然の山や丘を利用し、土を主体として築かれていました。
主郭は城主の居所や指揮所などが置かれた中心的な曲輪です。その周囲には、一段低い曲輪や小曲輪が配置されました。
各曲輪は独立して存在するのではなく、通路や虎口で結ばれ、城全体の防御や生活を支えていました。
山の斜面に曲輪を設けるには、高い側を削り、低い側へ土を移す方法が効率的です。
削り出した土を盛土として再利用すれば、遠くから大量の土を運ばなくても平坦面を広げられます。
飯田館跡で確認された盛土は、現在の平坦な地形が、中世以来の土木工事によって生み出された可能性を示しています。
切土と盛土を組み合わせた城づくり
あけぼの曲輪の造成では、斜面の高い部分を削る切土と、低い部分を埋める盛土を組み合わせ、必要な広さと高さを確保しました。
盛土とは、低い場所をかさ上げしたり、傾斜を緩やかにしたりするために運び込まれた土です。
一方の切土は、斜面や丘を削り、必要な高さや形へ整える工事を指します。
現代風にいえば、傾斜地を造成し、住宅や施設を建てられる敷地に変える工事に近いでしょう。
ただし、当時は重機を利用できません。土を掘り、運び、締め固める作業の大部分を、人力で行う必要がありました。
盛っただけの土は、自然の地盤よりも崩れやすくなります。そのため、土を小分けにして重ね、踏み固めるなどの工夫が必要でした。
飯田館跡の曲輪が築城時の造成であると確認できれば、城主が動員できた労働力や、工事を指揮した組織についても考えられます。
土の構造は、城を築いた人々の技術と動員力を示す重要な資料なのです。
整地層と旧表土から工事の順序を読む
あけぼの東端の平場では、旧表土と考えられる黒色層と現在の表土の間に、人の手で締め固められた可能性のある整地層が確認されました。
発掘調査では、土の色、硬さ、粒の大きさ、含まれる石や遺物などを観察します。
自然に堆積した土と、人が運んで締め固めた土では、色や硬さ、含まれるものが異なるためです。
飯田館跡の10区では、旧表土と考えられる黒色層の上に、固く締まった整地層が確認されました。
さらに、整地層の上面から掘り込まれた遺構も見つかっています。
この上下関係から、最初に地面が整えられ、その後に穴などの遺構が造られたと判断できます。
ただし、旧表土や整地層の正確な年代は明らかになっていません。すべての整地層が、中世の館造成に伴うとも限りません。
廃城後に畑や作業場として利用するため、土を入れ直した可能性もあります。
盛土内の陶磁器や周辺遺構を分析し、各層の形成時期を絞り込むことが今後の課題です。
飯田館を築いたと伝わる飯田播磨守
飯田館は、天正年間に山形南部へ移った飯田播磨守が築いたと伝えられ、最上氏と上杉氏が争った慶長出羽合戦にも関わる城館です。

飯田播磨守は、もとは村山郡北部を本拠とした武将で、のちに最上義光へ従ったとされています。
飯田館は山形城の南方に位置し、地域支配や周辺交通路の監視を担った可能性があります。
ただし、今回の発掘で築城者の名前が記された資料が出土したわけではありません。人物伝承と考古学的成果を分けて考える必要があります。
飯田播磨守はどのような武将だった?
あけぼの飯田播磨守は実名が分からない武将ですが、天童氏を中心とする国人領主の連合に属した後、最上義光へ従ったと伝えられています。
飯田播磨守の「播磨守」は官途名と呼ばれる称号です。
守は本来、朝廷の地方官を示す役職ですが、戦国武将が権威や家格を示すため、自ら名乗ることもありました。
飯田播磨守の実名は分かっていません。
山形おきたま観光協議会による 最上家の武将たち では、飯田播磨守は「天童八楯」の一員だったと紹介されています。
天童八楯とは、天童氏を盟主とし、村山地方で連携した国人領主の集団です。
その後、飯田播磨守は最上義光へ従い、天正年間に村山郡南部へ移され、飯田館を築いたと伝えられています。
ただし、これは文献や地域伝承に基づく歴史像です。今回確認された盛土が、飯田播磨守の工事によるものかは確定していません。
最上義光による山形南部の支配
あけぼの飯田播磨守が山形南部へ移ったとすれば、その背景には、最上義光が家臣を要地へ配置し、領国支配を強める動きがあったと考えられます。
最上義光は山形城を本拠とし、村山地方を中心に勢力を広げた戦国大名です。
義光は周辺の国人領主と戦うだけでなく、婚姻、調略、家臣化などの方法を使い、最上氏を中心とする支配体制を築きました。
飯田館の周辺には、成沢城、谷柏館、長谷堂城などの城館が存在しました。
これらの城館は、それぞれが独立していたのではなく、地域支配や軍事行動のなかで連携していたと考えられます。
飯田館も、山形城南方の地域を管理し、上山方面や長谷堂方面へ続く交通路を監視する拠点だった可能性があります。
ただし、立地だけを根拠に軍事的な役割を断定することはできません。
平時には領主の居所として、年貢の管理、命令の伝達、地域内の争いの処理などを担ったことも考えられます。
慶長出羽合戦で迎えた飯田播磨守の最期
あけぼの慶長5年(1600年)、上杉軍が最上領へ侵攻すると、飯田播磨守は畑谷城救援へ向かい、退避する人々を守って討死したと伝わります。
慶長出羽合戦は、関ヶ原の戦いと同じ慶長5年(1600年)に起こりました。
東軍に属した最上義光と、西軍側の上杉景勝が、出羽国を舞台に戦った一連の合戦です。
上杉方では、執政(主君を補佐して政治・軍事を統括した役職)の直江兼続が軍勢を率い、最上領へ進攻しました。
飯田播磨守は、上杉軍に包囲された畑谷城を救援するため、谷柏直家(やがしわ なおいえ)らと出陣したとされます。
しかし、途中で畑谷城が落城したことを知りました。
伝承によると、播磨守は逃れてくる領民を退避させるために踏みとどまり、追撃する上杉軍と戦って討死したといいます。
この人物伝は飯田館の背景を理解するうえで重要です。
一方、今回の発掘成果は、合戦の痕跡や播磨守の居住を直接証明したものではありません。
今回の発見が持つ歴史的意義
盛土と整地層の発見は、飯田館の範囲だけでなく、築城に必要だった労働力、造成計画、廃城後の土地利用を考える手掛かりになります。

今回の成果は、完成した曲輪の位置を確認しただけではありません。
造成前の斜面と人工的な盛土を区別できたことで、どの方向へ曲輪を広げたのかを検討できるようになりました。
また、江戸時代の陶磁器も出土しており、館が廃された後も、平坦な土地が別の目的で利用されたことが分かっています。
完成した曲輪ではなく造る過程が見えてきた
あけぼの曲輪の表面だけを見ても、造成前の地形や投入された土の量は分かりません。土層の断面から、館を築く工程の一部が見えてきました。
城跡を地表から眺めると、曲輪は最初から平坦な土地だったように見えることがあります。
しかし、地下を掘って断面を観察すれば、自然の地盤を削った部分と、別の場所から土を運んで盛った部分を区別できます。
飯田館跡では、北側から南側へ低くなる地形に土を加え、平坦面を造った可能性が示されました。
これは、館を築いた人々が自然地形をそのまま利用しただけではなく、目的に合わせて積極的に改変したことを示します。
造成工事には、土を掘る人、運ぶ人、締め固める人、作業を指揮する人が必要です。

曲輪の規模や盛土の量が分かれば、築城を支えた集団の大きさや、城主が動員できた労働力を考える材料にもなります。
整地方法の解明は、城主の権力が実際の土木工事として現れた姿を探るうえで重要です。
廃城後も続いた土地利用が明らかに
あけぼの発掘調査では江戸時代の陶磁器も出土し、城館として使われなくなった後も、曲輪や斜面が別の目的で利用されたことが分かりました。
江戸時代の土地利用を示す資料として、調査区から18世紀代を中心とするとみられる陶磁器が出土しています。
東端の平場では、近世から近代までの遺物も確認されました。
前年度の調査では、17世紀前半に作られた肥前陶器も見つかっています。
城館としての役割を失ったからといって、その土地が直ちに放棄されるとは限りません。
平坦に造成された曲輪は、畑、作業場、住居に関係する空間などへ転用しやすかったと考えられます。
実際に前年度の調査区では、後世に畑を造るため、岩盤を改変した痕跡も確認されました。
こうした改変は中世の遺構を壊す場合がありますが、地域の人々が土地をどのように使い続けたかを示す歴史資料でもあります。
飯田館跡には、中世から近代まで続く土地の履歴が重なっているのです。
盛土の年代と館主との関係は今後の課題
あけぼの人工的な造成は確認されましたが、すべてを飯田播磨守の築城工事と結び付けることはできず、出土品や土層の分析が待たれます。
今回の発掘で確実にいえるのは、人の手で土が盛られ、地形が改変されたことです。
一方、盛土が行われた年代や、工事を命じた人物までは明らかになっていません。
年代を考える手掛かりとなるのが、盛土や整地層に含まれる土器・陶磁器です。
ある年代に製作された遺物が盛土の内部から出土すれば、造成は少なくともその年代以降と考えられます。

ただし、古い遺物が周囲の土と一緒に運び込まれることもあります。一点の遺物だけで、造成年代を確定することはできません。
柱穴などの遺構との重なり、複数地点の土層、出土品の組み合わせを比較する必要があります。
今後公表される発掘調査報告書では、盛土の年代と飯田館の成立過程が、どこまで絞り込まれるかが注目されます。
まとめ
飯田館跡の第2次調査では、曲輪を支える盛土と整地層が確認され、中世の人々が地形を改変して館を造った過程が見えてきました。
今回発見されたのは、目を引く武具や装飾品ではなく、城館の地下に残された土の構造です。
曲輪の造成、飯田播磨守との関係、廃城後の土地利用という視点から見ると、飯田館が長い土地の歴史を残す遺跡だと分かります。
最後に、本記事で取り上げた四つのポイントを整理します。
①第2次調査で曲輪の造成方法が見えてきた
西側の小曲輪と北・東側の斜面を調査したことで、低く傾斜した地形に土を盛り、平坦な曲輪を造成した様子が確認されました。
飯田館跡第2次発掘調査では、黄色い地山と、その上に重ねられた盛土が確認されました。
造成前の地形は、北側から南側へ緩やかに低くなっていたと考えられます。
低い場所へ土を加えることで、建物や人の活動に適した平場へ造り替えたのでしょう。
ただし、盛土の年代は確定していません。
今回の成果は築城年代の最終的な結論ではなく、飯田館の造成過程を解明するための重要な出発点です。
②土層から中世城館の土木技術を読み解ける
曲輪の地下に残された地山と盛土の境界は、人々が自然の斜面をどのように加工し、城館の空間を生み出したかを伝えています。
中世城館の土木技術は、天守や石垣のように地上で目立つものではありません。
しかし、土層の断面を詳しく観察すれば、斜面を削り、低い場所へ土を運び、締め固めた工程を推測できます。
こうした工事には、地形を見極める知識と、多くの人員を動かす組織力が必要でした。
飯田館跡の成果は、完成した縄張だけでなく、城が造られるまでの労働や計画にも目を向けさせてくれます。
③飯田播磨守との関係は慎重に考える
飯田館は飯田播磨守が築いたと伝わりますが、今回確認された盛土を、本人の築城工事と直接結び付ける証拠はまだありません。
飯田播磨守は天正年間に山形南部へ移り、飯田館を築いたと伝えられる武将です。
慶長5年(1600年)の慶長出羽合戦では、畑谷城の救援へ向かい、避難する人々を守って討死したとされています。
ただし、文献上の人物と発掘された遺構を結び付けるには、年代の一致を確認しなければなりません。
「伝承があるから本人の工事」と断定せず、出土品や土層の分析結果を待つ姿勢が大切です。
④今後は盛土の年代と館全体の構造に注目
今後の整理作業では、出土品の年代、整地層と遺構の前後関係、各曲輪の役割がどこまで明らかになるかが注目されます。
今回確認された整地層の年代が絞り込まれれば、飯田館がいつ、どの範囲まで造成されたのかを考えやすくなります。
柱穴が建物としてまとまるのか、曲輪ごとに異なる役割があったのかも重要な検討課題です。
第1次調査では南側斜面、第2次調査では西・北・東側が調べられました。
両年度の成果を結び付けることで、館の中心部と周辺曲輪の関係が見えてくる可能性があります。
参考資料
Webサイト・公的機関の解説
- 飯田館跡第2次(山形市)の発掘調査説明会を開催します
公益財団法人山形県埋蔵文化財センター。第2次調査の対象範囲、調査目的、調査成果を確認するために参照しました。 - 飯田館跡第2次・発掘調査速報
公益財団法人山形県埋蔵文化財センター。地山、盛土、旧表土、整地層、遺構、出土陶磁器を確認するために参照しました。 - 令和8年度発掘調査遺跡
公益財団法人山形県埋蔵文化財センター。所在地、時代、事業名、調査予定期間を確認するために参照しました。 - 飯田館跡・令和7年度発掘調査速報
公益財団法人山形県埋蔵文化財センター。第1次調査の対象地、出土品、後世の土地改変を確認するために参照しました。 - 最上家の武将たち
戦国観光やまがた情報局・山形おきたま観光協議会。飯田播磨守の来歴、飯田館築造の伝承、慶長出羽合戦での動向を確認するために参照しました。

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