国史跡・高原諏訪城跡で初の発掘調査!江馬氏本城の謎に迫る

戦国史トピックス

高原諏訪城跡を初めて発掘!江馬氏の本城はいつ築かれたのか

岐阜県飛騨市神岡町にある高原諏訪城跡(たかはらすわじょうあと)で、初めての発掘調査が行われました。

高原諏訪城は、北飛騨を治めた江馬氏の本城と考えられてきた山城です。しかし、これまで発掘されておらず、築城年代や実際に使われた時期は分かっていません。

今回の調査は、地表に残る曲輪や堀切だけでは判断できなかった城の年代と構造に迫る第一歩です。公表済みの事実と今後の課題を分けながら、その歴史的意義を解説します。

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目次

高原諏訪城跡で初の発掘調査

江馬氏の本城と考えられてきた高原諏訪城跡で、倒木処理に伴う初の発掘調査が実施されました。

高原諏訪城跡は、飛騨市神岡町殿にある山城跡です。昭和55年(1980年)に国史跡へ指定された江馬氏城館跡の一つですが、これまで本格的な発掘調査は行われていませんでした。

今回の調査成果は、令和8年(2026年)11月14日に開かれる現地説明会で紹介される予定です。記事公開時点では遺構や遺物の詳細が公表されていないため、未知の成果を推測せずに見守る必要があります。

倒木処理に伴って実施された初めての発掘調査

あけぼの姫

今回の発掘は大規模な城郭調査として始まったものではなく、倒木処理を契機に実施された点が特徴です。

飛騨市の発表によると、高原諏訪城跡の発掘調査は、史跡内で発生した倒木を処理するのに伴って行われました。国史跡では、樹木を撤去する際にも、根の周囲に埋蔵された遺構を傷つける可能性があります。

そこで、土を掘り下げる前に専門職員が状況を確認し、必要に応じて記録する発掘調査が行われます。今回の調査も、史跡を保護しながら倒木を安全に処理するための対応だったと考えられます。

範囲の限られた調査であっても、土の堆積、造成の痕跡、柱穴、焼土、陶磁器などが確認されれば、城が使われた年代を考える材料になります。

飛騨市による現地説明会の案内では、これが高原諏訪城跡で初めての発掘調査であると明記されています。偶然生じた倒木が、長く残されてきた城の謎に迫る機会となったのです。

主郭周辺が発掘調査の対象となった

現地説明会の会場は主郭周辺とされ、江馬氏本城の中枢部を考える重要な調査になる可能性があります。

高原諏訪城の主郭(しゅかく)とは、山城の中心となる平坦な区画です。岐阜県の解説では、山頂平場は東西約20~24メートル、南北約34メートルとされています。

主郭には、城主や指揮官が滞在する建物、物資を保管する施設、敵の動きを監視する設備などが置かれた可能性があります。ただし、建物の種類や配置は発掘で確認されておらず、現段階で断定はできません。

山城の平坦面は、斜面を削る「切土(きりど)」と、低い部分に土を盛る「盛土(もりど)」を組み合わせて造成されます。発掘調査で造成土や古い地表面が確認されれば、城づくりの順序を読み取れることがあります。

また、土器や陶磁器が造成土に含まれていれば、その土が盛られた年代を推定する手掛かりになります。今回の調査は範囲が限定的とみられますが、主郭の形成過程を考える最初の考古学的資料になる可能性があります。岐阜県公式ホームページ(文化伝承課)

詳しい調査成果は現地説明会で公表予定

発掘で何が確認されたのかはまだ詳しく公表されておらず、現地説明会後の正式な報告が待たれます。

飛騨市は、令和8年(2026年)11月14日の午前10時から正午まで、高原諏訪城跡現地説明会を開催する予定です。午前11時からは全体説明が行われ、時間内であれば自由に見学できます。

受付場所は江馬氏城館跡公園エントランスです。受付後は各自で登城する形式となり、細い道や危険な場所もあるため、歩きやすい靴と服装、水分の準備が呼びかけられています。

ここで注意したいのは、飛騨市の発表が「発掘調査で明らかになったことを現地で解説する」としている一方、その具体的内容までは掲載していないことです。

したがって、遺物や建物跡が見つかったと現時点で断定することはできません。説明会資料や正式な調査報告書が公開された後に、遺構の種類、出土品、年代判断の根拠を確認する必要があります。飛騨市公式ウェブサイト

高原諏訪城はどのような山城だった?

高原諏訪城は、居館を見下ろす山上に築かれ、江馬氏の軍事的な本拠を担ったと考えられる城です。

高原諏訪城は、標高622メートルの山上に位置します。山麓には日常的な政治や生活の場となった江馬氏下館があり、その背後を守るように山城が築かれていました。

平時には下館で政務や接待を行い、戦時には高原諏訪城を防衛拠点として利用したとみられます。ただし、両者がどの時期から併用されたのかは確定しておらず、今回の調査が年代を考える手掛かりとして注目されます。

標高622メートルの山上に築かれた江馬氏の本城

あけぼの姫

険しい山上に築かれた高原諏訪城は、規模と立地から江馬氏の中心的な山城と考えられています。

高原諏訪城は、高原川の流域を見渡せる山上にあります。東・南・西の三方は川や急斜面に囲まれ、攻め上る敵の動きを制限しやすい地形です。

中心となる山頂の平場は主郭、あるいは本丸跡と呼ばれます。その周囲には腰曲輪と呼ばれる小規模な平坦面が設けられ、守備兵の配置や移動に利用されたと考えられます。

現在、城跡に天守や櫓は残っていません。戦国時代の山城では、石垣と巨大な天守を備えた近世城郭とは異なり、土を削り、盛り、堀を掘ることで防御施設を整える例が多く見られました。

高原諏訪城も、山の地形を生かした土の城です。飛騨を代表する大規模な山城でありながら、築城者と築城年代が分かっていない点に、この城の大きな研究課題があります。岐阜県公式ホームページ(文化伝承課)

堀切・竪堀・腰曲輪が山城を守った

あけぼの姫

高原諏訪城には尾根を断ち切る堀切や斜面を下る竪堀が残り、地形を利用した防御の工夫が見えます。

堀切(ほりきり)とは、山の尾根を横断するように掘られた堀です。尾根伝いに接近する敵を遮り、攻撃側が自由に移動できないようにする役割がありました。

竪堀(たてぼり)は、斜面の上から下へ延びる堀です。敵兵が城の横方向へ回り込むのを妨げ、攻める経路を限定する効果がありました。

また、主郭の下には腰曲輪(こしぐるわ)が置かれました。腰曲輪は、斜面の途中を削って造った細長い平坦面で、敵を監視したり、上方から攻撃したりするために使われたと考えられます。

ただし、現在見られる堀や曲輪がすべて同じ時期に造られたとは限りません。山城は戦争や政治情勢の変化に応じて改修されることがあり、古い施設の上に新しい施設が重ねられる場合もあります。

発掘調査では、こうした造成の重なりや埋め戻された堀を確認することで、城がどのように変化したかを検討できます。

山麓の江馬氏下館と一体で機能した

あけぼの姫

山上の高原諏訪城と山麓の下館は、軍事と政治を分担する一体的な拠点だったと考えられます。

山麓にある江馬氏下館跡(えまししもやかた)では、これまでの発掘調査によって、建物跡、土塁、堀、庭園などが確認されています。

館を囲む堀には、断面が箱形の箱堀と、底が鋭いV字形になる薬研堀がありました。薬研堀は深さ2.6~3メートルに達し、中世の居館を守る堀としては大規模なものです。

館内の庭園では、付近で産出する花崗岩が景石に使われました。池の岸辺は約107メートルに及び、江馬氏が軍事だけでなく、接待や儀礼を重視していたことがうかがえます。

現代風にいえば、下館は政庁・邸宅・迎賓施設を兼ねた場所、高原諏訪城は非常時の防衛拠点に近い存在です。

ただし、両者が常にこのように使い分けられたと証明されたわけではありません。高原諏訪城の使用年代が明らかになれば、下館との関係をより具体的に検討できるようになります。岐阜県公式ホームページ(文化伝承課)

江馬氏城館跡から北飛騨の支配を読み解く

高原諏訪城だけでなく下館と周辺の山城を一体で見ると、江馬氏が領地を守った仕組みが見えてきます。

国史跡の江馬氏城館跡は、一つの城だけを指す名称ではありません。下館跡、高原諏訪城跡、傘松城跡など、居館と複数の山城で構成された広大な史跡です。

それぞれの城は街道、峠、河川の合流点などを監視できる場所に築かれました。城館群全体から、北飛騨の交通路と領域を守ろうとした江馬氏の支配構想を読み取れます。

江馬氏は中世の北飛騨を治めた武士

あけぼの姫

江馬氏は北飛騨を拠点とした武士で、室町時代から戦国時代にかけて神岡周辺を支配しました。

江馬氏が史料に初めて明確に現れるのは、応安5年(1372年)です。文化遺産オンラインの解説では、山科家領への乱暴を止める使者として「山科家文書」に登場します。

江馬氏は、現在の飛騨市神岡町を中心とする高原郷を支配しました。この地域には、越中方面へ抜ける街道や、信州松本平へ通じる山道がありました。

山間部の領主にとって、街道は人や物資が移動する重要な経路である一方、敵の軍勢が侵入する経路にもなります。そのため江馬氏は、下館と高原諏訪城だけでなく、交通の要所に複数の山城を配置したとみられます。

ただし、中世の領主による支配は、近代国家のように境界が固定されたものではありません。周辺の国衆(くにしゅう:地域に独自の領地と軍事力を持った武士)や有力大名との関係を調整しながら、支配を維持していました。

万里集九の訪問が示す江馬氏下館の文化

あけぼの姫

文明18年(1486年)に飛騨を訪れた禅僧の記録は、江馬氏が文化的な接待を行ったことを伝えます。

文化庁の解説では、禅僧で詩人でもあった万里集九(ばんり しゅうく)が長享3年(1489年)に高原郷を訪れ、江馬氏の歓待を受けたとされています。

その接待の場所は、山麓の江馬氏下館だった可能性が高いと考えられています。発掘された庭園は、客を迎え、交流を深める空間として利用されたのかもしれません。

戦国武将というと、合戦で軍勢を率いる姿が思い浮かびます。しかし、領主には客人をもてなし、寺院や文化人と関係を築き、情報を集める役割もありました。

庭園や宴席は単なる娯楽の場ではなく、領主の権威や教養を示す政治の舞台でもあります。山上の高原諏訪城が軍事力を象徴する施設だったとすれば、山麓の下館は政治力と文化的権威を示す施設だったと考えられます。

なお、訪問年には資料による表記の違いもあるため、記事では文化遺産オンラインが示す長享3年(1489年)に基づきました。online.bunka.go.jp

武田氏・上杉氏との関係から江馬氏滅亡へ

あけぼの姫

江馬氏は武田氏や上杉氏との関係を変えながら生き残りを図りましたが、天正10年に滅亡しました。

戦国時代後半の江馬氏当主である江馬輝盛(えま てるもり)は、永禄7年(1564年)以降、甲斐の武田信玄に従ったとされています。

その後、天正4年(1576年)以降には越後の上杉謙信に属しました。これは、北飛騨が甲斐・信濃・越後・越中の勢力争いから大きな影響を受ける位置にあったことを示します。

天正10年(1582年)、武田氏が滅亡し、本能寺の変で織田信長が死去すると、飛騨でも勢力関係が大きく動きました。

同年、輝盛は三木自綱(みき よりつな)との戦いに敗れて戦死し、江馬氏は滅亡したとされています。文化庁の解説では、このとき高原諏訪城も落城したと説明されています。

ただし、城跡から天正10年の戦闘を直接示す焼土や武器が確認されたとは限りません。文献が伝える落城と、考古学的に確認できる廃城の時期が一致するかどうかも、今後の調査課題です。文化遺産オンライン

初の発掘調査が持つ歴史的意義

初発掘の価値は新しい遺物の発見だけでなく、城が造られ、改修され、使われた時期を探れる点にあります。

高原諏訪城は、地表に残る曲輪や堀から大規模な山城であることは分かっていました。しかし、構造だけを見ても、築城年代や改修時期までは確定できません。

地下の土層や遺物を調べる発掘調査が加わることで、江馬氏の政治的な成長や周辺勢力との緊張が、城の変化にどのように反映されたのかを検討できます。

城が使われた年代を考える第一歩

あけぼの姫

高原諏訪城の使用年代を明らかにできるかどうかが、今回の調査で最も注目される点です。

飛騨市は、これまで発掘調査が行われていなかったため、高原諏訪城が使われた年代は正確に分かっていないと説明しています。

築城・改修年代を検討するには、土層や出土品だけでなく、縄張り測量や文献史料との比較も重要です。羽衣石城跡の総合調査で用いられた調査方法を見ると、複数の資料を組み合わせることで山城の姿が具体化していく過程が分かります。

一方、遺物が表土から見つかっただけでは、それが城の建設や使用と直接関係するとは限りません。後世に持ち込まれた可能性や、斜面から流れ込んだ可能性も検討する必要があります。

また、発掘範囲が狭ければ、その成果を城全体へそのまま当てはめることはできません。今回の調査は、築城年代を一度に確定するものではなく、年代解明へ向けた最初の基準点と位置付けるのが適切です。飛騨市公式ウェブサイト

地表の縄張りと地下の遺構を照合できる

あけぼの姫

目に見える曲輪や堀と地下に残る造成痕跡を比べることで、山城の変化を立体的に復元できます。

城跡の調査では、曲輪、土塁、堀切などの配置を測量して図面にする縄張り調査が行われます。これにより、守りの方向や城内の動線を考えることができます。

しかし、地表から見える形だけでは、その施設がいつ造られたのか、何度改修されたのかまでは分かりません。そこで必要になるのが発掘調査です。

例えば、現在は一つの平坦面に見える曲輪でも、地下では古い斜面の上に大量の土を盛り、段階的に拡張されている場合があります。埋められた柱穴や古い堀が見つかれば、現在とは異なる城の姿も見えてきます。

山城の造成過程は、現在の地形を観察するだけでは分かりません。実際に、飯田館跡の発掘で確認された曲輪の造成方法からは、自然の地盤に土を盛り、傾斜地を平坦に整えた工程が読み取れます。

飛騨市は、これまでの山城調査報告書や現地説明会資料を公開しています。今回の成果も将来公開されれば、従来の縄張図と発掘結果を比較できるでしょう。

それによって、現在残る高原諏訪城が一度に完成したのか、情勢の変化に合わせて改修されたのかを検討しやすくなります。飛騨市公式ウェブサイト

史跡の保存と今後の調査にもつながる

あけぼの姫

倒木を契機とした調査は、山城の保存管理と学術研究を両立させる重要性も示しています。

山城跡では、樹木が景観を形づくる一方、成長した根が遺構へ入り込むことがあります。強風や大雪で木が倒れると、根と一緒に土が持ち上がり、地下の遺構が壊れることもあります。

今回の発掘は、こうした倒木を処理する過程で実施されました。これは、文化財を守る作業が新しい歴史資料の確認につながった事例といえます。

飛騨市が令和8年(2026年)に公表した保存活用計画では、江馬氏城館跡を下館と七つの山城からなる城館群として捉えています。

今後は高原諏訪城だけでなく、傘松城など周辺の城との年代差や役割分担を比較することが重要です。

発掘で確認された遺構は、調査後に埋め戻して保護される場合があります。見えなくなることは成果が失われるという意味ではなく、図面、写真、測量データ、出土品によって記録し、将来へ残すための保存措置です。飛騨市公式ウェブサイト

まとめ

①高原諏訪城跡で初の発掘調査が行われた

高原諏訪城跡では、倒木処理に伴い、城跡として初めて発掘調査が実施されました。

詳しい成果は令和8年(2026年)11月14日の現地説明会で紹介される予定であり、記事公開時点では遺構や遺物の内容までは公表されていません。

このため、現段階で建物跡や特定年代の遺物が発見されたと断定することはできません。説明会資料や正式な調査報告書を確認し、何が事実として確認されたのかを見極める必要があります。

②高原諏訪城は下館を守る本城と考えられる

標高622メートルに位置する高原諏訪城は、規模と立地から江馬氏の本城と考えられています。

山麓には、建物、庭園、土塁、堀が確認された江馬氏下館跡があります。平時の政治や接待を下館、戦時の防衛を高原諏訪城が担った可能性があります。

ただし、両者がいつから一体的に使われたかは確定していません。高原諏訪城の年代が分かれば、居館と山城の関係も具体的に検討できるようになります。

③江馬氏は複数の城で北飛騨を守った

国史跡の江馬氏城館跡は、高原諏訪城だけでなく、下館と周辺の七つの山城で構成されています。

それぞれの城は河川、街道、峠などを意識した場所にあり、領内の監視や交通路の防衛を担ったと考えられます。

江馬氏は武田氏や上杉氏との関係を変えながら北飛騨の支配を維持しましたが、天正10年(1582年)に江馬輝盛が敗死し、高原諏訪城も落城したと伝えられています。

④発掘は築城・改修年代の解明につながる

今回の初発掘で最も注目されるのは、高原諏訪城が使われた年代を示す資料が確認されたかどうかです。

造成土、古い地表面、柱穴、堀、陶磁器などが相互に関連した状態で見つかれば、曲輪が造られた時期や改修の順序を検討できます。

ただし、限られた範囲の成果だけで城全体の年代を決めることはできません。今回の調査は、長く不明だった江馬氏本城の歴史を考えるための第一歩と評価できます。

参考資料

Webサイト・公的機関の解説

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