小牧・長久手の戦いが起きた理由

小牧・長久手の戦い

小牧・長久手の戦いはなぜ起きた?秀吉・信雄・家康の対立を解説

1582年(天正10年)の本能寺の変によって織田信長が倒れると、「信長に代わって誰が天下の政治を動かすのか」という問題が浮上しました。

山崎・賤ヶ岳の戦いに勝利した羽柴秀吉は急速に勢力を広げますが、信長の次男・織田信雄は自らの立場が失われることを警戒します。

さらに徳川家康が信雄と結んだことで、織田家内部の対立は全国規模の戦争へ発展しました。

対象読者:歴史初級者
読了時間:約27分

目次

主な登場人物と関係

人物立場開戦時の関係
羽柴秀吉織田家の有力家臣信雄と協力していたが、政治の主導権をめぐって対立
織田信雄織田信長の次男秀吉に対抗するため、家康と連携
徳川家康三河・遠江などを治める大名信雄を支援し、秀吉の勢力拡大を警戒
池田恒興信長以来の有力武将信雄の期待に反して秀吉方へ参加
森長可美濃の有力武将秀吉方として尾張へ進出
堀秀政信長・秀吉に仕えた武将秀吉方として三河中入り作戦に参加
三好信吉秀吉の甥、後の豊臣秀次秀吉方別働隊の総大将

本記事では、1584年当時の呼称に合わせて「羽柴秀吉」を基本表記とします。「豊臣」の姓を与えられるのは1586年です。

開戦までの年表

年月主な出来事
1582年6月本能寺の変で織田信長・信忠父子が死去
1582年6月山崎の戦いで秀吉が明智光秀を破る
1582年6月清洲会議で信長の嫡孫・三法師が織田家の後継者となる
1582年末~1583年秀吉・信雄と柴田勝家・織田信孝の対立が激化
1583年4月賤ヶ岳の戦いで秀吉が柴田勝家を破る
1583年5月織田信孝が自害し、信雄と秀吉の協力関係が変化
1583年後半秀吉と信雄の政治的対立が深まる
1584年初め信雄が家康へ接近し、反秀吉陣営を形成
1584年3月6日信雄が秀吉への内通を疑った三家老を殺害
1584年3月秀吉方と信雄・家康方の戦争が始まる

賤ヶ岳の戦い後に勢力を伸ばす秀吉

小牧・長久手の戦いの原因を理解するには、その前年に起きた賤ヶ岳の戦いから見ていく必要があります。秀吉は勝家を破ったことで、織田家中における最大の実力者となりました。

小牧・長久手の戦い

しかし、秀吉はこの時点で正式に織田家を継いだわけではありません。信長の嫡孫・三法師や次男・信雄が存在しており、秀吉は本来、織田家に仕える家臣という立場でした。実際の軍事力と家柄上の正統性が一致しなかったことが、秀吉と信雄の対立を生み出します。

柴田勝家を破った羽柴秀吉

あけぼの

賤ヶ岳の戦いは、秀吉を織田家中最大の実力者へ押し上げた重要な合戦でした。しかし、当初から秀吉が織田政権を奪うために起こした戦いだったと単純化することはできません。

本能寺の変後、織田家の運営をめぐり、羽柴秀吉柴田勝家の対立が深まります。秀吉は信長の次男・織田信雄丹羽長秀池田恒興らと連携しました。一方の勝家は、信長の三男・織田信孝を支持します。

つまり、賤ヶ岳の戦いには、秀吉と勝家の勢力争いだけでなく、信雄と信孝の兄弟対立も重なっていました。

1583年4月、秀吉は近江国の賤ヶ岳周辺で勝家方の軍勢を破ります。勝家は越前の北ノ庄城へ退き、妻のお市とともに自害しました。勝家の敗北後、信孝も信雄に攻められて降伏し、尾張で自害します。

この時点までは、秀吉と信雄は同じ陣営に属していました。信雄は秀吉の協力を得て、弟の信孝という有力な競争相手を排除できたのです。一方の秀吉も、信長の実子である信雄と組むことで、自らの行動に政治的な正当性を持たせられました。

ところが、共通の敵である勝家と信孝がいなくなると、両者の協力関係を支えていた理由も薄れます。賤ヶ岳の勝利は秀吉と信雄の結び付きを強めるのではなく、次の主導権争いを表面化させる結果となりました。

織田家中で高まった秀吉の影響力

あけぼの

秀吉は山崎・賤ヶ岳の戦いを通じて、多くの武将や領地を自らの支配下へ取り込みました。その影響力は、すでに織田家の一有力家臣という範囲を超え始めていました。

秀吉の強みは、戦場で勝利したことだけではありません。信長の死後、各地の武将へ書状を送り、味方を増やしながら敵対勢力を孤立させました。また、京都や大坂など畿内の重要地域を押さえ、朝廷や公家、寺社との関係も築いていきます。

1583年には大坂城の築城に着手しました。大坂は瀬戸内海と京都方面を結ぶ交通の要地であり、西国へ勢力を拡大するための拠点にもなります。現代風にいえば、秀吉は軍事力だけでなく、政治・経済・交通の中心を押さえた巨大な政権基盤をつくり始めていたのです。

しかし、形式上の織田家当主は、清洲会議で後継者とされた三法師でした。信長の次男・信雄も、織田一族を代表し得る立場にあります。それにもかかわらず、重要な軍事・外交・領地配分を秀吉が主導するようになれば、信雄の存在感は低下します。

近年の研究では、秀吉が賤ヶ岳の勝利だけで直ちに「信長の後継者」や「天下人」になったとする理解は見直されています。織田家の枠組みが残るなかで、秀吉がどのように信雄を克服し、独自の政権を築いたのかが重視されています。小牧・長久手の戦いは、その転換点だったのです。

織田信雄が秀吉に抱いた不満

あけぼの

織田信雄にとって秀吉は、弟の信孝や柴田勝家を倒すために協力した相手でした。しかし、賤ヶ岳の戦い後、秀吉は信雄の意思とは別に政治を進めるようになります。

信雄は信長の次男であり、兄の織田信忠が本能寺の変で亡くなった後は、存命する信長の息子のなかでも有力な立場にありました。信忠の嫡男・三法師が幼かったため、信雄には織田家の政治を主導する資格があるという意識があったと考えられます。

一方の秀吉は、軍事力・領国・家臣団の規模で信雄を大きく上回るようになりました。秀吉が織田家の家臣として信雄を支えるのか、それとも自ら天下の政治を担うのかは、両者の関係を左右する重大な問題でした。

秀吉は三法師を自らの影響下に置き、信雄の政治的な行動を制限していきます。信雄が安土城から退去した経緯や、秀吉がどの段階で信雄を政治的に排除しようとしたのかについては、研究者の間でも評価が分かれます。ただし、1583年後半には両者の関係が悪化し、信雄の切腹を命じるという風聞まで京都周辺で流れていました。

したがって、信雄の不満は単なる感情的な反発ではありません。織田家の当主一族として政治を主導したい信雄と、実力を背景に独自の政権形成へ進む秀吉との、権限と正統性をめぐる対立だったと考える必要があります。

天下の主導権をめぐる対立

秀吉と信雄の対立の核心は、「誰が織田家を代表するのか」だけではなく、「誰が天下の政治を決めるのか」という問題でした。

戦国時代の「天下」は、必ずしも現在の日本全国と同じ意味だけで使われた言葉ではありません。京都を中心とする政治秩序や、中央政権が影響を及ぼす領域を指す場合もあります。信長の死後、その秩序を誰が再建するのかが問題となりました。

信雄には、信長の実子という血統上の正統性がありました。対する秀吉には、山崎・賤ヶ岳の戦いに勝利して得た軍事力と、多数の大名を動員できる政治力がありました。

両者の違いは、次のように整理できます。

視点織田信雄羽柴秀吉
正統性信長の次男という血統信長の仇討ちと合戦での実績
軍事力尾張・伊勢を中心とする勢力畿内・北陸・西国に広がる大勢力
政治目標織田一族として主導権を保つ織田家の枠を超えて天下を主導する
弱点家臣団と動員力で秀吉に劣る織田一族ではなく、家臣出身である

秀吉にとって、信雄を従わせずに独自の政権を築くことは困難でした。一方、信雄が秀吉の行動を認めれば、織田家の政治的な主導権を秀吉へ渡すことになりかねません。

賤ヶ岳の戦い後の対立は、単なる領地争いではなく、織田政権を存続させるのか、秀吉を中心とする新しい政治体制へ移行するのかを問う争いだったのです。

これだけは覚えよう

  • 賤ヶ岳の戦いでは、秀吉と信雄は同じ陣営でした。
  • 柴田勝家と織田信孝が滅ぶと、秀吉と信雄の対立が表面化しました。
  • 信雄には信長の実子という正統性がありました。
  • 秀吉は軍事力と政治力で信雄を上回っていました。
  • 両者は、織田家と天下の主導権をめぐって争いました。

秀吉と織田信雄の関係が決裂

秀吉と信雄の関係を決定的に壊したのが、1584年3月6日に起きた三家老の殺害です。信雄は、秀吉への内通を疑った重臣たちを処刑しました。

小牧・長久手の戦い

三家老が実際にどこまで秀吉と結んでいたのかは、慎重に判断しなければなりません。重要なのは、殺害の真相だけではなく、信雄が秀吉との対決を覚悟して家中を整理したこと、そして秀吉がこれを軍事行動へ移る契機としたことです。

信雄の家臣が秀吉との内通を疑われる

あけぼの

秀吉との緊張が高まるなか、信雄は家臣団の内部にも不安を抱えていました。問題となったのが、岡田重孝・津川義冬・浅井長時の三家老です。

家老とは、大名の家臣団のなかで政務や軍事を補佐する最高幹部級の役職です。三人はいずれも信雄の領国運営を支える重要な立場にありましたが、信雄は彼らが秀吉と内通していると疑いました。

ただし、三家老がそろって信雄を裏切る計画を進めていたことが、同時代史料によって完全に立証されているわけではありません。秀吉との連絡や交渉があったとしても、それが直ちに謀反を意味したのか、信雄が疑心暗鬼に陥っていたのかは区別する必要があります。

秀吉は多くの大名や武将へ書状を送り、敵方の内部へ働きかける政治手法を用いていました。信雄から見れば、家臣が秀吉と接触すること自体が大きな脅威でした。家中の有力者が秀吉へ移れば、領国支配が内側から崩れる可能性があったためです。

現代風にいえば、対立する巨大勢力が自分の組織の幹部へ接触し、引き抜きや内部工作を進めているように見えた状態です。信雄は秀吉と戦う前に、まず自らの家臣団が信頼できるかどうかを確かめなければなりませんでした。

三家老への疑いは、秀吉と信雄の対立が外交上の駆け引きでは収まらず、信雄家中を巻き込む深刻な段階へ入ったことを示しています。

信雄による三家老の殺害

あけぼの

1584年3月6日、信雄は岡田重孝・津川義冬・浅井長時を殺害しました。この事件は、秀吉との関係を事実上断ち切る行動となります。

三家老は同じ場所で一度に処刑されたのではなく、信雄側がそれぞれを警戒させないよう対応し、各地で殺害したと伝わります。しかし、具体的な方法や会話などについては後世の軍記物による脚色が含まれる可能性があるため、細部を確定的な史実として扱うべきではありません。

重要なのは、信雄が単なる疑惑にとどまらず、自らの重臣を排除するという強硬手段に出たことです。三家老の殺害によって、信雄は秀吉と協調する可能性を大きく狭めました。同時に、家臣団へ「今後は秀吉と戦う」という意思を示したことになります。

国立公文書館の解説では、この三家老殺害を秀吉に対する事実上の宣戦布告と位置付けています。秀吉側から見れば、自らと関係があるとされた武将を信雄が殺害したことは、軍事介入の理由として利用できました。国立公文書館

一方、信雄も無計画に行動したわけではありません。すでに家康へ接近し、さらに各地の反秀吉勢力と連絡を取ろうとしていました。三家老を殺害した翌日付の信雄書状などからも、信雄方が開戦に備えて広い地域へ働きかけていたことがうかがえます。

この事件は、信雄の性格だけで説明するものではなく、家中統制と対秀吉戦争を結び付けた政治的な決断として見る必要があります。

秀吉が信雄討伐へ動き出す

あけぼの

三家老殺害の知らせを受けると、秀吉は信雄への軍事行動を本格化させました。ここから秀吉と信雄の政治的対立は、城や領地を奪い合う戦争へ移ります。

秀吉にとって、信雄は単なる地方大名ではありません。信長の実子であり、織田一族を代表する人物の一人です。信雄が家康と結び、反秀吉の旗印になれば、秀吉に不満を抱く武将たちが集まる可能性がありました。

そのため秀吉には、信雄を早い段階で服従させ、反対勢力の結集を防ぐ必要がありました。ただし、信雄を攻撃することは、織田家の家臣だった秀吉が主家の一族へ兵を向ける行為でもあります。秀吉側にも、信雄を敵として位置付ける大義名分が必要でした。

三家老殺害は、その大義名分として機能します。秀吉は、信雄の不当な行動を問題視する形で諸将を動員し、尾張・伊勢方面への出兵を進めました。

秀吉は初めから小牧山へ全軍を集中させたわけではありません。信雄の領国に接する美濃や伊勢でも味方を確保し、複数の方向から圧力をかけました。尾張では池田恒興が犬山城を奪取し、森長可も羽黒方面へ進出します。

この段階で秀吉は、信雄だけでなく家康とも戦うことになりました。信雄を短期間で屈服させるはずの戦争が、東海地方最大の勢力である家康の参戦によって、予想以上の大規模戦争へ変わったのです。

織田家内部の争いが全国戦へ発展

あけぼの

小牧・長久手の戦いは尾張で始まりましたが、対立は東海地方だけに収まりませんでした。各地の大名や地域勢力が秀吉方と反秀吉方に分かれ、広い範囲で軍事・外交活動が連動します。

信雄・家康方は、越中の佐々成政、四国の長宗我部元親、紀伊の雑賀衆・根来衆、関東の北条氏など、秀吉と距離を置く勢力へ働きかけました。一方の秀吉も、毛利氏や上杉景勝をはじめとする有力大名との関係を固め、反秀吉陣営を包囲しようとします。

ただし、これらの勢力が統一された指揮系統のもとで一斉に戦ったわけではありません。秀吉に対する警戒、領地問題、周辺勢力との争いなど、それぞれが異なる事情を抱えていました。したがって、「全国の大名が完全に二分された」と断定するのは適切ではありません。

それでも戦争の影響は、尾張・美濃・伊勢・紀伊・和泉・摂津だけでなく、北陸・四国・関東や信濃方面にも及びました。各地の武将は、秀吉と家康のどちらが優位に立つかを注視しながら、自らの立場を選ぼうとしたのです。

小牧・長久手の戦いは、織田家内部の後継秩序をめぐる争いから始まり、秀吉を中心とする新しい政権を認めるかどうかを問う全国規模の政治・軍事対立へ発展しました。

これだけは覚えよう

  • 信雄は秀吉への内通を疑い、三人の家老を殺害しました。
  • 三家老の内通がどの程度事実だったかは慎重に判断する必要があります。
  • 三家老殺害は、秀吉との事実上の断交・宣戦布告となりました。
  • 秀吉は信雄討伐を掲げて軍勢を動員しました。
  • 各地の反秀吉勢力が連動し、戦争は全国的な広がりを見せました。

徳川家康はなぜ信雄に味方した?

家康の参戦は、「信長との同盟があったから」だけでは説明できません。信雄を支えることには、織田家の秩序を守るという大義名分と、秀吉の東進を防ぐという現実的な目的がありました。

小牧・長久手の戦い

家康にとって尾張は、自らの領国である三河の西側を守る重要地域です。信雄が秀吉に屈すれば、家康は秀吉の大勢力と直接向き合うことになります。信雄支援は、家康自身の安全保障にもつながっていました。

信長と家康が結んでいた同盟

あけぼの

織田信長と徳川家康は、1560年代から長年にわたって同盟関係を維持しました。この同盟は一般に「清洲同盟」と呼ばれます。

家康は信長と協力し、姉川の戦いや武田氏との戦いに臨みました。信長にとって家康は東側を支える有力な同盟者であり、家康にとって信長は今川・武田などの強敵へ対抗するために欠かせない存在でした。

ただし、両者の関係は常に対等であったとは限りません。信長の勢力が拡大すると、家康は軍事的に信長へ従う場面が増えました。それでも家康は、織田家に直属する家臣ではなく、自らの領国と家臣団を持つ独立した大名でした。

本能寺の変後、家康は甲斐・信濃をめぐる天正壬午の乱に対応し、旧武田領へ勢力を広げます。さらに北条氏と講和・同盟を結び、東国で強い基盤を築きました。1584年頃の家康は、秀吉の一配下ではなく、独自の外交と軍事力を持つ有力大名だったのです。

信雄が秀吉と対立すると、家康には信長の遺児を助けるという名目が生まれました。信長との長年の関係は、家康が信雄を支援するうえで重要な背景でしたが、それだけが参戦理由ではありません。家康は織田家との関係を政治的な根拠として用いながら、自らの勢力と東国の秩序を守ろうとしたと考えられます。

信雄を支援することの大義名分

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戦国大名が大軍を動かすには、家臣や同盟者を納得させる理由が必要でした。家康にとって、その理由となったのが「信長の遺児である信雄を助けること」でした。

信雄は信長の次男であり、尾張・伊勢を支配する有力大名です。対する秀吉は、信長に仕えて出世した家臣でした。家臣出身の秀吉が主家の一族である信雄を攻撃するという構図は、信雄・家康側にとって利用しやすいものでした。

家康は信雄を支持することで、単に秀吉の勢力拡大を妨害するのではなく、織田家の正統な秩序を守る立場を示せます。これにより、旧織田家臣や秀吉に警戒心を持つ大名へ協力を呼びかけやすくなりました。

ただし、信雄が織田家全体を完全に代表していたわけではありません。清洲会議で家督を継いだのは、信長の嫡孫・三法師です。また、丹羽長秀や池田恒興など、信長以来の重臣でも秀吉方に加わった人物がいました。

したがって、この戦いを「正統な織田家と、それを奪った秀吉の戦い」と単純に分けることはできません。織田一族や旧織田家臣の内部でも、誰を支持するかが分かれていました。

それでも信雄の存在は、家康の参戦に政治的な意味を与えました。家康は信雄を前面に立てることで、秀吉との戦いを私的な勢力争いではなく、織田家のあり方をめぐる戦いとして示せたのです。

急速に勢力を拡大する秀吉への警戒

あけぼの

家康にとって最大の現実的な問題は、秀吉の勢力が東海地方へ迫っていたことでした。

賤ヶ岳の戦い後、秀吉は畿内を中心に北陸や西国へ影響力を広げました。信雄が支配する尾張・伊勢まで秀吉の勢力下に入れば、家康の三河・遠江は秀吉領と直接接することになります。

尾張は京都・大坂方面から三河へ向かう交通の要地です。尾張を味方の信雄が押さえている間は、家康と秀吉の間に緩衝地帯が存在しました。しかし、信雄が秀吉に屈服すれば、その緩衝地帯が失われます。

秀吉は家康よりも多くの兵力と広い経済基盤を持っていました。時間がたつほど秀吉の勢力が拡大すると考えれば、家康には信雄が抵抗している段階で秀吉を食い止める必要があります。

また、家康は甲斐・信濃へ勢力を伸ばしたばかりで、東国支配を安定させる途中でした。西から秀吉の圧力を受ければ、旧武田領の統治や北条氏との関係にも影響しかねません。

現代風にいえば、家康は自国の隣に巨大勢力が直接進出する前に、友好的な隣国を支援して防衛線を維持しようとしたことになります。信雄への支援には、信長との関係だけでなく、家康自身の領国防衛という切実な理由がありました。

家康が尾張へ出陣した狙い

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家康が尾張へ出陣した第一の目的は、信雄の領国を守り、秀吉軍の東進を阻止することでした。ただし、秀吉軍を一度の決戦で全滅させようとしたわけではありません。

秀吉方は家康方を大きく上回る兵力を動員できました。家康が広い平野で正面決戦を挑めば、包囲される危険があります。そのため家康は、清洲城や小牧山城などの拠点を利用し、秀吉軍の動きを見ながら戦う方針を取りました。

小牧山は尾張平野を見渡せる独立丘陵であり、周囲に堀・土塁・砦を設ければ防御力を高められます。家康は小牧山を陣城として整備し、秀吉軍に容易な攻撃を許しませんでした。陣城とは、野戦に備えて軍勢が駐屯し、指揮や防御に利用する臨時性の強い城郭です。

家康には、長期戦によって秀吉方の補給負担を増やし、各地の反秀吉勢力が動く時間を稼ぐ狙いもあったと考えられます。秀吉軍を尾張へ引きつければ、長宗我部元親や佐々成政、紀伊の勢力などが別方面から秀吉を圧迫する可能性がありました。

ただし、家康の最終目標を「天下取り」と断定することには注意が必要です。この時点で家康がどこまで全国政権の樹立を具体的に考えていたかは、史料から明確には分かりません。まずは信雄を支え、秀吉の東進を防ぎ、自らの独立を守ることが現実的な目的だったと考えるのが妥当でしょう。

これだけは覚えよう

  • 家康の参戦理由は、信長との旧同盟だけではありません。
  • 信雄支援には、信長の遺児を助けるという大義名分がありました。
  • 尾張は家康の領国を守る重要な緩衝地帯でした。
  • 家康は秀吉の東進と急速な勢力拡大を警戒しました。
  • 家康がこの時点で明確に天下取りを目指していたとは断定できません。

秀吉と家康を支えた武将たち

小牧・長久手の戦いは、秀吉と家康だけが戦った合戦ではありません。旧織田家臣や両者の家臣団が、それぞれの判断で陣営を選びました。

小牧・長久手の戦い

とりわけ池田恒興や森長可が秀吉方へ加わったことは、信雄にとって大きな誤算でした。一方の家康方では、井伊直政・榊原康政・本多忠勝らが軍事面を支えます。武将たちの選択からも、織田家中が二つに割れていたことが分かります。

秀吉方の池田恒興・森長可・堀秀政

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池田恒興・森長可・堀秀政は、いずれも織田信長に仕えた経験を持ち、小牧・長久手の戦いでは秀吉方に加わった武将です。

池田恒興は、母が信長の乳母だったことから信長の乳兄弟として知られます。清洲会議にも参加した織田家の有力者で、賤ヶ岳の戦いでは秀吉・信雄側に立ちました。

信雄方は開戦時、恒興が自分たちに味方することを期待していたと考えられていますが、実際には秀吉方へ参加し、犬山城を奪取しました。

森長可は、美濃国金山城を拠点とする武将です。勇猛さから後世に「鬼武蔵」と呼ばれ、弟には本能寺の変で信長とともに亡くなった森成利、通称・蘭丸がいます。長可は犬山城を確保した池田軍と連携し、羽黒へ進出しました。

堀秀政は、信長の側近として政務や軍事に携わり、本能寺の変後は秀吉に仕えました。調整力と軍事指揮の双方に優れた武将とされ、小牧・長久手の戦いでも秀吉方の重要な部隊を率います。

三人が秀吉方に加わった事実は、「織田一族の信雄対、織田家を乗っ取る秀吉」という単純な構図ではなかったことを示します。旧織田家臣のなかには、秀吉の軍事力や政権運営能力を評価し、秀吉のもとで領地や地位を守ろうとした者もいました。

秀吉の甥で総大将となった三好秀次

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三好信吉は秀吉の姉・智の子で、後に羽柴秀次、さらに豊臣秀次と名乗る人物です。小牧・長久手の戦い当時は17歳ほどの若武者でした。

従来は「三好秀次」と呼ばれることも多い人物ですが、長久手市の公的解説では、この時期の名を三好信吉としています。本記事では見出しとの対応上「三好秀次」としつつ、本文では当時の名として三好信吉を併記します。

秀吉にとって信吉は、血縁で結ばれた貴重な一門でした。秀吉には当時、成人した実子がいなかったため、甥たちは羽柴家を支える存在として期待されます。小牧・長久手の戦いでは、家康の本拠地・岡崎を目指す三河中入り部隊の総大将を任されました。

ただし、総大将といっても、若い信吉が池田恒興・森長可・堀秀政といった経験豊富な武将を完全に指揮できたとは考えにくいところです。秀吉の一門という身分を理由に名目的な総大将となり、実際の作戦や部隊運用では有力武将の意見が大きかったとみられます。

三河中入り作戦では、信吉隊が後方を進みました。家康方の奇襲を受けると部隊は崩れ、信吉自身も逃れることになります。この敗北は後の記事で詳しく扱いますが、若い一門武将を大軍の総大将としたことも、秀吉方の指揮系統を考えるうえで重要な論点です。

家康方の井伊直政・榊原康政・本多忠勝

あけぼの

家康方では、後に「徳川四天王」と呼ばれる井伊直政・榊原康政・本多忠勝らが重要な役割を担いました。徳川四天王とは、家康の天下取りを支えた酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政の四人をたたえる後世の呼称です。

井伊直政は、旧武田家臣などを組み込んだ赤い甲冑の部隊を率いました。これが「井伊の赤備え」です。長久手の戦いは、直政の赤備えが本格的に注目された合戦として知られています。

ただし、その活躍を語る際には、後世の軍記物による誇張と同時代史料で確認できる事実を分ける必要があります。

榊原康政は、小牧山周辺の防備や長久手方面の戦闘で家康を支えました。秀吉を非難する檄文を書き、秀吉を怒らせたという逸話も有名ですが、具体的な文言や秀吉の反応には後世の脚色が含まれる可能性があります。

本多忠勝は家康軍を代表する猛将で、秀吉軍の大軍を前に少数で立ちはだかったという逸話が伝わります。秀吉がその勇気を評価したともいわれますが、これも軍記物の物語として知られる部分が多く、慎重に紹介する必要があります。

三人の強みは、個人的な武勇だけではありません。家康の命令を受けて部隊を統率し、陣地防御・偵察・追撃などを担える指揮官だったことが、家康軍の機動力を支えました。

対立の中心にいた織田信雄

あけぼの

小牧・長久手の戦いは「秀吉と家康の直接対決」として有名ですが、本来の対立の中心にいたのは織田信雄でした。

秀吉と最初に決裂したのは信雄であり、三家老を殺害して対決姿勢を示したのも信雄です。家康は信雄を支援する立場で参戦しました。このため、戦争の大義名分は信雄が握っていたと考えられます。

信雄は後世、政治力に乏しく判断を誤る人物として描かれることがあります。特に三家老の殺害や、最終的に秀吉と単独講和したことが、否定的な評価につながりました。

しかし、信雄を単なる「愚将」として片付けると、戦いの本質を見失います。信雄は秀吉の勢力拡大によって自らの政治的立場と領国が脅かされるなか、家康や各地の反秀吉勢力と連携しようとしました。

秀吉の大軍を相手に約8か月間戦い続けたことも、信雄の領国と立場が一定の重みを持っていたからです。

一方で、信雄の家臣団は秀吉方の働きかけによって揺れ、尾張・伊勢の各地で領国を圧迫されました。家康が長久手で勝利しても、信雄の領地全体を守り続けることは困難でした。

最終的に信雄が秀吉と講和すると、家康は戦いを継続する大義名分を失います。つまり、信雄は開戦の中心人物であると同時に、戦争を終わらせる鍵を握った人物でもあったのです。

これだけは覚えよう

  • 池田恒興・森長可・堀秀政は、旧織田家臣ながら秀吉方に加わりました。
  • 三好信吉は後の豊臣秀次で、秀吉の甥にあたります。
  • 家康方では井伊直政・榊原康政・本多忠勝らが活躍しました。
  • 有名な武勇伝には、後世の軍記物による脚色が含まれる場合があります。
  • 開戦と終戦の鍵を握っていたのは織田信雄でした。

まとめ

賤ヶ岳の戦い後に勢力を伸ばす秀吉【まとめ】

賤ヶ岳の戦いでは、秀吉と信雄は柴田勝家織田信孝に対抗する協力関係にありました。しかし、共通の敵が滅ぶと、織田家と天下の政治を誰が主導するかという問題が表面化します。

信長の次男という正統性を持つ信雄に対し、秀吉は軍事力・領国・外交力で大きく上回っていました。小牧・長久手の戦いは、織田政権から秀吉政権へ移行する過程で起きた主導権争いだったのです。

秀吉と織田信雄の関係が決裂【まとめ】

1584年3月6日、信雄は秀吉への内通を疑った岡田重孝津川義冬浅井長時の三家老を殺害しました。この事件は秀吉への事実上の宣戦布告となり、両者の政治的対立は武力衝突へ移ります。

三家老が実際にどこまで秀吉と結んでいたのかは断定できませんが、信雄が秀吉との対決に備えて家中を整理したことは確かです。さらに各地の大名や地域勢力が連動し、戦争は全国的な広がりを見せました。

徳川家康はなぜ信雄に味方した?【まとめ】

家康が信雄を支援した理由は、信長との旧同盟だけではありません。信長の遺児を助けることは、秀吉と戦うための大義名分になりました。また、尾張は家康の領国である三河を西側から守る重要な緩衝地帯です。

信雄が秀吉に屈服すれば、家康は秀吉の大勢力と直接向き合うことになります。家康は信雄を支えながら秀吉の東進を防ぎ、自らの領国と独立した立場を守ろうとしたのです。

秀吉と家康を支えた武将たち【まとめ】

旧織田家臣は一枚岩ではなく、池田恒興森長可堀秀政らは秀吉方へ加わりました。秀吉の甥・三好信吉は三河中入り部隊の総大将となり、家康方では井伊直政榊原康政本多忠勝らが軍事面を支えます。その中心にいたのが織田信雄でした。

信雄は秀吉との対立を戦争へ発展させ、家康に参戦の根拠を与え、最後には秀吉との講和によって戦争を終結へ導く立場にもなりました。

参考史料・参考文献

一次史料・近世史料

  • 松平家忠『家忠日記
    家康の一族である松平家忠が記した同時代の日記です。徳川方の軍事行動や、戦役期間中の動向を確認するために参照できます。
  • 英俊ほか『多聞院日記 第3巻
    奈良の興福寺多聞院で記された日記。天正6年から天正13年までを収録し、秀吉・信雄の対立が畿内でどのように受け止められたかを確認するために参照できます。
  • 小牧・長久手合戦陣立図
    両軍の着陣や羽黒・長久手方面の動きを記した絵図です。後世にまとめられた情報を含むため、同時代の日記・書状と照合して利用する必要があります。
  • 『香宗我部文書』所収「1584年3月7日付香宗我部親泰宛織田信雄書状の研究上の所在
    三家老殺害直後における信雄方の外交活動と、長宗我部氏への働きかけを考えるために参照。

研究書・参考文献

Webサイト・公的機関の解説

  • 国立公文書館『小牧・長久手の戦い
    賤ヶ岳の戦い後の秀吉・信雄関係、三家老殺害、家康の参戦、開戦直後の流れを確認するために参照。
  • 小牧市『小牧・長久手の合戦
    犬山城の占領、羽黒の戦い、小牧山と楽田における両軍の布陣を確認するために参照。
  • 名古屋市博物館『小牧長久手の戦い
    信雄・家康の連携理由と、池田恒興・森長可・堀秀政らの動きを確認するために参照。
  • 長久手市『長久手古戦場物語
    池田恒興・森長可・堀秀政・三好信吉ら、参戦武将の経歴と長久手周辺での役割を確認するために参照。
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