天守とは?城のどこにあり何のために造られたのか?
城と聞いて、石垣の上にそびえる大きな「天守」を思い浮かべる方は多いでしょう。しかし、戦国時代の城すべてに天守があったわけではなく、そもそも天守は城全体を構成する建物の一つです。
では、なぜ武将たちは高く目立つ建物を造ったのでしょうか。この記事では、天守の役割や構造、「天守閣」との違い、織田信長の安土城から近世城郭へと続く歴史まで、初心者向けに分かりやすく解説します。
対象読者:歴史初級者
読了時間:約25分
そもそも「天守」とは何?
現在では城の象徴として知られる天守ですが、「城」と「天守」は同じものではありません。まずは天守が城のどこに位置し、どのような建物を指すのかという基本から整理してみましょう。

城は、曲輪・堀・土塁・石垣・門・櫓など、さまざまな施設を組み合わせて造られた防御空間です。その中で、主に近世城郭の中心部に建てられた大規模な高層建築が天守です。
ただし、その姿や規模、呼び方は時代や城によって異なります。「立派な天守がある城ほど優れた城だった」というわけでもありません。まず「天守は城を構成する一部分」という視点を持つことが、城のしくみを理解する第一歩です。 城びと
天守は城を構成する建物の一つ
あけぼの天守は城の中でもひときわ目立つ建物ですが、天守だけで城が成り立っていたわけではありません。城全体の中で天守がどのような位置を占めていたのかを考えてみましょう。
たとえば現在の姫路城を見ると、大きな天守がまず目に入ります。しかし城の防御を担っていたのは天守だけではありません。本丸・二の丸などの曲輪を設け、その周囲を石垣や堀で守り、門や櫓を配置して、敵が簡単には中心部へ近づけないよう工夫していました。
姫路城でも縄張そのものが複雑に構成されています。 姫路市公式サイト
つまり天守は、城という巨大な防御施設の中に置かれた建物の一つです。
現代風にいえば、大きな学校を校舎一棟だけで考えられないのと少し似ています。校門・校庭・体育館・校舎などを含めて学校が成り立つように、城も天守・門・櫓・曲輪・堀・石垣などが組み合わされていました。
しかも、戦国時代の山城では土塁や堀切など地形を利用した防御施設が重要で、現在私たちがイメージする巨大な天守が存在しない城も数多くありました。
そのため、城跡を訪れたときに天守が見当たらなくても、「何も残っていない城」と考える必要はありません。むしろ曲輪や堀、土塁などを見ることで、その城がどのように敵を防ごうとしていたのかが見えてきます。
「天守閣」と「天守」は同じもの?
あけぼの観光案内などでは「天守閣」という言葉をよく見かけます。一方、城郭研究や文化財の説明では「天守」が多く使われます。二つの言葉にはどのような違いがあるのでしょうか。
一般には「天守閣」という呼び方も広く定着しているため、日常会話で使っても意味は十分に通じます。ただし、城郭を専門的に説明するときには「天守」という呼称が基本的に使われます。
公益財団法人日本城郭協会理事の加藤理文氏による解説では、「天守閣」は江戸時代後期に庶民の間で言いならわされ、明治時代以降に広く使われるようになった呼称とされ、学術用語では「天守」が用いられています。 城びと
少しややこしいのが安土城です。織田信長の安土城では「天守」ではなく「天主」という表記が用いられています。滋賀県の公式資料でも安土城については「天主」と記されています。 滋賀県公式ホームページ
したがって、ブログの記事では基本的に「天守」で統一し、安土城を扱う場面では「安土城天主」と表記すると、歴史的な違いも伝えられます。
初心者の段階では、
「一般には天守閣とも呼ばれるが、この記事では天守と呼ぶ」
と覚えておけば十分です。
すべての城に天守があったわけではない
あけぼの現在の観光地では天守のある城が強く印象に残りますが、戦国時代の城を考えるときには注意が必要です。すべての城が大きな天守を備えていたわけではありません。
戦国時代には、日本各地に数多くの城や城館が築かれました。その姿は地域・時期・築城目的によってさまざまで、山の地形を利用した山城も数多く存在しました。
たとえば、尾根を削って平らな曲輪(くるわ)を造り、その周囲へ土塁を築き、尾根を堀切で分断するだけでも強力な防御施設を構築できます。こうした城に、姫路城のような巨大な天守が必要だったわけではありません。
文化庁の文化遺産オンラインに掲載される都於郡城(とのこおりじょう)でも、本丸・二ノ丸など複数の郭や土塁、空堀によって城が構成されていたことが確認されています。 文化遺産オンライン
ここで大切なのは、
「天守がある=城」「天守がない=城ではない」
という考え方をしないことです。
天守が広く知られるようになるのは、織田・豊臣政権期から近世城郭が発達していく過程と深く関係しています。
城跡巡りでは、天守がない城ほど地形を見る楽しさがあります。「なぜこの場所に曲輪があるのか」「敵はどこから攻めてくるのか」と考えて歩けば、土だけで築かれた城にも高度な防御思想があったことが分かってきます。
天守がなくても立派な城だった
あけぼの天守の高さや華やかさだけで、城の強さや重要性を判断することはできません。天守を持たない城でも、地形・堀・土塁などを巧みに組み合わせた城は数多く存在しました。
戦国時代の城にとって重要だったのは、「敵の攻撃を防ぎ、自分たちの目的を達成できるか」という点です。そのため、巨大な建物を建てることよりも、地形を利用することが合理的な場合もありました。
山城なら急斜面そのものが防御施設になります。尾根を堀切で断ち切れば、敵が尾根伝いに侵入するのを難しくできます。曲輪を段状に配置すれば、攻め上ってくる敵に対して高い位置から対応できます。
一方、織豊期から江戸時代初期になると、大規模な石垣や瓦葺き建物を備えた城郭が各地に築かれ、その中で天守が城主の権力を視覚的に示す役割も強めていきました。
つまり、
「天守があるかどうか」と「城として優れているかどうか」は別問題
なのです。
城を見るときには、天守だけでなく、城が置かれた山・川・街道、曲輪の配置、堀や石垣、門の位置まで含めて見ることが重要です。
天守は城の主役級の建物ではありますが、城全体から切り離して考えないことが、城郭を理解する大切なポイントです。
これだけは覚えよう
天守について最初に覚えておきたいポイントは、次の3つです。
- 天守は「城そのもの」ではなく、城を構成する建物の一つ
- 「天守閣」という呼び方も一般的だが、城郭研究では「天守」が基本
- すべての城に天守があったわけではない
天守がない城でも、曲輪・堀・土塁・石垣・門・櫓などを組み合わせて十分に城として機能していました。
天守は何のために造られた?
天守は単に「高い場所から敵を見るための建物」だったのでしょうか。実際には軍事的な機能だけでなく、城主の権威を示す象徴など、複数の意味を持つ建物として考える必要があります。

天守の役割を一つだけに決めることはできません。周囲を見渡す高層建築である以上、監視や防御に利用できる一方、巨大で華麗な姿そのものが城主の力を示しました。
また、城によって構造や使われ方も異なります。そのため、「天守は○○のためだけに造られた」と考えるより、軍事・政治・象徴といった複数の側面を持つ建築として理解すると、なぜ戦国末期から大規模な天守が登場したのかが見えてきます。 国立国会図書館サーチ(NDLサーチ)
城の中心部にそびえる象徴的な建物だった
あけぼの高くそびえる天守は遠くからでも目につきます。その存在は城の位置を示すだけでなく、「ここが領国支配の中心である」と視覚的に伝える象徴にもなりました。
近世城郭では、天守は一般に城の中枢部に置かれました。ただし、「必ず本丸のど真ん中」という意味ではありません。天守台の位置や縄張は城ごとに異なり、城全体の設計との関係で配置されています。
たとえば松江城の天守は、本丸北東部に建っています。現在の天守は四重五階・地下一階付きの構造で、城内でも特に目立つ建築です。 松江市公式サイト
こうした巨大な建物が城下から見えることには、大きな意味があったと考えられます。
城下町で暮らす人々や城を訪れた使者からすれば、石垣の上にそびえる巨大な天守は、城主の権力を視覚的に感じさせる存在だったでしょう。
ただし、「天守=政治を行う役所」と単純に考えることもできません。城主の日常的な政務や生活の中心となる御殿が別に設けられる城もありました。
つまり、天守は城の中枢を構成する重要建築でありながら、城内のすべての機能を一棟で担った建物ではありません。
城の中心を象徴する高層建築――これが天守を理解する一つの入口です。
周囲を見渡す役割もあった
あけぼの天守は高い建物ですから、上層部から城内や城下、周囲の地形を見渡すことができます。ただし「敵を見るためだけの巨大な物見櫓」と理解するのは単純化しすぎです。
高所から周囲を確認できることは、城郭建築として明らかな利点です。
実際、天守の形式を説明するときには「望楼型(ぼうろうがた)」という言葉が使われます。「望楼」とは、遠くを見渡すための高い建物・櫓を意味します。
たとえば犬山城天守は、文化庁の解説でも二重櫓の上に望楼を載せた「望楼型」とされています。最上階には高欄付きの廻縁が巡らされています。 文化財デジタルコンテンツダウンロードサイト
高い位置からなら、城内の状況だけでなく、城下町や街道、河川なども確認できます。
しかし、ここで注意したいのは、
「天守が高い→監視塔として造られた」
と目的を一つに決めてしまわないことです。
城には天守以外にも櫓があり、城門や城壁、各曲輪にも防御・監視のための施設が配置されていました。日常的な監視をすべて天守から行っていたわけではありません。
天守の高さは軍事的な視界を得ることに役立つ一方、遠くから見えること自体が権威を示す効果も持っていたと考えると理解しやすいでしょう。
防御施設としてどこまで役立った?
あけぼの天守には武器を使用するための設備を備えた例もあり、防御施設としての性格を持っていました。しかし、城全体の防御を天守だけで担っていたわけではありません。
天守の中には、鉄砲や弓などを使用するための開口部や、接近した敵に対応する設備を備える例があります。姫路城大天守の修理図面にも石落しなどの構造が記録されています。 姫路市公式サイト
このため、敵が城の中枢まで侵入した場合、天守が防御拠点として利用できる構造を持っていたことは確かです。
しかし、実際の城攻めでは敵がいきなり天守へ到達するわけではありません。
まず堀を越え、門を突破し、曲輪を攻略し、石垣や櫓などの防御線を突破する必要があります。城によっては本丸へたどり着くまでに複雑な経路を通らなければなりません。

したがって、天守は「城を守る最後の砦」と説明されることがありますが、これもすべての城に一律に当てはめるのは慎重であるべきです。
天守そのものに軍事的な設備があっても、城の防御力は縄張・堀・石垣・門・櫓などを含む城全体によって生み出されていたと考える方が実態に近いでしょう。
権威や城主の力を示す意味もあった
あけぼの巨大な石垣の上に華麗な天守を築くには、多くの資材・職人・労働力が必要です。そのため天守の姿そのものが、築城者の政治力や経済力を示す装置にもなりました。
この性格を考えるうえで重要なのが、織田信長の安土城です。
滋賀県によれば、安土城は天正4年(1576年)に築城が始まり、畿内・東海・北陸から多くの人夫が集められ、当時の高度な技術を持つ職人たちが動員されました。天正7年(1579年)には天主が完成し、信長が移り住んでいます。 滋賀県公式ホームページ
これほど大規模な建築事業を実行できること自体が、信長の力を示すものでした。
その後、豊臣秀吉も大坂城を築きます。巨大な石垣や城郭建築は、単なる戦争のための設備だけではなく、政権の中心を視覚化する役割も担いました。大阪城天守閣の解説でも、豊臣大坂城は豪壮華麗な城として知られています。 大阪城天守閣
つまり天守は、
「敵を防ぐ建物」+「支配者の力を見せる建物」
という二つの面を持っていたと考えると分かりやすいでしょう。
これだけは覚えよう
天守の役割を一つだけに決めつけないことが大切です。
- 城の中枢部を象徴する高層建築
- 高い位置から周囲を見渡せる
- 防御に利用できる設備を備えた例がある
- 城主・政権の権威を視覚的に示す意味もあった
つまり、天守には軍事的機能と象徴的機能の両方があったと理解しておきましょう。
天守はどんなしくみになっていた?
天守をよく観察すると、外から見える屋根の数と内部の階数が一致しない場合があります。また、一棟だけでなく複数の天守や櫓をつないだ城もあり、その構造は意外に複雑です。

天守は城によって大きさも構造も異なります。そのため「天守は○階建て」と一律に説明することはできません。
外観の屋根の重なりを表す「層・重」と、内部の床によって区切られた「階」を分けて考えることがポイントです。また、大天守の周囲に小天守や櫓を配置して接続する例もあります。天守の外観だけでなく内部構造にも注目すると、お城巡りの楽しみがさらに広がります。 姫路市公式サイト
天守には何階まであった?
あけぼの天守の階数は城によって異なり、「天守なら必ず五階」という決まりがあったわけではありません。外観だけを見て階数を数えると、実際の内部構造と合わないこともあります。
分かりやすい例が姫路城です。
姫路市公式サイトでは、大天守は「5重6階」と説明されています。さらに大天守と3棟の小天守が渡櫓でつながっています。
一方、松江城天守は松江市公式サイトでは「四重五階」と紹介され、さらに地下一階を備えています。
つまり、外から見た屋根の重なりと、内部に実際に設けられた床の数は必ずしも一致しません。
天守台の内部や石垣上の空間を利用して地下階を設ける例もあります。
そのため、お城を紹介するときに単純に「五階建て」と書くより、
「五重六階」 または 「五層六階」
のように外観と内部を分けて表記すると、建物の特徴をより正確に伝えられます。
また、天守の規模は城主の格だけで機械的に決まったわけではありません。築城年代、城の立地、縄張、建築技術、政治的事情などによって異なります。
城巡りの際には「何階あるのか」だけでなく、「外から何重に見えるのか」にも注目してみてください。天守の見方が大きく変わります。
「層・重」と「階」は何が違う?
あけぼのお城の説明で見かける「五層(重)六階」のような表記には意味があります。「層・重」は外観、「階」は内部空間を見るための言葉と考えると理解しやすくなります。
初心者が混乱しやすいポイントなので、簡単に整理しておきましょう。
| 用語 | 基本的な見方 |
|---|---|
| 層・重 | 外から見た屋根の重なり |
| 階 | 建物内部の床で区切られた空間 |
たとえば姫路城大天守は、外観では五重ですが、内部は六階あります。公式サイトでも「5重6階」と説明されています。 姫路市公式サイト
松江城の場合は「四重五階、地下一階付」です。 松江市公式サイト
なぜ一致しないのでしょうか。
天守は現代のビルのように、外観一層と内部一階が必ず対応する設計ではありません。屋根裏にあたるような部分へ床を設けたり、外観から分かりにくい階を内部に組み込んだりすることがあるためです。
そのため、
「屋根を5つ数えたから5階建て」
とは限りません。
なお、資料や城によって「層」「重」などの表記には違いがあります。一般的には公的機関や各城の公式資料が採用している表記を確認して使うと間違いがないと思います。

この違いを知っていると、天守を外から眺めてから内部へ入った際に、「ここにもう一階あるのか!」と構造を楽しめるようになります。
※ 注意点
特に断りがなければ、当ブログでは「五層六階」のように、「層・階」と漢数字を組み合わせて記述いたします。
大天守と小天守はどうつながっていた?
あけぼの天守は必ず一棟だけで独立していたわけではありません。大天守の周囲に小天守や櫓を設け、渡櫓などで結んだ複雑な天守群を形成する城もありました。
代表例が姫路城です。
姫路城では、五層六階の大天守と東小天守・西小天守・乾小天守があり、それらが渡櫓(わたりやぐら)で結ばれています(「小天守」は「こてんしゅ」と呼びます)。このように複数の天守を渡櫓で結ぶ形式は「連立式(れんりつしき)」と呼ばれます。 姫路市公式サイト
簡単に模式化すると、
大天守
↕ 渡櫓
小天守 ─ 渡櫓 ─ 小天守
というイメージです。
ただし、すべての城がこの形式だったわけではありません。
大天守と小天守の組み合わせ方や櫓との接続方法によって、独立式・複合式・連結式・連立式などに分類されることがあります。

初心者の段階では分類名をすべて暗記する必要はありません。
重要なのは、
「天守は一棟だけとは限らない」
という点です。
複数の建物を接続することで、防御上も複雑な空間を形成できます。同時に、屋根が重なり合うことで外観にも変化が生まれます。
姫路城を訪れた際には、大天守だけを見るのではなく、「周囲の小天守とどこでつながっているのか」に注目すると、連立式天守の面白さがよく分かります。
天守の内部にはどんな空間があった?
あけぼの豪華な外観から「城主が毎日暮らした宮殿」を想像するかもしれませんが、天守内部の使われ方は城によって異なり、現代の住宅とはまったく違う空間でした。
現存天守へ入ると、太い柱や梁、急な階段、武具を置くための設備などを見ることができます。
天守には防御に対応できる構造を持つ例があり、武器や物資を置く空間なども設けられました。一方、城主の日常生活や政務の中心については、天守とは別に御殿が設けられる城もあります。
したがって、
「城主は毎日天守の最上階で生活していた」
というイメージをすべての城に当てはめるのは適切ではありません。
一方で、天守内部の用途も城・時代によって異なります。
特に安土城天主については、織田信長が天正7年(1579年)の完成後に移り住んだことを滋賀県の資料が記しており、後世の天守とまったく同じ使われ方だったと考えることもできません。 滋賀県公式ホームページ
つまり「天守の内部は○○に使う場所」と一つの用途に限定するのではなく、築城者や時代による違いを見ることが重要です。
現存天守を訪れた際には、展示品だけでなく柱・梁・窓・階段・床そのものにも注目してみましょう。
これだけは覚えよう
天守の構造については、次の3点を押さえておけば十分です。
- 外観の「重・層」と内部の「階」は一致しないことがある
- 天守の規模や階数は城によって異なる
- 大天守と小天守・櫓などを組み合わせる城もある
特に**「五重六階」のような表記を理解できるようになると、城の公式解説が一気に読みやすくなります。**
天守はいつから造られるようになった?
現在よく知られる天守は、戦国時代の初めから全国の城に存在したわけではありません。戦国後期から織豊期に城郭が大きく変化する中で、高層建築も発達していきました。

天守の起源については、どの建物を「最初の天守」と認定するかによって見方が変わるため注意が必要です。高層の櫓や御殿的建築などを経て天守が成立したと考えられています。
その歴史を考えるうえで画期となるのが織田信長の安土城で、その後、豊臣政権期から江戸時代初頭にかけて各地で天守を持つ近世城郭が築かれました。
ここでは「誰が最初か」より、天守がどう発達したのかを見ていきましょう。 城びと
天守につながる高層建築はいつ登場した?
あけぼの「日本最初の天守は安土城」と紹介されることがありますが、天守の成立はそれほど単純ではありません。安土城以前にも、天守につながる高層建築が存在したと考えられています。
中世の城にも櫓などの建築物は存在しました。しかし、現在私たちが「天守」と呼ぶ大規模な高層建築がどの段階で成立したのかについては、城郭史・建築史の研究対象になっています。
そのため、
「○○城が日本最初の天守である」
と一つの城に断定してしまうのは慎重であるべきです。
そもそも「天守」という建築の定義自体をどこまで広げるかによって、候補となる建物が変わるからです。
16世紀には、城の中枢に高層の建築物を置く動きが次第に明確になっていきます。そうした流れの中で、後世の天守に大きな影響を与えた重要な存在として登場するのが安土城です。
したがって初心者向けには、
中世城郭の櫓など
↓
16世紀の高層建築
↓
安土城天主
↓
織豊期・近世の天守
という「発達の流れ」として理解するのがおすすめです。
天守はある日突然発明され、翌日から全国へ普及したわけではありません。城郭そのものの変化とともに発達した建築なのです。 国立国会図書館サーチ(NDLサーチ)
織田信長の安土城は天守の歴史でなぜ重要?
あけぼの天守の歴史を語るうえで、織田信長が築いた安土城は欠かせません。ただし重要なのは「日本初」と断定することではなく、その規模と後世への影響を見ることです。
安土城は、織田信長が天正4年(1576年)に築城を開始した城です。
滋賀県によれば、天正7年(1579年)には天主と本丸御殿が完成し、信長が移りました。ところが天正10年(1582年)の本能寺の変で信長が死去した後、動乱の中で天主・本丸が焼失しています。 滋賀県公式ホームページ
安土城関連年表
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 天正4年(1576年) | 安土城築城開始 |
| 天正7年(1579年) | 天主・本丸御殿が完成し、信長が移る |
| 天正10年(1582年) | 本能寺の変後、天主・本丸が焼失 |
| 天正13年(1585年) | 安土城が役割を終え、廃城へ |
安土城の重要性は、巨大な石垣、高層の天主、城下町などを組み合わせた新しい時代の城郭を考えるうえで大きな画期となった点にあります。
ただし、安土城天主の外観や内部については不明な部分もあり、復元案も一つではありません。
したがって、復元イラストを「実際の安土城はこの姿だった」と断定的に紹介しないことも重要です。
豊臣秀吉の時代に巨大な天守が各地に登場した
あけぼの信長の死後に天下統一を進めた豊臣秀吉も、大規模な城郭を築きました。織豊政権の拡大とともに、天守を備えた近世城郭が各地で目立つようになります。
豊臣秀吉は天正11年(1583年)、大坂城の築城を開始しました。大阪城天守閣の公式解説でも、この年を豊臣大坂城の築城開始としています。 大阪城天守閣
大坂城は秀吉政権の中心として整備され、巨大な石垣や華麗な建築によって権力を視覚化する城となりました。
さらに、織田・豊臣政権と関係を持った大名たちによって、石垣・瓦・天守などを特徴とする城郭が各地へ広がっていきます。
ただし、
「秀吉が全国の大名へ天守を造らせた」
と単純化するのは避けた方がよいでしょう。
城郭の発達には、大名同士の政治関係、築城技術の伝播、地域性など複数の要因が関係しています。
また、現在の大阪城で地上に見えている石垣は豊臣時代のものではありません。豊臣大坂城は大坂夏の陣後に徳川幕府によって埋められ、その上に徳川期大坂城が再築されました。現在見える石垣や堀は幕府による再築時のものです。 大阪城天守閣
この違いを知っておくと、現在の城と戦国時代の城を混同せずに楽しめます。
江戸時代になると天守を造らない城も増えた
あけぼの江戸時代に入ったからといって、全国の城に天守が完成したわけではありません。政治状況の変化によって築城や城の改修が制限され、天守を持たない城もありました。
慶長20年(1615年)、徳川幕府は一国一城令を進め、さらに武家諸法度によって大名の城郭修築などを統制していきました。戦国時代のように各地で自由に軍事拠点を増やしていく状況ではなくなっていきます。
文化遺産オンラインでも、日向の都於郡城(とのこおりじょう)が元和元年(1615年)の一国一城令によって廃城になったと考えられていることが紹介されています。 文化遺産オンライン
また、天守は一度建てれば永久に残るわけではありません。
火災・落雷・地震などで失われることもありました。失われた後に再建されない場合もあります。
つまり、
「江戸時代の城=立派な天守がある」
というわけでもないのです。
城の中心的な機能は、天守がなくても本丸御殿・櫓・門などによって維持できます。
現在でも「天守がない城」は珍しくありませんが、それを「未完成の城」と考える必要はありません。
むしろ、なぜその城には天守がないのかを調べると、幕府と大名の関係、火災、災害、城郭政策など、その城独自の歴史が見えてきます。
これだけは覚えよう
天守の歴史では、次の流れを押さえておきましょう。
16世紀の高層城郭建築
↓
安土城天主
↓
豊臣政権期の大規模城郭
↓
江戸時代初期の近世城郭
ただし、「安土城が絶対に日本最初の天守」と単純に断定しないことが大切です。
また、江戸時代の城にも必ず天守があったわけではありません。
天守とは?まとめ
そもそも「天守」とは何?
天守は城そのものではなく、曲輪・堀・土塁・石垣・門・櫓などとともに城を構成する建物の一つです。
現在は城の象徴として天守が注目されがちですが、戦国時代のすべての城に天守が存在したわけではありません。「天守閣」という呼び方も一般には定着していますが、城郭研究では基本的に「天守」が使われます。
城を見るときには、天守の有無だけで価値を判断せず、縄張や地形を含めた城全体を見ることが大切です。
天守は何のために造られた?
天守には、周囲を見渡すことができる高層建築としての性格や、防御に利用できる構造を持つ例があります。
しかし、その役割を軍事目的だけに限定することはできません。巨大で華麗な天守は遠くからでも目立ち、城主や政権の権威を視覚的に示す象徴にもなりました。
そのため天守は、「戦うための建物」と「力を示す建物」という複数の側面から考える必要があります。城ごとの違いにも注目しましょう。
天守はどんなしくみになっていた?
天守は城によって規模や構造が異なります。外から見た屋根の重なりを示す「重・層」と、内部の床で区切られた「階」は一致しないことがあり、姫路城大天守は五重六階、松江城天守は四重五階・地下一階付きです。
また、大天守だけでなく小天守や渡櫓などを組み合わせる城もありました。お城巡りでは外観だけを見るのではなく、内部の階数、柱や梁、階段、小天守との接続などにも注目すると、天守の構造をより深く楽しめます。
天守はいつから造られるようになった?
現在知られる天守は戦国時代の初めから全国に存在したわけではなく、16世紀の城郭変化の中で発達していきました。
天守の歴史では織田信長の安土城が重要な画期となり、その後、豊臣秀吉の時代から江戸時代初頭にかけて大規模な近世城郭が各地に築かれました。
ただし、「安土城が日本最初の天守」と単純に断定するのは慎重であるべきです。天守の歴史は、一つの建物の発明ではなく、城郭そのものが変化していく過程として見ることが重要です。
参考史料・参考文献
一次史料・近世史料
- 太田牛一『信長公記』
安土城天主や織田信長の動向を確認する際の基本史料です。今回、安定して本文を直接確認できる公的な単独公開ページを確認できなかったため、リンク先未確認とします。
※安土城の復元を扱う場合は、『信長公記』だけでなく、宣教師による記録や発掘調査成果など複数の史資料を照合する必要があります。
研究書・参考文献
- 三浦正幸『天守―芸術建築の本質と歴史』
天守の構造・意匠・軍事的機能や歴史を詳しく検討した専門的な参考文献です。国立国会図書館サーチで書誌情報を確認できます。 国立国会図書館サーチ(NDLサーチ) - 三浦正幸『城のつくり方図典 改訂新版』
天守だけでなく、石垣・櫓など城郭建築全般を理解するための参考文献です。 国立国会図書館サーチ(NDLサーチ) - 三浦正幸監修『図説・天守のすべて―城の象徴にこめられた技と智恵』
天守の構造や形式を図版とともに確認する際に有用です。 国立国会図書館サーチ(NDLサーチ) - 中井均・加藤理文編『近世城郭の考古学入門』
考古学から近世城郭を考えるための入門書で、天守台を含む城郭遺構の理解に役立ちます。 国立国会図書館サーチ(NDLサーチ) - 加藤理文『織田信長の城』
発掘成果などから信長期の城郭政策・天守構築を考える参考文献です。 国立国会図書館サーチ(NDLサーチ)
Webサイト・公的機関の解説
- 滋賀県「特別史跡安土城跡の調査と整備」
安土城の築城開始、天主完成、本能寺の変後の焼失などを確認するために参照しました。 滋賀県公式ホームページ - 文化庁・文化遺産オンライン「安土城跡」
安土城の天守台、本丸などの遺構と文化財としての評価を確認できます。 文化遺産オンライン - 姫路城公式サイト「姫路城の規模」
姫路城の縄張、大天守・小天守、連立式天守について確認するために参照しました。 姫路市公式サイト - 姫路城公式サイト「大天守」
大天守の断面・構造や石落しなどの修理図面を確認できます。 姫路市公式サイト - 松江市「松江城天守の国宝指定について」
松江城天守が四重五階・地下一階付きであることなど、構造・形式を確認しました。 松江市公式サイト - 大阪城天守閣「豊臣石垣館―地中の豊臣大坂城」
豊臣大坂城の築城開始と、現在の大阪城の石垣・堀が徳川幕府再築時のものであることを確認するために参照しました。 大阪城天守閣 - 公益財団法人日本城郭協会「日本100名城一覧」
各城の天守の現況・形式などを確認する際の参考になります。

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