戦国時代とは?いつからいつまで続いたのか初心者向けに解説
「戦国時代」と聞くと、織田信長や武田信玄、上杉謙信などの武将が各地で戦った時代を思い浮かべる方が多いでしょう。しかし、戦国時代は単に合戦が続いた時代ではありません。
室町幕府を中心とした政治秩序が揺らぎ、各地に新たな支配者が登場し、城や町、人々の暮らしまで大きく変化しました。では、戦国時代はいつ始まり、どのような過程を経て終わったのでしょうか。まずは戦国時代の全体像から見ていきましょう。
対象読者:歴史初級者
読了時間:約24分
そもそも戦国時代とはどんな時代?
戦国時代は、有力な武士たちが各地で勢力を争っただけでなく、それまでの政治や社会のしくみが大きく変化していった時代です。

それまで武家社会の中心にあった室町幕府の政治的な力が次第に弱まり、地方では独自に地域を支配する勢力が成長しました。そのなかから登場したのが戦国大名です。
一方、農業や商業、都市も発展し、各地では城下町が形成されていきます。戦国時代を見るときは「誰が誰と戦ったのか」だけではなく、政治・経済・社会がどのように変化したのかにも注目すると、時代の姿がより立体的に見えてきます。
室町幕府の力が弱まり各地で争いが広がった
あけぼの戦国時代を理解する最初のポイントは、京都に置かれていた室町幕府を中心とする政治秩序が、長い時間をかけて不安定になっていったことです。
室町幕府では、**征夷大将軍(武家政権の長となる役職)**である足利将軍家と、有力な守護たちとの関係によって政治が行われていました。ところが15世紀になると、将軍家や有力武家の家督争い、地域をめぐる対立などが複雑に絡み合うようになります。
その対立が大規模な戦乱へ発展したのが、応仁元年(1467年)に始まった応仁・文明の乱です。京都を中心に戦闘が続き、文明9年(1477年)まで約11年間に及びました。
ただし、「応仁の乱によって幕府が突然崩壊し、その翌日から戦国時代になった」と考えるのは単純すぎます。乱が終わった後も室町幕府と将軍は存在し続けました。
重要なのは、中央の政治的対立と各地の地域紛争が重なりながら、従来の支配関係が変化していったことです。戦国時代は一つの事件によって突然始まったのではなく、長期的な政治・社会の変化のなかから形成された時代と考えると分かりやすいでしょう。
戦国大名が各地に登場した
あけぼの幕府を中心とする秩序が変化するなか、各地では自らの軍事力や家臣団を背景として、地域を支配する「戦国大名」が成長していきました。
戦国大名とは、戦国期に一定の地域を支配し、家臣を組織して領国経営を行った大名を指します。ただし、「戦国大名」という正式な役職が存在したわけではありません。現在の歴史研究で、こうした地域権力を説明するために用いられている言葉です。
戦国大名の出自も一様ではありません。室町幕府から国ごとの軍事・行政を担う守護(しゅご:幕府から各国に置かれた有力武士)に任じられた家から成長した勢力もあれば、守護を補佐する守護代や地域の武士から勢力を伸ばした者もいました。
たとえば甲斐では武田氏、越後では上杉氏、相模を中心とした関東では後北条氏、中国地方では毛利氏などが勢力を拡大します。
そして戦国大名に必要だったのは、合戦に勝つことだけではありません。家臣を統率し、土地や税を管理し、城や町を整え、領国内の秩序を保つことも重要でした。
つまり戦国大名は、単なる「強い武将」ではなく、地域を実際に統治する政治権力でもあったのです。
実力で立場を変える「下剋上」が広がった
あけぼの戦国時代を象徴する言葉として有名なのが「下剋上」です。しかし、単純に「家臣が主君を裏切って倒すこと」だけを意味するわけではありません。
下剋上とは、文字どおり捉えれば「下の者が上の者に剋つ」という意味です。従来の身分や主従関係だけでは政治秩序を維持できなくなり、実力を持つ者がより大きな政治的・軍事的影響力を獲得していく動きを表す言葉として使われます。
戦国時代には、守護を支えていた守護代が実権を握ったり、地域の武士が連携して従来の支配者に対抗したりするなど、各地でさまざまな権力変動が起こりました。
ただし、「戦国時代=身分に関係なく誰でも大名になれた時代」と考えるのも正確ではありません。血縁、家格、主従関係、地域社会との結び付きなどは依然として重要でした。
また、後世に「下剋上の典型」とされた人物についても、近年の研究によって従来の人物像が見直される例があります。
したがって下剋上は、「何でもありの無秩序な社会」ではなく、従来の権威と新しい実力がせめぎ合った戦国社会の変化として理解するとよいでしょう。国立歴史民俗博物館も、中世後期について下剋上だけでなく、民衆の活動や農業・手工業の発展を含む社会変化を紹介しています。
戦いだけではなく社会も大きく変化した
あけぼの「戦国」という名前から戦争ばかりの時代に見えますが、人々は日々の生活を続け、農業・商業・都市・文化も大きく発展していきました。
戦国時代にも、農民は田畑を耕し、商人は商品を売買し、職人はさまざまな道具を作っていました。寺社では宗教活動が続き、京都をはじめ各地の都市では文化や商業も発展しています。
戦国大名にとっても、合戦だけしていれば領国を維持できたわけではありません。農業生産を安定させ、道路や市場を整え、商人や職人が活動できる環境をつくることは、自らの軍事力や財政を支えることにもつながりました。
さらに大名の拠点となる城の周辺には人々が集まり、後の城下町につながる都市空間も発達していきます。越前の戦国大名朝倉氏の拠点だった一乗谷では、発掘調査によって大名館や町並みの姿が具体的に明らかになっています。
戦国時代を「武将と合戦の時代」として楽しむのはもちろんですが、そこで生活していた普通の人々にも目を向けると、戦国史はさらに面白くなります。
これだけは覚えよう
戦国時代の基本は、次の4点を押さえておけば大丈夫です。
- 室町幕府を中心とした政治秩序が次第に揺らいだ
- 各地に戦国大名と呼ばれる地域権力が成長した
- 下剋上に象徴される権力関係の変化が起こった
- 合戦だけでなく、政治・経済・都市・社会も大きく変化した
「日本中で武将がずっと戦っていた時代」とだけ覚えず、新しい地域支配や社会のしくみが形成されていった時代として見ることがポイントです。
戦国時代はいつからいつまで?
実は、「戦国時代は○年から○年まで」とすべての研究者が一致する明確な答えがあるわけではありません。始まりと終わりには複数の区切り方があります。

学校の歴史では、応仁元年(1467年)の応仁・文明の乱から戦国時代が始まったと覚えた方も多いでしょう。しかし、研究上は明応2年(1493年)の明応の政変などを重視する見方もあります。
終わりについても、秀吉の全国統一、関ヶ原の戦い、江戸幕府成立など複数の節目があります。そこで「正解の年」を一つ暗記するより、なぜその年が区切りとされるのかを理解していきましょう。
始まりにはいくつかの考え方がある
あけぼの戦国時代の始まりとして最もよく知られるのは応仁元年(1467年)ですが、歴史上の時代区分は後世の研究者が設定したもので、別の考え方もあります。
代表的な区切りが、応仁・文明の乱の始まった応仁元年(1467年)です。京都で有力武家が東西に分かれて戦い、政治秩序が大きく揺らいだため、長く「戦国時代の幕開け」と説明されてきました。
一方、明応2年(1493年)に起こった明応の政変を重視する考え方もあります。また、地域ごとに政治状況は異なるため、全国が同時に「戦国時代」に切り替わったわけでもありません。
そもそも当時の人々が「今日から戦国時代が始まった」と認識していたわけではなく、「戦国時代」という区分そのものが後世から歴史を整理するためのものです。
東京大学史料編纂所の『大日本史料』でも、応仁元年(1467年)から永正5年(1508年)を第8編、永正5年から永禄11年(1568年)を第9編として編纂しており、歴史の変化を連続的に捉えることができます。
したがって初心者の段階では、「15世紀後半から戦国的な状況が本格化していった」と理解しておくとよいでしょう。
応仁・文明の乱はなぜ大きな転機になった?
あけぼの応仁・文明の乱は、将軍家や有力武家の対立などが複雑に絡み合い、京都を主戦場として長期化した大規模な内乱でした。
応仁元年(1467年)に始まった応仁・文明の乱では、細川勝元を中心とする東軍と、山名持豊(宗全)を中心とする西軍に、多くの有力武家が加わりました。
争いの背景には将軍家の後継問題だけでなく、畠山氏や斯波氏など有力家の家督争い、細川氏と山名氏の政治的対立などが複雑に絡んでいました。そのため「将軍の跡継ぎをめぐって二つの陣営が戦った」とだけ説明すると、実態を単純化しすぎてしまいます。
戦乱は京都を中心に長期化し、文明9年(1477年)に東西両軍の大規模な対立は終息します。
しかし重要なのは、乱が終わっても政治的・地域的な争いがすべて解決したわけではなかったことです。各地では地域権力の再編が進み、その後の戦国社会へとつながっていきました。
そのため応仁・文明の乱は、戦国時代を一瞬で生み出した事件というより、政治秩序の変化を大きく加速させた転機として捉えると分かりやすいでしょう。
明応の政変を始まりとする考え方もある
あけぼの近年の戦国史を理解するうえで覚えておきたいのが、明応2年(1493年)の「明応の政変」を重要な画期として見る考え方です。
明応の政変では、室町幕府の有力者である細川政元が、第10代将軍足利義材(あしかが よしき:のちの義稙(よしたね))を排除し、別の将軍を擁立しました。
この出来事の重要な点は、単なる将軍交代ではありません。有力武家が将軍を政治的に排除し、幕府政治のあり方が大きく変化したことにあります。
応仁・文明の乱が終わった後も室町幕府は存在していましたが、その内部では政治的対立が続いていました。明応の政変以後、将軍の地位をめぐる争いも続き、畿内の政治状況はさらに複雑化していきます。
そのため研究では、応仁・文明の乱だけでなく、明応の政変までの一連の政治過程を戦国時代への重要な転換として捉える議論があります。大薮海『応仁・文明の乱と明応の政変』も、この二つを連続する政治過程のなかで扱っています。
初心者は、「1467年説だけが唯一の正解ではない」と知っておけば十分です。
戦国時代の終わりはいつ?
あけぼの戦国時代の終わりにも一つだけの答えはありません。全国統一や新たな武家政権の成立など、何を基準にするかによって区切りが変わります。
有力な節目の一つが、天正18年(1590年)の豊臣秀吉による全国統一です。小田原攻めで後北条氏を降伏させ、続く奥羽仕置によって東北地方の大名たちも豊臣政権の秩序に組み込まれました。
一方、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いを大きな転換点とする見方や、慶長8年(1603年)に徳川家康が征夷大将軍となって江戸幕府を開いたことを区切りとする整理もできます。
さらに慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡し、徳川政権による大名統制が強化されていく段階まで視野に入れる場合もあります。
東京大学史料編纂所では『大日本史料』第11編を天正10年(1582年)から慶長8年(1603年)まで、第12編を1603年以降として区分しています。
したがって、戦国時代の終わりも「○年だけが正解」と暗記するのではなく、統一から幕府成立へ進む段階的な変化として理解することが大切です。
これだけは覚えよう
戦国時代の期間については、年号を一つに決めつけないことがポイントです。
| 区切り | 年 | 意味 |
|---|---|---|
| 応仁・文明の乱 | 応仁元年(1467年)~ | 戦国時代の始まりとして有名 |
| 明応の政変 | 明応2年(1493年) | 戦国期への重要な政治的転換点 |
| 秀吉の全国統一 | 天正18年(1590年) | 全国の主要大名を統一政権下へ |
| 関ヶ原の戦い | 慶長5年(1600年) | 徳川家康が政治的優位を確立 |
| 江戸幕府成立 | 慶長8年(1603年) | 徳川家康が征夷大将軍に就任 |
| 大坂夏の陣 | 慶長20年(1615年) | 豊臣氏が滅亡 |
「始まりも終わりも一つの年に断定できない」――これを覚えておけば、戦国時代の時代区分をかなり正確に理解できます。
戦国時代には何が起こった?
戦国時代の大きな流れをつかむには、「地域ごとの争い」から「全国規模の統一政権」へ変化していった過程を見ると理解しやすくなります。

各地では戦国大名が領国を形成し、それぞれ独自の支配を進めました。その状況から抜け出し、畿内を中心に大きく勢力を拡大したのが織田信長です。
信長の死後は豊臣秀吉が全国統一を実現し、さらに徳川家康による江戸幕府成立へとつながります。ただし、これは最初から決められていた一直線の歴史ではありません。それぞれの時点で多くの勢力が競い合っていました。
各地の戦国大名が領国を支配する
あけぼの16世紀になると各地に有力な戦国大名が成長し、家臣団をまとめながら、それぞれの地域に独自の支配体制を築いていきました。
戦国大名というと、合戦で領土を奪い合う武将をイメージしがちです。しかし、実際の大名にとって重要だったのは、獲得した地域を安定して支配することでした。
家臣に土地や役割を与え、争いを裁き、税や軍役を確保し、必要に応じて法令を定めます。また城や館を政治・軍事の拠点とし、その周辺に商人や職人を集めることもありました。
戦国大名の支配地域を「領国」と呼びますが、現在の都道府県のように明確な行政区域として全国一律に整理されていたわけではありません。一つの旧国のなかに複数勢力が存在する場合もあれば、一人の大名が複数国にまたがって勢力を持つ場合もありました。
また、大名と朝廷や幕府との関係が完全に消えたわけでもありません。戦国期にも地域権力と朝廷との交渉は行われていました。
つまり戦国日本は、各地域が完全に孤立した社会ではなく、さまざまな権威や地域権力が重なり合う世界だったのです。
織田信長が天下統一へ大きく前進する
あけぼの戦国時代後半、尾張から勢力を拡大して畿内へ進出し、全国規模の政治秩序を大きく変えていった人物が織田信長です。
織田信長は永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで今川義元を破り、その後、美濃へ勢力を拡大しました。
大きな転換となったのが永禄11年(1568年)です。信長は足利義昭を奉じて京都へ入り、義昭は第15代将軍となりました。しかし両者は次第に対立し、元亀4年・天正元年(1573年)に信長は義昭を京都から追放します。一般にはこれを室町幕府の終焉を示す重要な出来事と捉えます。
その後も信長は畿内を中心に勢力を広げ、各地の大名や寺社勢力などと戦いながら支配地域を拡大しました。
ただし、「信長は最初から現在の日本全土を統一する完成された計画を持っていた」と断定するのは慎重であるべきです。「天下」という言葉の意味や信長の政治構想については研究上の議論があります。
確実にいえるのは、信長の勢力拡大によって、各地の大名が並び立つ状況から、より広域的な政権形成へ向かう流れが大きく進んだということです。
豊臣秀吉が全国統一を成し遂げる
あけぼの本能寺の変で信長が倒れたあと、その統一事業を受け継ぎ、全国の主要な大名を自らの政治秩序へ組み込んだのが豊臣秀吉でした。
天正10年(1582年)、本能寺の変で織田信長が明智光秀に討たれると、豊臣秀吉は山崎の戦いで光秀を破り、信長の後継争いのなかで急速に勢力を伸ばします。
秀吉は天正13年(1585年)の四国攻め、天正15年(1587年)の九州平定などを進め、天正18年(1590年)には小田原の後北条氏を降伏させました。さらに奥羽仕置を通じて東北地方の大名たちを豊臣政権の秩序に組み込みます。
ここで注意したいのは、「全国統一=秀吉が日本中の土地を直接所有した」という意味ではないことです。徳川氏や毛利氏、島津氏などの大名は、それぞれ領国を保持していました。
現代風にいえば、秀吉が全国を一つの巨大な直轄領にしたのではなく、各地の有力大名を自らを頂点とする全国的な政治秩序のなかへ組み込んだと考える方が実態に近いでしょう。
これによって、戦国期の地域間抗争を全国政権が統制する新たな段階へ入っていきました。
徳川家康が江戸幕府を開く
あけぼの秀吉の死後、関ヶ原の戦いを経て政治的な主導権を握り、江戸を中心とする新しい武家政権を築いたのが徳川家康です。
慶長3年(1598年)に豊臣秀吉が死去すると、豊臣政権内部の政治的対立が表面化します。そして慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが起こりました。
戦いに勝利した徳川家康は、戦後に大名の領地を大規模に再編し、全国政治における影響力をさらに強めます。
慶長8年(1603年)、家康は征夷大将軍(武家政権の長となる役職)に任じられ、江戸に幕府を開きました。これが江戸幕府です。
ただし、1603年に全国の争いがすべて終わったわけではありません。大坂には秀吉の子・豊臣秀頼が存在し、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣、翌慶長20年(1615年)の大坂夏の陣を経て豊臣氏が滅亡します。
その後、幕府は大名統制の制度を整えていきました。
したがって、戦国時代から江戸時代への移行も、関ヶ原→幕府成立→大坂の陣という複数の段階を経た政治的変化として見ると理解しやすいでしょう。
これだけは覚えよう
戦国時代後半の大きな流れは、次のように整理できます。
各地の戦国大名が領国を形成
↓
織田信長が畿内を中心に勢力を拡大
↓
豊臣秀吉が天正18年(1590年)までに全国統一
↓
関ヶ原の戦いを経て徳川家康が台頭
↓
慶長8年(1603年)に江戸幕府成立
ただし、「信長→秀吉→家康」という三人だけで戦国史が動いたわけではありません。全国各地の大名や地域社会の動きが積み重なった結果として理解することが大切です。
戦国時代を知ると歴史がもっと面白くなる
戦国時代の魅力は、有名武将の活躍だけではありません。合戦、城、人々の暮らし、古文書や発掘成果など、さまざまな入口から楽しめます。

「武将の名前を覚えるのが苦手だから戦国史は難しい」と感じる必要はありません。城が好きなら城から、旅行が好きなら史跡から、食文化に興味があれば当時の暮らしから入ってもよいのです。
さらに古文書や考古資料に触れると、「私たちはなぜ500年前の出来事を知ることができるのか」という歴史学そのものの面白さも見えてきます。
武将だけでなく合戦や城にも注目してみよう
あけぼの戦国史を楽しむ入口として分かりやすいのが合戦と城です。「なぜそこで戦ったのか」を考えるだけでも、武将たちの行動が見えやすくなります。
たとえば桶狭間の戦いや長篠の戦い、関ヶ原の戦いには、それぞれ戦いに至る政治的な背景があります。兵力の多い方が必ず勝つわけではなく、地形、情報、兵站、同盟関係なども結果を左右しました。
城も「天守を見るもの」と考えると、その魅力の一部しか見えてきません。山や川などの地形を利用し、堀・土塁・石垣・曲輪・虎口などを組み合わせることで、敵の侵入を防ぐ工夫が施されていました。
さらに城は軍事施設だけでなく、大名や家臣が政治を行う拠点でもあります。城下には商人や職人が集まり、地域経済の中心となる場合もありました。
国立歴史民俗博物館では、発掘成果に基づく一乗谷朝倉氏館の復元模型などから、戦国大名の拠点や都市の姿を見ることができます。
武将の名前だけを覚えるのではなく、「どこで・なぜ戦い、どのような拠点を築いたのか」を見ると、戦国史が地図の上で動き始めます。
城下町や庶民の暮らしから戦国時代を見る
あけぼの戦国時代を生きた人の大多数は、有名な戦国武将ではありません。農民・商人・職人などの暮らしに目を向けることも大切です。
戦乱が続く地域がある一方で、人々は農作業を行い、物を売買し、家族と生活していました。城下町や港町、門前町などには人や物が集まり、地域によってさまざまな都市が発展していきます。
戦国大名にとっても領国内の経済は重要でした。農業生産が安定しなければ年貢を確保できず、商業が衰えれば武器や生活物資を調達することも難しくなります。
また中世後期には、農業・手工業技術が発展し、さまざまな文化や芸能も育ちました。国立歴史民俗博物館の中世展示でも、大名の館や都市だけでなく、民衆の生活と文化が重要なテーマとして扱われています。
つまり戦国時代は、戦争によって日常生活が完全に消えてしまった時代ではありません。
戦乱と日常生活が同じ社会のなかで併存していたという視点を持つことで、「戦国時代=毎日どこかで武将が戦っていた」というイメージから一歩進んだ理解ができます。
古文書や発掘調査から分かる戦国時代
あけぼの私たちが戦国武将の行動や当時の暮らしを知ることができるのは、古文書や日記、遺跡など数多くの「歴史の証拠」が残されているからです。
歴史研究で重要なのが一次史料です。これは、研究対象となる時代に作成された文書・記録・日記など、その時代を直接知る手掛かりとなる史料を指します。
武将が発給した書状からは命令や交渉の内容、公家の日記からは京都の政治や社会状況などを読み取ることができます。ただし、史料に書かれた内容がすべて客観的事実とは限りません。誰が、いつ、何の目的で記したのかを検討する「史料批判」が必要です。
さらに城跡や城下町の発掘調査も重要です。建物跡、堀、石垣、陶磁器などを調べることで、文字史料だけでは分からない生活や都市の姿が見えてきます。一乗谷の復元も、こうした発掘成果を基礎としています。
東京大学史料編纂所では、文書・日記・系図・文学作品などを収集・検討し、人名や地名を考証しながら『大日本史料』などを編纂しています。
歴史は昔話を覚える学問ではなく、残された証拠から過去を読み解いていく作業でもあるのです。
これだけは覚えよう
戦国時代を楽しむ入口は一つではありません。
- 武将――人物の生涯や人間関係を見る
- 合戦――なぜ戦い、どう決着したのかを見る
- 城――地形や防御、政治拠点として見る
- 暮らし――農民・商人・職人などから社会を見る
- 史料・発掘――「なぜそれが分かるのか」を考える
歴史初心者ほど、最初から武将名や年号を大量に暗記する必要はありません。
自分が「面白そう」と感じる入口から始めることが、戦国時代を長く楽しむ一番の方法です。
戦国時代とは?まとめ
① そもそも戦国時代とはどんな時代?
戦国時代は、単に有名武将が領土を奪い合った時代ではありません。室町幕府を中心とする政治秩序が変化するなか、各地に戦国大名が成長し、地域支配のあり方も変わっていきました。
同時に農業や商業、都市も発達しています。合戦・政治・経済・社会が大きく動いた時代と理解すると、戦国時代の全体像が見えやすくなります。
② 戦国時代はいつからいつまで?
戦国時代には「この日からこの日まで」という唯一の時代区分があるわけではありません。始まりでは応仁元年(1467年)の応仁・文明の乱や明応2年(1493年)の明応の政変などが重要な節目となります。
終わりにも秀吉の全国統一、関ヶ原の戦い、江戸幕府成立など複数の区切り方があります。年号そのものより、なぜその出来事が転換点なのかを理解することが大切です。
③ 戦国時代には何が起こった?
各地に戦国大名が成長した状況から、織田信長が畿内を中心に勢力を拡大し、その死後には豊臣秀吉が全国の主要大名を自らの政治秩序に組み込みました。
さらに秀吉の死後、関ヶ原の戦いを経て徳川家康が慶長8年(1603年)に江戸幕府を開きます。地域ごとの権力から全国規模の政権へ移っていく流れを押さえると理解しやすいでしょう。
④ 戦国時代を知ると歴史がもっと面白くなる
戦国史には、武将以外にも多くの楽しみ方があります。合戦では地形や作戦、城では防御設備や城下町、暮らしでは農民・商人・職人などに注目できます。
さらに古文書や発掘成果を見ると、「なぜその出来事が史実だと分かるのか」という歴史研究の世界にも入れます。まず興味のある分野から入り、人物・場所・社会・史料を少しずつつなげていくのがおすすめです。
参考史料・参考文献
一次史料・近世史料
- 東京大学史料編纂所編 『大日本史料』
応仁・文明の乱から戦国期、織田・豊臣期に至る出来事を、各種史料に基づいて確認するための基礎資料として参照。 - 東京大学史料編纂所編 『大日本史料 第八編・応仁元年正月~』
応仁元年(1467年)から始まる応仁・文明の乱について、編年史料を確認するために参照。 - 太田牛一『信長公記』
織田信長の活動を知るための重要史料。ただし、今回確認した検索結果では利用者に案内する適切な公開本文ページを特定できなかったため、リンク先未確認。
研究書・参考文献
- 大薮海 『応仁・文明の乱と明応の政変』(吉川弘文館、2021年)
応仁・文明の乱から明応の政変へ至る政治過程と、戦国期への移行を確認するために参照。 - 呉座勇一 『応仁の乱―戦国時代を生んだ大乱』(中央公論新社、2016年)
応仁・文明の乱の背景、長期化した要因、戦国期との関係を確認するために参照。 - 『一冊でわかる戦国時代』(河出書房新社)
応仁の乱から江戸幕府成立までを通観し、初心者向けの説明レベルや時代の流れを確認するための参考資料。
Webサイト・公的機関の解説
- 東京大学史料編纂所「中世史料部門」
応仁の乱、戦国時代、織田信長・豊臣秀吉期について、史料編纂上の時代区分と使用史料を確認。 - 国立歴史民俗博物館「第2展示室 中世」
戦国大名の館、都市、民衆の生活と文化、一乗谷の発掘・復元などを確認。 - 国立歴史民俗博物館「戦国期朝廷と地域権力との関係」
戦国期にも朝廷と地域権力との政治的関係が継続していたことを確認する参考資料。

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