戦国時代の城とは?

戦国時代の城とは?役割やしくみを初心者向けにわかりやすく解説

「戦国時代の城」と聞くと、高い石垣の上に立派な天守がそびえる姿を思い浮かべるかもしれません。

しかし、戦国時代の城の多くは、山や丘などの地形を利用し、土を削ったり盛ったりして造られたものでした。城は敵から身を守るだけでなく、武将が地域を支配するための拠点でもあります。

この記事では、城の役割や防御のしくみ、山城・平山城・平城の違い、そして信長・秀吉の時代に城がどう変化したのかを、初心者向けに解説します。

対象読者:歴史初級者
読了時間:約23分


目次

そもそも戦国時代の城とはどんなもの?

戦国時代の城は、立派な天守を持つ建物だけを指すものではありません。山や丘、川なども利用しながら造られた、地域を守り治めるための広い空間でした。

城のしくみ

現代では「城」というと天守を思い浮かべがちですが、戦国時代の城を見るときは、建物ではなく「土地全体」に注目することが大切です。平らに造成した場所を組み合わせ、堀や土塁を設け、山の斜面まで防御に利用しました。

さらに城には、戦争への備えだけでなく、武将や家臣が地域を治めたり、街道や国境を押さえたりする役割もありました。

戦国の城を知る第一歩は、「城=天守」から「城=防御と支配のための空間」へイメージを広げることです。実際の山城では曲輪・堀切・竪堀・土塁・虎口など多様な施設が確認されています。

戦国時代の城は何のために造られた?

あけぼの

戦国時代の城には、敵の攻撃を防ぐだけでなく、街道や国境を押さえ、周辺地域を支配するという重要な役割がありました。立地にもそれぞれ理由があります。

戦国時代の城の大切な役割は、まず敵の攻撃から人や拠点を守ることでした。しかし、それだけではありません。

たとえば領国の境目や重要な街道の近くに城を置けば、敵の動きを監視したり、交通路を押さえたりできます。地域の中心となる城には領主や家臣の居館が設けられ、政治的な拠点として使われる場合もありました。

唐沢山城(からさわやまじょう)では、山頂部の曲輪だけでなく、山麓に大規模な堀や土塁を備えた屋敷跡群が残っています。

現代風にいえば、城は「要塞」だけではなく、軍事基地・役所・領主の拠点を組み合わせた施設と考えると分かりやすいでしょう。

もちろん、すべての城が同じ役割を持っていたわけではありません。本拠となる城、国境を守る城、街道を監視する城など、その役割に応じて規模や構造も異なっていました。

「城=天守」ではなかった

あけぼの

現在の城観光では天守が主役になりがちですが、戦国時代の城の多くに巨大な天守があったわけではありません。むしろ土で造られた防御施設が重要でした。

天守(てんしゅ)は城の象徴として非常に目立つため、「天守がなければ城ではない」と感じるかもしれません。しかし、戦国時代の城を理解する場合、このイメージはいったん横に置いた方がよいでしょう。

中世の山城では、山頂や尾根を削って平らな曲輪(くるわ)を造り、その周囲に土塁を盛り、堀切を掘るといった土木工事が防御の中心でした。現在、建物が残っていない山城でも、こうした地形の加工を読み取れば城の構造が見えてきます。

もちろん城内には門・塀・櫓・居館などの建物が設けられることもありました。しかし、城全体の防御は建物だけで成立していたわけではありません。

つまり、山を歩いていて「何も建っていない」と感じる城跡でも、曲輪・堀・土塁が残っていれば、そこには戦国武将たちが考えた防御の仕組みが今も残っていると考えることができるのです。

戦うためだけでなく地域を支配する拠点でもあった

あけぼの

城には軍事施設という顔と、領主が地域を治める政治拠点という顔がありました。戦国時代後半になるほど、城と地域支配との結びつきも重要になっていきます。

戦国大名が領国を支配するためには、合戦で敵に勝つだけでは十分ではありません。家臣を配置し、周辺の武士や村々を掌握し、街道や物資の流れを押さえる必要がありました。

そこで重要になったのが城です。

城主の居館や家臣の屋敷を伴う城もあり、城を中心として地域を管理する仕組みが形成されました。文化庁も佐土原城について、中世から近世まで地域支配の拠点として使われた重要な城跡と評価しています。

ただし、「戦国時代のすべての城が最初から政治都市だった」と考えるのは適切ではありません。小規模な砦や戦時に利用する城などもあり、役割には大きな違いがありました。

城を見るときは、「誰が、何を守り、どの地域を押さえるために、この場所を選んだのか」と考えると、その城の性格が見えてきます。

全国には数多くの城や砦が築かれた

あけぼの

戦国時代の日本には、有名な大名の本拠だけでなく、地域の武士が築いた小規模な城や砦も数多く存在しました。城は全国各地に広がっていたのです。

城郭というと安土城や大坂城のような巨大城郭を想像しますが、戦国時代には山の尾根や丘陵、街道沿いなどにも大小さまざまな城館が築かれました。

特に山城では、自然の尾根を断ち切る「堀切(ほりきり)」、斜面方向へ掘る「竪堀(たてぼり)」、人工的な急斜面である「切岸(きりぎし)」など、地形を利用した防御施設が見られます。

城のしくみ

注意したいのは、「全国に○万城あった」という数字です。城跡の数は、何を「城」と数えるか、伝承地を含めるかなどによって変わるため、本記事では特定の数字に固定しません。

重要なのは、有力大名の巨大な本城だけで戦国時代の支配が成り立っていたわけではないという点です。

地域に点在する城や砦も含めて見ることで、戦国時代の城が地域を結ぶ軍事・支配ネットワークとして機能していたことが分かってきます。

これだけは覚えよう

戦国時代の城を理解するときは、「天守のある建物」という現代的なイメージから離れることが第一歩です。

覚えておきたいのは次の4点です。

  • 城は敵を防ぐだけでなく、地域支配の拠点にもなった
  • 戦国時代の城の多くでは、土や自然地形が重要だった
  • 天守がなくても立派な城である
  • 本拠となる城から小規模な砦まで、役割や規模はさまざまだった

戦国時代の城はどんなしくみで守られていた?

高い天守だけで城を守っていたわけではありません。曲輪・堀・土塁・虎口を組み合わせ、さらに山や川などの自然地形まで利用して敵の進撃を妨げました。

城のしくみ

戦国時代の城の面白さは、「敵を簡単に中心部へ到達させない」ための工夫にあります。

平らな曲輪を何段にも配置し、その間に堀や急斜面を設け、入口となる虎口では敵の動きを制限しました。山城なら急斜面や尾根そのものも防御施設になります。

一つの巨大な壁で守るというより、複数の障害を連続して突破させる構造と考えると分かりやすいでしょう。実際の城跡でも、曲輪・土塁・堀切・虎口などが組み合わされていることが確認できます。

曲輪をいくつも配置して敵の侵入を防いだ

あけぼの

城の内部には「曲輪」と呼ばれる平らな区画が造られました。曲輪を複数配置することで、敵が一気に城の中心へ進みにくい構造を作っていたのです。

曲輪(くるわ)とは、山や丘などを削ったり盛ったりして造った平坦な区画です。城の中心となる曲輪は「主郭(しゅかく)」と呼ばれ、その周囲や下段にも複数の曲輪が設けられました。広島市の博物館解説でも、曲輪は山城を構成する基本的な単位とされています。

曲輪には、兵が待機したり、建物を置いたり、城内の重要施設を守ったりする役割がありました。

複数の曲輪が段階的に配置されていれば、敵が一つの曲輪へ侵入しても、そこからさらに次の防御線を突破しなければなりません。

たとえば唐沢山城では、主郭を中心に複数の曲輪が配置され、山腹・山麓にも城郭施設が広がっています。

城跡を歩いたとき、不自然に平らになっている場所が何段も続いていたら、「ここも曲輪だったのでは?」と考えてみてください。何も建っていなくても、城の設計思想を読み取れるようになります。

堀や土塁で敵を近づきにくくした

あけぼの

戦国の城を守った代表的な施設が堀と土塁です。水のない「空堀」も重要で、掘った土を利用して土塁を築けば、守りをさらに強化できました。

堀は敵の移動を妨げるために掘られた溝で、水を満たした水堀だけでなく、水のない空堀も広く利用されました。

山城では、尾根を横方向に断ち切る「堀切」や、斜面を縦方向に掘る「竪堀」なども使われます。竪堀には、斜面を登ってきた敵が横方向へ自由に移動することを妨げる働きがあります。

一方、土塁は土を盛って造った防御施設です。曲輪の周囲や虎口付近などに設けることで、敵から内部を守りました。

城のしくみ

「城=石垣」という印象が強いかもしれませんが、戦国期の城を理解するうえでは、まず土の城に注目することが重要です。

現在でも山城を歩くと、堀切や土塁が地形として残っている場合があります。建物が失われても土木構造が残るため、城跡そのものが歴史資料になっているのです。

虎口を工夫して城の入口を守った

あけぼの

城の入口は、味方が出入りするために開けておかなければならない一方、敵にも狙われやすい場所でした。そこで武将たちは虎口の形にさまざまな工夫を加えました。

虎口(こぐち)とは、城や曲輪の出入口のことです。城を完全な壁で閉ざせば人の出入りができないため、必ず入口が必要になります。つまり虎口は、城の防御上の弱点になりやすい場所でもありました。

そこで、入口までの道を曲げたり、土塁や堀と組み合わせたりして、敵が真っすぐ進めないようにする工夫が施されました。

城のしくみ

戦国時代後半には、入口の内外に空間を設け、敵の動きを制限する枡形など、より複雑な虎口も発達していきます。実際に松倉城では出枡形虎口、唐沢山城では虎口に石垣を用いた遺構が確認されています。

現代風にいえば、城門は単なる「玄関」ではなく、敵の進む方向や速度をコントロールする防御装置でした。

城跡を訪れたときは、門跡だけでなく「そこへ至る道がどう曲がっているか」にも注目すると面白くなります。

地形そのものも重要な防御設備だった

あけぼの

戦国武将たちは山・谷・崖・川などを単なる背景として見ていませんでした。自然地形そのものを城の防御施設として取り込み、攻めにくい場所を造りました。

山城では、山の急斜面そのものが大きな防御力になります。敵は武器や装備を持ちながら斜面を登らなければならず、守る側は高い位置からその動きを監視できます。

さらに自然の地形へ人工的な加工を加えました。

斜面を削って急にした「切岸」、尾根を分断する「堀切」、斜面を縦に走る「竪堀」などです。広島市の解説でも、山城は戦時の防御を意識しながら地形を巧みに利用して造られたと説明されています。

ここで重要なのは、自然の山に城を「置いた」のではなく、山そのものを巨大な防御装置へ作り変えたという視点です。

山城跡で急な坂道を登って「なぜこんな場所に城を?」と思ったら、その歩きにくさこそ答えの一部です。攻める側にとっても、その坂を突破することが大きな負担だったのです。

これだけは覚えよう

戦国時代の城は、一つの強力な施設ではなく、複数の防御施設を組み合わせて守られていました。

基本となるのは、

曲輪 → 城内の平らな区画
堀 → 敵の移動を妨げる
土塁 → 土の壁で守る
虎口 → 出入口を防御する
地形 → 山・崖・谷などを防御に利用する

という5つです。

この基本を覚えるだけでも、山城跡の見え方が大きく変わります。


山城・平山城・平城は何が違う?

城は立地によって、山城・平山城・平城などに分けて説明されます。違いは単なる高さではなく、防御・交通・政治など、城に求められた役割とも関係しています。

城のしくみ

山城・平山城・平城という分類は、城を理解するために現在よく使われる分類です。

山の地形を最大限利用する山城、平地に接した丘陵などを利用する平山城、平地に築かれる平城には、それぞれ異なる特徴があります。

ただし、戦国時代の城が全国一斉に「山城→平山城→平城」と変化したわけではありません。地域・時期・城主の目的によって選択は異なります。羽曳野市も、中世の山城から近世には政治や交通を重視した平山城・平城へと立地が変化する大きな傾向を説明しています。

山の地形を利用して守る「山城」

あけぼの

山城は、山頂や尾根などの自然地形を利用して築かれた城です。急斜面や高低差を防御に取り込み、戦国時代を代表する城の形の一つとなりました。

山城では、山頂や尾根に曲輪を設け、尾根筋には堀切、斜面には竪堀や切岸などを配置して防御力を高めました。

代表的な特徴は「高い場所にあること」だけではありません。

重要なのは、山の地形を読み、その弱点を人工的な土木工事で補っていることです。文化庁が紹介する唐沢山城でも、山頂の主郭から山腹・山麓にかけて曲輪・堀・土塁などが広範囲に残されています。

城のしくみ

山城は守りに適する一方、毎日の政治や物資輸送では不便な場合があります。そのため山麓に居館を設け、山上の城と使い分ける例もありました。

つまり「山城=山頂に小さな砦が一つ」という理解では不十分です。

山上の防御施設、山腹の曲輪、山麓の居館などを含めた広い城郭空間として捉えると、中世・戦国期の山城の姿が見えやすくなります。

丘陵と平地を利用する「平山城」

あけぼの

平山城は、平地の中にある丘や比較的低い山などを利用した城です。地形による守りと、交通や城下町とのつながりを両立しやすい特徴があります。

平山城は、平地に接する丘陵や小高い場所を利用して築かれた城を説明するときに使われる分類です。羽曳野市は、姫路城のように平地部の小高い丘の上に造られたものを平山城と説明しています。

山城ほど険しい山へ登らなくてもよいため、周囲の平地や街道、城下町と結びつけやすい点が特徴です。

一方で丘や台地の高低差を利用できるため、平地だけに造る城より地形上の防御力を得やすい場合もあります。

城のしくみ

ただし、「山城より新しいから平山城になった」と単純に考えるのは避けたいところです。山城も戦国時代後半まで使われ続けていますし、どの立地を選ぶかは地域や目的によって異なりました。

城主が軍事だけでなく政治・経済・交通まで重視するようになると、守りと利便性を両立できる立地がより重要になっていった、と考えると分かりやすいでしょう。

平地に築かれた「平城」

平城は、山の上ではなく平地を中心として築かれた城です。防御では堀や土塁、石垣などを工夫しながら、交通や政治との結びつきを強めました。

平城は、文字どおり平坦な土地に築かれた城を説明するときに使われます。羽曳野市では二条城を平城の例として挙げています。

山の急斜面をそのまま防御に利用できないため、堀・土塁・石垣・門などを組み合わせて防御力を確保する必要があります。

一方で平地には大きな利点があります。

街道や河川交通と結びつきやすく、人や物資を集めやすいため、政治や経済の拠点となる城を整備しやすいのです。城の周囲に家臣団の屋敷や商人・職人の町を配置すれば、城下町を含めた大規模な都市へ発展させることもできます。

城のしくみ

ただし、「平城=戦国時代末期」「山城=戦国時代前期」と完全に分けられるわけではありません。

城の立地を見るときは、年代だけでなく、城主がその場所で何をしようとしたのかまで考えることが重要です。

城の立地は役割に応じて選ばれた

あけぼの

山城・平山城・平城のどれを選ぶかは、単に時代の新旧だけで決まったわけではありません。敵への備えを重視するのか、街道や港を押さえるのか、政治や商業の中心をつくるのか――城に求められる役割によって、適した立地も変わりました。

戦国時代の城郭の変化を、「山城から平山城、そして平城へ」という一直線の進化として説明することがあります。

初心者には分かりやすいのですが、実際にはもう少し複雑です。

山城は戦国時代後半にも重要な軍事拠点として使われました。一方、領国支配が進むなかで、政治や経済、交通に便利な場所に本拠を置く例も目立つようになります。

つまり変化したのは、単に「城が山から下りてきた」ことだけではありません。

城に求められる役割そのものが増えていったのです。

軍事、防御、家臣統制、政治、経済、交通、城下町――。これらをどのように組み合わせるかによって、城の立地や構造も変わりました。

この視点を持っておくと、次に見る織田信長・豊臣秀吉の巨大城郭が、なぜそれまでの城と異なる姿になったのか理解しやすくなります。

これだけは覚えよう

山城・平山城・平城の違いは、単に「高い・低い」だけではありません。立地と役割を一緒に見ることが大切です。

山城=山の地形を防御に生かす
平山城=丘陵と平地の利点を組み合わせる
平城=平地で交通・政治・経済との結びつきを強めやすい

ただし、全国の城が同じ順序で変化したわけではありません。


戦国時代の城はどのように変わっていった?

戦国時代後半になると、城は地域の防御拠点という役割を超え、大名の権力や領国支配を示す巨大な政治拠点へ発展する例が現れます。その象徴が安土城や大坂城です。

豊臣兄弟の画像

16世紀後半になると、織田信長や豊臣秀吉のもとで、石垣や瓦、高層建築などを取り入れた大規模な城郭が発達します。

ただし、これは全国の城が一斉に「土の城」から「石の城」へ変わったという意味ではありません。

同じ時代にも従来型の山城は使われ続け、地域ごとに異なる城郭が存在しました。文化庁の城跡調査でも、土造りの城から石垣を備えた城へ改修されていく過程が確認されています。

地域を守る城から領国を支える城へ

あけぼの

戦国大名が広い領国を支配するようになると、本拠の城には防御だけでなく、家臣を集め、政治を行い、町や交通をまとめる役割も求められました。

戦国大名の勢力が拡大すると、一つの城だけを守ればよいわけではなくなります。複数の地域や家臣を統制し、物資や情報を集める仕組みが必要になります。

そこで本拠となる城の役割も大きくなりました。

城の周囲へ家臣を集め、街道や町と結びつけることで、軍事と政治を一体化した拠点が形成されていきます。

ただし、この変化も全国一律ではありません。山城と山麓居館を組み合わせる地域もあれば、大規模な平山城・平城へ本拠を移す大名もいました。

そのため「昔の城は戦争用、新しい城は政治用」と完全に分けるより、もともと複数の役割を持っていた城のうち、領国支配や都市形成の機能がより大きくなっていったと考える方が適切です。

戦国後期の巨大城郭は、戦争の道具であると同時に、大名が「ここが支配の中心だ」と示す政治的な舞台にもなっていきました。

石垣や瓦を用いた城が発達していった

あけぼの

戦国時代後半には、大規模な石垣や瓦葺きの建物を備える城が目立つようになります。しかし、それ以前の城がすべて土だけだったわけではなく、変化には地域差がありました。

石垣は城の斜面や曲輪を支えるとともに、急な壁を造って防御力を高めることができます。また、石垣を大規模に築くことで、城主の力を視覚的に示す効果もあったと考えられます。

さらに戦国時代後半には、瓦を用いた城郭建築も各地で確認されるようになります。文化庁が紹介する城跡でも、16世紀後半の礎石建物や瓦葺き建物の存在が発掘調査から推定されています。

城のしくみ

ただし注意したいのは、「土の城→石垣の城」という単純な交代ではないことです。

石垣を持つ城でも土塁や堀は重要でしたし、石垣を使わない城も数多く存在しました。

つまり戦国後期の城郭変化は、古い技術を捨てて新しい技術だけに置き換えたのではなく、土・石・木造建築・瓦など、さまざまな技術を組み合わせながら発展したものなのです。

織田信長の安土城が示した新しい城の姿

あけぼの

天正4年(1576年)に築城が始まった安土城は、高石垣と高層の天主を備えた巨大城郭でした。軍事だけではない、新しい城の姿を象徴しています。

織田信長が天正4年(1576年)から築いた安土城は、戦国時代の城の変化を知るうえで欠かせません。

滋賀県によれば、築城には畿内・東海・北陸から人夫が動員され、天正7年(1579年)には天主が完成しました。文化遺産オンラインも、全山を高石垣で覆い、高層の天主がそびえる安土城を、後の近世城郭の原形を見ることのできる城と説明しています。

ここで注目したいのは、「天守ができた」という一点だけではありません。

巨大な石垣、壮麗な建築、大規模な城郭空間を組み合わせることで、信長の政治的な力を目に見える形で示す城となったことです。

つまり安土城は、敵を防ぐ要塞であると同時に、城主の権力を人々へ見せる政治的な舞台でもありました。

なお、安土城の具体的な建物外観には不明点も残っているため、復元図をそのまま史実と考えない注意も必要です。現在も滋賀県による発掘調査が続いています。

豊臣秀吉の時代に巨大な城と城下町が発展した

あけぼの

信長の後を継いだ秀吉は、大坂城など巨大な城郭を築きました。城の周囲には多くの人や物が集まり、城と城下町を一体化した政治・経済の中心が形成されます。

天正11年(1583年)、豊臣秀吉は石山本願寺跡で大坂城の築城を始めました。大阪府・大阪市の解説でも、大坂城は秀吉が全国統一を進める重要な拠点だったことが確認できます。

大坂城で重要なのは、巨大な城そのものだけではありません。

周囲には城下町が整備され、道路や町割りなど都市の仕組みも造られていきました。大阪市によれば、大坂の町づくりでは道路整備とともに排水のための下水溝も整備され、城下町の都市基盤が形成されていきました。

現代風にいえば、巨大な城だけを建設したのではなく、政治・軍事・経済・交通を集めた都市そのものを整備していったと考えると分かりやすいでしょう。

こうして戦国時代末期の城は、防御施設という枠を超え、大名の権力と都市を結びつける巨大な政治拠点へ発展していったのです。

これだけは覚えよう

戦国時代の城は、全国一律に同じ形へ進化したわけではありません。地域差を残しながら、役割や技術が多様化していきました。

大まかな流れとしては、

土を中心とした城郭
↓
石垣・瓦などを取り入れる城も増える
↓
安土城など巨大な城郭が登場
↓
秀吉の時代には城と城下町が大規模な政治・経済拠点へ

と捉えると理解しやすいでしょう。


戦国時代の城の変化を年表で整理

ここまで登場した城の変化を時系列で並べると、「城=戦う場所」から、より大規模な領国支配・都市形成の拠点へ機能が広がっていく流れが見えてきます。

時期城の特徴注目ポイント
15世紀~16世紀前半山城・土の城が各地で利用される曲輪・堀・土塁・切岸などが重要
16世紀戦国大名の領国支配が進む本拠・支城など城の役割が多様化
16世紀後半石垣や瓦を使う城郭が発達土の城も引き続き使われる
天正4年(1576年)信長が安土城築城を開始高石垣・高層天主を持つ大城郭
天正11年(1583年)秀吉が大坂城築城を開始全国統一の政治的拠点へ
豊臣政権期巨大城郭と城下町が発展城と都市・政治・経済の結びつきが強まる

この年表は、全国すべての城が同じ順序で変化したことを意味するものではありません。城郭の発達には大きな地域差があり、従来型の山城と新しい城郭技術が同じ時代に併存していました。大まかな流れをつかむためにご利用ください。


戦国時代の城とは?まとめ

そもそも戦国時代の城とはどんなもの?

戦国時代の城は、天守を中心とした建物だけではありません。山や丘を削って曲輪を造り、堀や土塁を設け、自然の地形まで防御に利用した広い空間でした。城には敵を防ぐ軍事施設としての役割だけでなく、領主や家臣が地域を治め、街道や国境を押さえる役割もありました。

「城=天守」ではなく、土地全体が城だったと考えることが、戦国の城を理解する最初のポイントです。

戦国時代の城はどんなしくみで守られていた?

戦国時代の城では、曲輪・堀・土塁・虎口など複数の施設を組み合わせて敵の侵入を防ぎました。さらに山城では、急斜面や尾根、谷といった自然地形そのものも重要な防御設備になります。

城跡を訪れた際は、建物の有無だけを見るのではなく、平らな場所、深く掘られた溝、不自然な急斜面、曲がった入口などにも注目してみましょう。そこから戦国武将たちが考えた「守りの仕組み」が見えてきます。

山城・平山城・平城は何が違う?

山城・平山城・平城は、それぞれ城が築かれた立地の特徴を理解するための大まかな分類です。山城は山の地形を防御に利用し、平山城は丘陵と周囲の平地を組み合わせ、平城は平地で交通や政治との結びつきを強めやすい特徴があります。

ただし、「山城→平山城→平城」と全国一斉に交代したわけではありません。地域・時期・城主の目的によって異なる城が併存していたことを覚えておくと、城郭史をより正確に理解できます。

戦国時代の城はどのように変わっていった?

戦国時代後半になると、織田信長の安土城や豊臣秀吉の大坂城のように、大規模な石垣や高層建築を備え、城主の権力を視覚的に示す巨大城郭が登場します。同時に城下町も発達し、城は軍事だけでなく政治・経済・交通をまとめる中心地としての性格を強めました。

ただし、これは古い山城が一斉に消えたという意味ではありません。地域差と併存を意識して見ることが、戦国の城の変化を理解する重要なポイントです。


参考史料・参考文献

一次史料・近世史料

太田牛一『信長公記』
織田信長の活動や安土城築城を考えるための基本史料です。後世にまとめられた史料であることを踏まえつつ、信長期の出来事を検討する際に参照します。国立国会図書館で書誌情報を確認できます。

研究書・参考文献

千田嘉博『戦国の城を歩く』筑摩書房、2009年
戦国期の城を建築物だけでなく、縄張・地形・地域社会との関係から理解するための参考文献です。

千田嘉博・小島道裕・前川要『城館調査ハンドブック』新人物往来社、1993年
曲輪・堀・土塁など中世城館を現地で読み解く方法や、城館研究の基礎を確認するために参照できます。

小和田哲男監修『知れば知るほど面白い戦国の城 攻めと守り』実業之日本社、2014年
城郭の構造や攻城・守城の基本を、初心者にも分かりやすく確認するための参考文献です。

Webサイト・公的機関の解説

ひろしまWEB博物館「山城の機能と構造」
曲輪・主郭・切岸・土橋・堀切・竪堀・横堀・土塁・虎口など、山城の基本用語を確認するために参照しました。

文化庁 国指定文化財等データベース「唐沢山城跡」
山城における曲輪・堀・土塁・居館跡や、戦国期から織豊期への城郭変化を確認するために参照しました。

羽曳野市「平山城」
山城・平山城・平城の立地上の違いと、城が政治的役割を強めていく大きな流れを確認するために参照しました。

文化遺産オンライン「特別史跡安土城跡」
安土城の高石垣・高層天主と近世城郭へのつながりを確認するために参照しました。

滋賀県「特別史跡安土城跡の調査と整備」
天正4年(1576年)の築城開始、天正7年(1579年)の天主完成など、安土城の基本的な年代を確認しました。

大阪市「大阪城が『豊臣兄弟ゆかりの地』の装いになります」
天正11年(1583年)に始まった豊臣大坂城築城と、全国統一における城の政治的役割を確認するために参照しました。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

目次