戦国時代の合戦とは?

合戦のしくみ

戦国時代の合戦とは?出陣から勝敗が決まるまでの流れ

戦国時代の合戦と聞くと、甲冑姿の武将や足軽が野原で激しくぶつかる光景を思い浮かべるかもしれません。

しかし、実際の戦いは出陣した瞬間から始まるものではありませんでした。兵を集め、武器や兵糧を準備し、敵の情報を探り、地形を見て陣を構える。そして戦闘後には退却や和睦、恩賞の決定まで待っています。

この記事では、戦国時代の合戦がどのように始まり、どのように終わったのかを順番に見ていきます。

対象読者:歴史初級者
読了時間:約25分


目次

そもそも戦国時代の合戦とはどんなもの?

戦国時代の合戦は、広い野原で軍勢同士が正面から戦う「野戦」だけではありません。城攻めや包囲、交渉などを組み合わせながら目的の達成を目指しました。

合戦のしくみ

戦国時代の合戦には、領地をめぐる争い、城や交通路の確保、敵対勢力への対応など、さまざまな目的がありました。実際の戦争では城や砦も重要で、兵や物資の集積、情報伝達など多様な役割を担っています。名古屋市博物館も、桶狭間や小牧・長久手を城と合戦の関係から紹介しています。

そのため、合戦を理解するときは「どちらが強かったのか」だけでなく、「何を目的として、どのような方法で戦ったのか」を見ることが重要です。

戦国大名や武将はなぜ合戦をした?

あけぼの

戦国大名や武将が戦った理由は、単純な領土拡大だけではありません。城や交通路を守ることや、対立する勢力への対応など、置かれた状況によって目的は異なりました。

戦国大名にとって合戦は、自らの領国や家臣を守り、政治的な目的を実現するための手段の一つでした。

敵対する勢力が重要な城を押さえれば、その周辺の支配が不安定になる可能性があります。また、街道や川沿いなど交通の要所を押さえることは、人や物資の移動にも関わりました。

実際、戦国期の城や砦には、軍事拠点だけでなく情報の中継、兵や物資の集積といった役割も確認されています。

一方、すべての合戦が「天下統一」のために行われたわけではありません。地域ごとの利害や家同士の対立、主従関係、城や土地をめぐる問題など、戦う理由はさまざまでした。

したがって合戦を見るときには、

「誰と誰が戦った?」

だけでなく、

「なぜ戦う必要があった?」

と考えてみることが大切です。

同じ武将でも、攻める側になることもあれば、領地を守るために戦う側になることもあったのです。

合戦は野原での戦いだけではなかった

あけぼの

「合戦」というと両軍が広い野原で正面衝突する場面が有名ですが、それは戦争の一部分です。城や砦を利用した攻防など、多様な軍事行動がありました。

野戦(やせん)とは、城などの防御施設の外で軍勢同士が戦う形態です。関ヶ原の戦いのような大規模な野戦は後世にもよく描かれたため、「戦国時代の合戦=野戦」という印象を持ちやすいでしょう。

しかし、戦国時代の戦争を野戦だけで理解することはできません。

敵の城を攻撃する城攻め、城を包囲して外部との連絡を難しくする方法、敵の拠点周辺へ進出して城や砦を築く方法などもありました。

たとえば天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは、戦闘が尾張だけでなく美濃・伊勢にも及び、多数の城が築かれたり利用されたりしました。城は敵軍の進路を妨げたり、作戦上の役割を担ったりしています。

つまり戦国時代の合戦を見るときには、戦闘場面だけを切り取るのではなく、

城・街道・河川・山・補給路

などを含めた「戦場全体」を見る必要があります。

地図を見ながら合戦を調べると面白くなるのは、このためです。

城攻めや包囲も重要な戦いだった

あけぼの

敵の城を落とす方法は、力任せに門へ突撃するだけではありません。城を囲んで外部との連絡や補給を妨げるなど、時間をかけて圧力を加える方法もありました。

城攻めでは、攻める側も大きな危険を負いました。山城は急斜面などの地形に加え、堀や土塁などを利用して守られているため、正面から攻撃すれば多くの損害が出る可能性があります。そこで、城を取り囲んで援軍や物資の出入りを妨げ、城側へ圧力をかける方法も用いられました。

その具体例が、現在の福岡県北九州市小倉南区にある長野城です。

永禄8年(1565年)、大友氏の軍勢は約2か月にわたって長野城を攻めました。研究では、大友軍が城の周囲に堀や土塁を備えた大規模な包囲陣を築いたと考えられています。

発掘された横堀は上端幅約4メートルに達し、包囲陣には建物跡なども確認されています。最終的に長野氏は大友氏に従い、山城そのものはこの時点では落城を免れました。

つまり城攻めは、城へ突撃するだけではありません。

「どうやって城を孤立させるか」
「どうやって援軍や補給を断つか」
「どこまで持ちこたえられるか」

という、攻める側と守る側の駆け引きでもあったのです。

この長野城の事例は、「城攻め=城壁や門への一斉攻撃」ではないことを初心者に説明する材料として、とても使いやすいと思います。

なお、国立歴史民俗博物館の企画展示ページでは「1568年頃」と説明されていますが、同館の詳細な研究報告では、包囲陣について永禄8年(1565年)の大友氏による攻城時に構築されたと考えるのが妥当と論じています。本記事では、より詳しい研究報告に合わせて1565年としました。

戦わずに決着することもあった

あけぼの

軍勢が向かい合ったからといって、必ず最後まで戦ったわけではありません。降伏や和睦、交渉によって決着することも、戦国時代の戦争では重要な選択肢でした。

戦国時代には和睦によって戦闘を終わらせることもありました。

戦争を続ければ兵士だけでなく、兵糧や武器、馬など多くの資源を消費します。城を長期間包囲する側にも負担があります。そのため、軍事的な圧力を背景に交渉を行い、条件を決めて戦闘を終わらせることもありました。

戦国期には、誓約を文書化した「起請文(きしょうもん)」が、家臣への領地安堵だけでなく、大名間の軍事同盟や合戦の和睦にも利用されています。名古屋市博物館が所蔵する松平家康の起請文についても、こうした中世・戦国期の文書文化が解説されています。

したがって、

「敵を全滅させた側が勝者」

とは限りません。

城を明け渡させる、相手を服属させる、一定の条件で和睦するなど、当初の政治的・軍事的な目的を達成すれば、戦争を終えることができました。

「戦わずに目的を達成する」ことも、戦国武将に求められた能力だったのです。

これだけは覚えよう

戦国時代の合戦は、野原で軍勢同士が正面衝突するだけではありません。城攻め・包囲・交渉・和睦など、さまざまな方法が組み合わされていました。

覚えておきたいのは、

目的を決める → 軍事行動を行う → 相手に圧力を加える → 戦闘・降伏・和睦などで決着する

という考え方です。

「何人倒したか」だけではなく、何を目的として、どうやって達成しようとしたのかを見ると、合戦の見方が大きく変わります。


合戦が始まるまでに何をしていた?

戦国武将は、思い立ったその日に軍勢を率いて戦場へ向かったわけではありません。兵の動員、武器や兵糧の準備、敵情の把握など、多くの準備が必要でした。

合戦のしくみ

大規模な軍勢を動かすには、多くの人と物資が必要です。しかも戦場へ到着してからは、敵軍の位置や周囲の地形を把握し、自軍をどこへ置くのか判断しなければなりません。

合戦を「戦闘開始!」から見るのではなく、その前段階まで視野を広げると、戦国武将が戦場で考えなければならなかったことが見えてきます。

大名はどのように兵を集めた?

大名が合戦を始めるには、まず軍勢を組織しなければなりません。大名の命令を受けた家臣たちは、自らの配下などを伴って軍勢へ加わりました。

軍役とは、主君に対して家臣などが負担する軍事上の役務を指します。戦国大名は家臣や従属する地域勢力を動員し、軍勢を組織しました。

ここで注意したいのは、現代の常備軍のように、大名がすべての兵士を直接雇用して一元的に管理していたとは限らないことです。

有力家臣や国衆は、自分の所領や地域的な基盤を持ち、そこから兵を率いて大名の軍勢へ加わる場合がありました。戦国大名領国が直轄地域と国衆の支配領域から成るモザイク状の構造を持っていたことは、平山優氏も指摘しています。

したがって、戦国時代の「一万の軍勢」を現代の軍隊のような一枚岩の組織と考えると、実態を見誤る可能性があります。

複数の家臣や地域勢力が集まり、それぞれの部隊を形成する――。

大将には、こうした異なる集団をまとめて一つの軍勢として動かす能力も必要だったのです。

武器や兵糧を準備して戦場へ向かった

軍勢は人だけでは動きません。槍や弓などの武器に加え、食料や馬、さまざまな物資を用意し、それらを戦場まで運ぶ必要がありました。

戦国時代の軍勢に欠かせなかったのが兵糧です。

兵士が何日も行軍し、さらに戦闘を続けるには食料が必要です。武器や弾薬、その他の物資も運ばなければなりません。

つまり、軍勢が大きくなればなるほど「食べさせる」「運ぶ」という問題も大きくなります。

現代風にいえば、戦場で戦う部隊だけでなく、その活動を支える物流システムが必要だったということです。

また、武器も一種類ではありません。槍・弓などに加え、16世紀中頃以降には鉄砲が戦場で使用されるようになります。国立歴史民俗博物館によれば、鉄砲は天文12年(1543年)の伝来後、技術が広がり、戦国大名が鉄砲衆を組織する段階になると戦争の主要な武器の一つになっていきました。

「合戦の強さ」を兵士の人数だけで考えず、その軍勢を何日間活動させられるのかという視点を持つことも重要です。

物見や斥候を使って敵の情報を集めた

敵がどこにいるのか、どれほどの軍勢なのか、どの道を進んでいるのか。こうした情報が分からなければ、大将は軍勢を安全に動かすことができません。

戦場では物見や斥候などによる情報収集が重要でした。

現代のように航空写真や無線通信があるわけではありません。山や高所から周囲を確認したり、人を送り出して敵軍の動向を探ったり、地域から得られる情報を利用したりしながら状況を把握しました。

ただし、戦国期の情報収集をすべて「忍者が敵陣へ潜入して秘密を盗んだ」と考えるのは注意が必要です。実際には使者、地域住民、味方の武将からの報告など、さまざまな経路から情報が集まりました。

敵の位置を誤って判断すれば、予想外の場所から攻撃を受ける可能性があります。逆に敵の行動を早く把握できれば、有利な場所へ先回りすることもできます。

合戦の史料を読む際には、「誰が何を知っていたのか」「その情報はいつ届いたのか」という視点も重要です。

戦場は、情報をめぐる競争の場でもあったのです。

地形を見ながら陣を構えた

山・川・谷・街道などの地形は、軍勢の動きやすさや守りやすさを左右します。そのため、武将がどこに陣を置くのかは重要な判断でした。

軍勢が戦場へ到着すると、陣を構えます。

大将が位置する中心的な場所は本陣と呼ばれますが、ただ「見晴らしのよい高い場所」を選べばよいわけではありません。

敵の動きが把握しやすいか、味方の部隊と連絡できるか、退路を確保できるか、物資を運びやすいかなど、さまざまな条件を考える必要があります。

また、城や砦も戦場の地形と切り離せません。名古屋市博物館は、小牧・長久手の戦いにおいて、敵の動向に応じて城や砦が築かれ、行軍を妨げたり作戦上の役割を果たしたりしたことを紹介しています。

したがって、合戦跡を訪れるときには石碑だけを見るのではなく、

「山はどこにある?」
「川はどちらへ流れる?」
「城から街道はどう見える?」

と周囲を観察してみてください。

当時の武将が見ていた「戦場」が少しずつ見えてきます。

これだけは覚えよう

合戦の勝負は、戦闘が始まる前から動いていました。

基本的な流れを簡略化すると、

兵を集める
↓
武器・兵糧を準備する
↓
行軍する
↓
敵の情報を集める
↓
地形を確認する
↓
陣を構える

となります。

もちろん、実際の順番や方法は戦いによって異なります。

重要なのは、**「軍勢を戦場へ連れていくだけでも大仕事だった」**という点です。


戦場ではどのように戦った?

戦場に到着すると、大将や武将は敵の動きを見ながら軍勢を動かしました。武器の使い分けだけでなく、命令の伝達や地形の利用も重要になります。

合戦のしくみ

戦国時代の合戦は、一人ひとりの武将が自由に敵へ突撃する戦いではありません。特に戦国時代後期には大規模な集団戦が展開され、旗指物なども集団のなかで自らを識別する重要な道具となりました。国立歴史民俗博物館と東京大学史料編纂所の展示でも、戦国末期の合戦が集団戦となっていったことが紹介されています。

では、大勢の兵をどうやって動かしたのでしょうか。

大将や武将はどのように軍勢を動かした?

あけぼの

数百人、数千人の兵が参加する戦場では、大将が一人ひとりへ直接命令することはできません。軍勢はいくつもの集団に分かれ、武将たちがそれぞれを率いました。

戦場の中心となる大将は、戦況を見ながら各部隊へ命令を出しました。

その命令を受けた武将が、自分の配下を動かします。つまり、

大将
↓
各部隊を率いる武将
↓
その配下の兵

という形で命令が伝えられることになります。

ただし、これは仕組みを理解するための簡略図です。実際の軍勢の編成や指揮系統は大名家や時期によって異なり、国衆など独自性の強い部隊も存在しました。戦国大名の軍事編成には、従属した国衆が自らの領域と軍事力を保持しながら参加する構造も見られます。

戦場では予定どおりに物事が進むとは限りません。

敵が予想外の方向へ動く、味方の到着が遅れる、地形のため部隊が動けない――。

そのため大将だけでなく、各部隊を率いる武将にも現場での判断力が求められました。

「名将」と呼ばれる人物を見る際には、本人の武勇だけでなく、大勢の人間をどう組織し動かしたのかにも注目してみましょう。

槍・弓・鉄砲などを使い分けて戦った

あけぼの

戦国時代の戦場では、槍・弓・鉄砲など複数の武器が使われました。それぞれに特徴があり、時代や地域、戦況に応じて組み合わせながら戦っていました。

戦国時代の代表的な武器には槍があります。ほかにも弓や刀などが使われ、16世紀中頃からは鉄砲も戦場で重要性を増していきます。

鉄砲については「伝来した瞬間に戦争の主役になった」と考えない方がよいでしょう。

国立歴史民俗博物館の研究展示では、天文12年(1543年)の伝来後、炮術師らによって技術が広がり、戦国大名が鉄砲衆を編成するようになってから主要な武器として定着していった過程が示されています。

つまり、新兵器が登場したから古い武器が突然使われなくなったわけではありません。

弓には弓の、槍には槍の役割があり、鉄砲も火薬や弾丸、射手、整備などを必要とします。

また、城攻めと野戦でも必要とされる武器や使い方は変わります。

戦国合戦を見る際には、

「最強の武器は何だった?」

という単純な比較ではなく、

「どの場面で、どの武器が役立った?」

と考える方が実態に近づけます。

旗や太鼓などの合図で命令を伝えた

あけぼの

大勢の兵が動き、声も届きにくい戦場では、味方を見分けたり命令を伝えたりする工夫が必要でした。そのため旗など視覚的な目印も重要になります。

戦場では旗指物などが利用されました。

旗は単なる飾りではありません。大勢の兵が入り乱れるなかで、どの部隊に属しているのかを示し、武将や部隊を識別する役割を持っていました。

国立歴史民俗博物館と東京大学史料編纂所による「戦国の兜と旗」展では、戦国時代末期に合戦が集団戦となるなか、自らの存在を示すために変わり兜や旗指物が用いられたことが説明されています。

また、軍勢を動かすためには視覚だけでなく、太鼓・鐘・法螺貝など音による合図も利用されました。ただし「この音なら必ず突撃」といった統一規則が全国共通だったと考えるのは避けた方がよいでしょう。

大名家や軍勢によって方法が異なる可能性があるからです。

現代風にいえば、旗や音は通信手段の一つです。

スマートフォンも無線もない時代に、大勢の人間へどうやって命令を伝えるのか――。この問題も合戦を理解する重要なポイントなのです。

地形や陣形も勝敗を左右した

あけぼの

兵数や武器だけで勝敗が決まるとは限りません。軍勢が動きやすい場所、敵を迎え撃ちやすい場所など、地形をどう利用するかも戦場では重要でした。

合戦では地形が軍勢の行動を大きく左右します。

狭い道では大軍の数を生かしにくく、川を渡るには時間がかかります。山や谷があれば、部隊の移動や互いの連絡も難しくなるでしょう。

そこで武将は地形を考えながら部隊を配置しました。

一方、「陣形」については注意が必要です。後世の軍学書や合戦図には整然とした陣形が描かれることがありますが、それをそのまま戦国期の実戦の姿とみなすことはできません。

国立歴史民俗博物館も、江戸時代に軍学者らによって武士や戦いのイメージが形成・継承されたことを紹介しています。

したがって、戦国時代の軍勢が教科書的な「○○の陣」を毎回きれいに作って戦った、と考えるのは慎重であるべきでしょう。

大切なのは名称を暗記することではなく、

地形に合わせてどこへ部隊を置き、どう動かそうとしたのか

を見ることです。戦場跡を歩くと、この点がとても分かりやすくなります。

これだけは覚えよう

戦場では、大将の命令を受けた武将たちがそれぞれの部隊を動かし、槍・弓・鉄砲などを状況に応じて利用しました。

さらに、

軍勢の指揮
+ 武器
+ 命令の伝達
+ 地形
+ 情報

などが組み合わさって戦いが進みます。

「兵数が多い=必ず勝つ」「鉄砲が多い=必ず勝つ」というほど、合戦は単純ではありません。

人・武器・情報・地形をどう組み合わせたのかを見ることがポイントです。


合戦はどうやって終わった?

戦場から敵が逃げれば、すべて終わりというわけではありません。追撃するか、降伏を受け入れるか、さらに戦後の領地や恩賞をどうするかという問題が残っていました。

合戦のしくみ

戦闘の終了と「戦争の目的を達成すること」は必ずしも同じではありません。

敵軍が退却しても、その勢力が別の城へ入り再び抵抗することがあります。一方、交渉によって降伏や和睦が成立すれば、激しい戦闘を続けずに終わることもあります。

そして戦後には、勝者側にも家臣への恩賞や新領地の支配という大仕事が待っていました。

敵が退却すれば合戦は終わり?

あけぼの

敵軍が戦場から退却すれば、その場での戦闘は一段落します。しかし、敵の勢力そのものが消滅したとは限らず、戦いが別の場所へ続く場合もありました。

戦場で一方が退却を始めれば、そこで戦闘の大勢が決まることがあります。

しかし、退却した軍勢が近くの城へ入ったり、自らの領国へ戻って再編したりすれば、戦争そのものは終わりません。

この違いは「合戦」を理解するうえで重要です。

たとえば天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いは、一日の長久手での戦闘だけを指すものではなく、尾張北部を中心に美濃・伊勢まで広がり、半年余り続いた広域的な戦争でした。名古屋市博物館は、その過程で多数の城や砦が築かれ、戦況に応じて役割を変えたことを紹介しています。

つまり、

「一つの戦闘に勝った」=「戦争全体に決着した」

とは限りません。

戦国史の記事を読むときは、「○○の戦い」という名前が、一日の戦闘を意味しているのか、数か月にわたる一連の軍事行動を意味しているのかにも注目してみましょう。

敗れた軍勢を追撃することもあった

あけぼの

敵が退却を始めると、勝った側がその軍勢を追うこともありました。しかし、追撃すれば必ず有利になるとは限らず、新たな危険を伴う行動でもありました。

戦闘で敵軍が崩れると、勝者側が追撃を行う場合があります。

退却中の敵は部隊のまとまりを失いやすく、攻撃側にとって戦果を広げる機会となります。敵に立て直す時間を与えず、城や領地の確保へつなげる意味もありました。

しかし、追えばよいというほど単純ではありません。

部隊が敵を追って前へ出すぎれば、自軍の隊列も崩れます。周囲の地形を把握しないまま追えば、待ち伏せや反撃を受ける可能性もあります。

また、勝った側の兵も戦闘によって疲労しています。日没が近い、補給が不足している、別方向に敵軍が残っているといった事情も判断材料になったでしょう。

そのため、退却と追撃は合戦の「おまけ」ではありません。

いつまで戦い、どこで止めるのかを判断することも指揮の一部でした。

勝敗が傾いた後にも、武将の判断が求められたのです。

降伏や和睦によって決着する場合もあった

あけぼの

戦争を終わらせる方法には、敵軍を戦場で破ること以外にも降伏や和睦がありました。条件を交渉し、双方が戦闘をやめることも戦国期には行われています。

戦国時代の戦争では降伏や和睦による決着もありました。

城を包囲された側が、これ以上抵抗することは難しいと判断して城を明け渡す場合もあります。攻撃側にとっても、無理に攻城を続けるより降伏を受け入れた方が損害を抑えられることがあります。

和睦の場合は、双方が条件を調整して戦闘を停止します。

戦国期の起請文が大名間の軍事同盟や合戦の和睦にも用いられたことからも、戦争と文書による交渉が密接につながっていたことが分かります。

ここで重要なのは、

「戦う」か「話し合う」か

という二者択一ではなかったことです。

軍事的な圧力を加えながら交渉したり、交渉がまとまらなければ再び戦ったりすることもあります。

戦場での戦闘と外交は別々の世界ではなく、目的を達成するために組み合わせて使われる手段だったのです。

合戦の後には論功行賞や領地の再編が行われた

あけぼの

勝利した側にも、合戦が終われば大きな仕事が残ります。家臣の働きを評価して恩賞を決め、新たに獲得した城や領地を誰に任せるのか決めなければなりません。

戦後に重要となるのが論功行賞(ろんこうこうしょう)です。これは家臣たちの功績を評価し、それに応じて恩賞などを与えることです。

戦場で敵を討ち取ったことだけが功績ではありません。城を守った、敵の情報を得た、重要地点を確保した、味方を救援したなど、さまざまな働きが評価の対象になり得ます。

また、敵から領地を獲得した場合には、その土地を誰に任せるのかという問題も発生します。

新しい城主や領主を置けば、それまでの地域勢力との関係も調整しなければなりません。関ヶ原の戦い後の尾張でも、領主の交代とともに家臣構成や地域支配が変化していきました。

現代風にいえば、論功行賞は単なる「勝利ボーナス」ではありません。

目的:家臣の働きに報いる
方法:所領や地位などを与える
結果:新たな主従関係や領国支配を整える

という政治的な意味を持っていました。

合戦は、戦場から帰れば終わりではなかったのです。

これだけは覚えよう

合戦の終わり方は、「敵を全滅させて終了」という単純なものではありません。

退却
↓
追撃
↓
降伏・和睦
↓
城や領地の処理
↓
論功行賞

など、その後にもさまざまな段階があります。

一つの戦闘に勝っても、戦争全体が続く場合もあります。

そのため合戦を調べるときには、**「誰が勝った?」だけでなく、「勝った後に何が変わった?」**まで確認すると、その戦いの歴史的な意味が見えてきます。


戦国時代の合戦とは?まとめ

そもそも戦国時代の合戦とはどんなもの?

戦国時代の合戦は、広い野原で軍勢同士が正面衝突する野戦だけではありません。敵の城を攻めたり、周囲を包囲したり、城や砦を利用して交通路を押さえたりすることも重要な軍事行動でした。

また、降伏や和睦によって戦闘を終えることもあります。

合戦を見る際には、「どちらが何人倒したか」ではなく、何を目的として、どのような手段でその目的を達成しようとしたのかという視点を持つと、戦国時代の戦争がより立体的に見えてきます。

合戦が始まるまでに何をしていた?

合戦は、敵と武器を交えた瞬間から始まるものではありません。大名は家臣や地域勢力などを動員し、武器や兵糧を準備して軍勢を戦場へ向かわせました。

さらに物見や斥候などを使って敵の動向を探り、山・川・街道・城などの地形を確認しながら陣を構えます。大軍になればなるほど、人を集めるだけでなく食料や物資を運ぶことも難しくなります。

「戦う前の準備」も合戦を左右する重要な要素だったと覚えておきましょう。

戦場ではどのように戦った?

戦場では、大将のもとで各武将が部隊を率い、状況に応じて軍勢を動かしました。槍・弓・鉄砲など複数の武器が利用され、旗なども部隊や武将を識別する重要な役割を担いました。

さらに山や川、街道などの地形によって軍勢の動きやすさも変わります。「兵が多いから勝つ」「鉄砲を持っているから勝つ」と単純化するのではなく、人・武器・情報・地形・指揮など複数の要素が組み合わさって合戦が進んだと考えることが大切です。

合戦はどうやって終わった?

敵が退却して一つの戦闘が終わっても、戦争全体が終わったとは限りません。勝った側が追撃することもあれば、敗れた側が城へ入り、戦いが続くこともありました。

一方、降伏や和睦によって決着する場合もあります。そして戦後には、家臣の功績を評価する論功行賞や、獲得した城・領地の再編が待っていました。

「誰が勝ったか」だけでなく「その勝利によって城・領地・勢力関係がどう変わったのか」まで見ることが、合戦の意味を理解するポイントです。


参考史料・参考文献

一次史料・近世史料

太田牛一 『信長公記』
織田信長の軍事行動、城攻め、行軍、家臣の働きなどを確認する際の基本史料です。国立国会図書館デジタルコレクションでは明治14年(1881年)刊行本がインターネット公開されています。

『甲陽軍鑑』 国立国会図書館デジタルコレクション
武田氏の軍事や武士像を考える際に参照される近世の軍書です。ただし、戦国期の出来事をその場で記録した同時代史料ではないため、記述をそのまま史実とせず、同時代文書などとの比較が必要です。

研究書・参考文献

平山優 『戦国大名と国衆』
戦国大名の領国支配と軍事編成、国衆との関係を理解するために参照。大名軍を単純な一枚岩の軍隊として描かないためにも重要な研究書です。

平山優 『武田氏滅亡』
長篠合戦以降の武田氏をめぐる軍事・外交・同盟関係から、戦争が一度の会戦だけで決まるものではないことを確認するために参照できます。

太田牛一著・中川太古訳 『現代語訳 信長公記』
『信長公記』を現代語で確認する際の参考資料。国立国会図書館にも所蔵・書誌情報があります。

Webサイト・公的機関の解説

国立歴史民俗博物館「天下統一と城―城を攻める・守る」
戦国期の城攻めと防御、長野城・田中城などで確認される包囲施設について参照しました。

国立歴史民俗博物館「歴史のなかの鉄炮伝来」
天文12年(1543年)の鉄砲伝来から、鉄砲技術の普及、戦国大名による鉄砲衆の編成までを確認できます。

名古屋市博物館「城からのぞむ 尾張の戦国時代」
桶狭間、小牧・長久手などを例に、城や砦が情報・兵・物資の拠点となり、軍事行動のなかでさまざまな役割を担ったことを確認できます。

名古屋市博物館「松平家康起請文」
戦国期の起請文が、領地安堵のほか軍事同盟や合戦の和睦にも用いられたことを確認するために参照しました。

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