賤ケ岳の戦いの経過

賤ヶ岳の戦い

賤ケ岳の戦いの経過!佐久間盛政の奇襲と秀吉の美濃大返し

天正11年(1583年)春、余呉湖周辺で対峙していた羽柴秀吉軍と柴田勝家軍の均衡は、秀吉が美濃へ向かったことで崩れ始めます。この好機を捉えた佐久間盛政は大岩山砦を急襲し、中川清秀を討ち取ることに成功しました。

しかし、秀吉は大垣から驚異的な速さで帰還。さらに前田利家隊の戦線離脱が重なり、優勢だった柴田軍は一気に崩壊します。わずか数日で勝敗が逆転した経過を、史料上の注意点も交えて解説します。

対象読者:歴史初級者~中級者
読了時間:約23分

目次

主な人物と関係

人物立場・関係
羽柴秀吉木ノ本を中心に柴田軍と対峙した織田家の重臣
柴田勝家越前を本拠とし、秀吉に対抗した織田家の宿老
佐久間盛政勝家の甥ともされる有力武将。柴田軍の先鋒として大岩山を攻撃
中川清秀秀吉方の武将。大岩山砦を守備して討死
高山右近秀吉方の武将。岩崎山砦を守備したが、盛政軍の攻撃を受けて撤退
前田利家勝家の与力として北陸方面で活動する一方、秀吉とも親しい関係にあった武将
織田信孝信長の三男。美濃の岐阜城を拠点に秀吉と対立
羽柴秀長秀吉の弟。秀吉が美濃へ向かった間、北近江の守備を担ったとされる

与力(よりき)とは、有力武将の指揮下へ付けられ、軍事行動などで協力した武将を指します。利家は勝家の直属家臣というより、織田政権下で勝家の方面軍に組み込まれた立場でした。

賤ヶ岳の戦いの経過

※日付は原則として旧暦で表記しています。史料や研究によって一日前後する場合があります。

時期主な出来事
天正11年(1583年)
4月中旬
織田信孝が美濃で再び動き、秀吉が北近江から大垣方面へ移動
4月20日ごろ佐久間盛政軍が大岩山砦を攻撃
同日中川清秀が討死し、大岩山砦が陥落
同日岩崎山砦の高山右近が後退
4月20日夕方以降秀吉が大垣から木ノ本方面へ急速に引き返す
4月21日秀吉軍が盛政隊など柴田方の前線部隊へ反撃
同日前田利家隊が戦線から離れ、柴田軍の陣形が崩れる
4月21日以降勝家が越前の北ノ庄城へ撤退
4月24日ごろ北ノ庄城が落城し、勝家とお市の方が最期を迎える

佐久間盛政が秀吉軍を奇襲

秀吉が美濃方面へ移動すると、柴田方の佐久間盛政は、秀吉軍の防御線が手薄になったと判断しました。狙われたのは、中川清秀が守る大岩山砦でした。

賤ヶ岳の戦い

余呉湖周辺では、両軍が山上に多数の砦を築き、しばらくにらみ合いを続けていました。山岳地帯では大軍を展開しにくく、堅固な砦への正面攻撃は大きな損害につながります。しかし、秀吉本隊が北近江を離れたことで、勝家方に待望の攻撃機会が生まれました。

盛政軍は大岩山砦を攻略して中川清秀を討ち取り、さらに岩崎山砦を守る高山右近を後退させます。奇襲は局地的には大きな成功でした。ただし、この前進によって盛政軍は勝家本隊から離れ、秀吉軍の反撃を単独で受けかねない位置へ進むことになります。

秀吉が大垣へ移動した理由

あけぼの

秀吉が北近江を離れたのは、岐阜城の織田信孝が再び動いたためです。信孝を放置すれば、美濃方面から秀吉軍の後方を脅かされる恐れがありました。

信孝は信長の三男で、清洲会議後は柴田勝家との結び付きを強めていました。天正10年(1582年)12月、秀吉は岐阜城へ圧力を加え、信孝をいったん屈服させます。しかし、信孝は政治的にも軍事的にも完全に無力化されたわけではありませんでした。

天正11年4月、秀吉軍と勝家軍が余呉湖周辺で対峙している最中に、信孝が再び行動を起こします。もし信孝が美濃から近江へ進み、勝家軍と連携すれば、秀吉軍は北と東から挟まれかねません。さらに伊勢では、滝川一益が秀吉方への抵抗を続けていました。

秀吉は信孝の動きを封じるため、北近江の守備を秀長らに任せ、自ら主力の一部を率いて美濃方面へ向かいます。ただし、実際には大雨による河川の増水などで岐阜まで進めず、大垣付近にいたとする説明もあります。秀吉がどの地点で北近江の急変を知ったのかは、史料によって細部が異なります。

この移動は秀吉にとって必要な対応でしたが、北近江の前線から主将と一部の主力が離れる危険も伴いました。勝家方から見れば、長く待ち続けた攻撃の好機が訪れたのです。

佐久間盛政が大岩山砦を狙う

あけぼの

秀吉の移動を知った盛政は、余呉湖東側にある大岩山砦を攻撃目標に選びました。ここを突破すれば、秀吉方の防御線を北東側から崩せる可能性がありました。

大岩山砦は、中川清秀が守る秀吉方の前線拠点です。周囲には岩崎山・神明山・堂木山などの陣地があり、一見すると味方の砦に守られた位置でした。しかし、山上の砦同士は平地の城ほど自由に往来できません。谷や尾根を越えて援軍を送るには時間がかかり、夜間や悪天候では連絡も難しくなります。

盛政軍は、こうした陣城網の弱点を突きました。こういった攻撃は「中入り(なかいり)」と呼ばれ、敵陣の隙を突いて側面や後方へ進出する作戦を指します。ただし、盛政の行動が当時からこの名称で呼ばれていたとは限りません。

大岩山砦を奪えば、その南西に位置する岩崎山砦や、余呉湖西側の賤ヶ岳砦へ圧力を加えられます。さらに前進できれば、木ノ本の秀吉方本陣や補給路を脅かすことも可能でした。盛政の攻撃は、目の前の一砦を奪うだけでなく、秀吉方の防御網を連鎖的に崩す狙いを持っていたと考えられます。

奇襲の具体的な進軍経路、攻撃時刻、参加兵数には諸説があります。それでも、秀吉本隊の不在を利用し、守備の要所へ兵力を集中した盛政の判断が、戦況を大きく動かしたことは確かです。

中川清秀が討死した大岩山の戦い

あけぼの

盛政軍の攻撃を受けた中川清秀は、大岩山砦で抗戦しました。しかし、柴田方の攻勢を支えきれず、砦は陥落し、清秀も討死します。

中川清秀は摂津国の武将で、もとは荒木村重に従っていました。村重が信長に反旗を翻した有岡城の戦いでは、高山右近とともに織田方へ転じています。本能寺の変後は秀吉に従い、賤ヶ岳の戦いでは大岩山砦の守備を任されました。

大岩山は山上の陣地であり、大軍を収容する本格的な城ではありません。盛政軍が予想以上の速さで接近し、集中的に攻撃を加えれば、清秀方は周囲の砦から援軍が到着するまで持ちこたえる必要がありました。

清秀がどのように戦い、どの時点で討たれたのかについては、軍記物による劇的な描写も多く残ります。少数の兵で敵を何度も押し返した、秀吉が清秀の死を聞いて涙を流した、といった話は魅力的ですが、その細部を同時代史料で確認することは困難です。

確実なのは、清秀が大岩山砦の戦闘で命を落とし、秀吉方が重要な前線拠点を失ったことです。勝家方にとっては、長い対陣の末に初めて得た大きな戦果でした。中川清秀の討死は秀吉軍に衝撃を与え、周辺の砦にも動揺を広げます。

一方、盛政軍は大岩山を占領したことで、勝家本隊から南へ突出しました。砦の攻略に成功した瞬間から、戦線をどこまで拡大し、いつ撤退するかという新たな課題を抱えたのです。

岩崎山から高山右近が撤退

あけぼの

大岩山砦が陥落すると、その近くの岩崎山砦を守っていた高山右近も危険な状況に置かれました。右近は抗戦を続けず、砦から後退します。

高山右近は摂津高槻城を拠点とした武将で、キリシタン大名としても知られています。かつて中川清秀とともに荒木村重の勢力下にいましたが、のちに織田方へ転じ、賤ヶ岳の戦いでは秀吉軍に属していました。

大岩山と岩崎山は余呉湖東側の秀吉方防御線を構成していました。大岩山が敵の手に落ちると、岩崎山は北側から圧迫され、側面や退路を脅かされます。周囲の味方との連絡が途切れれば、孤立して包囲される危険もありました。

右近の撤退は、後世の物語では臆病な行動として描かれる場合があります。しかし、守備拠点の一つが陥落し、敵がさらに南下してくる状況では、兵力を失う前に後方へ下がることも合理的な判断です。右近は田上山方面など、秀吉方の後方陣地へ退いたとされます。

大岩山の陥落と岩崎山からの撤退により、秀吉方の前線は大きく揺らぎました。余呉湖西側の賤ヶ岳砦も孤立する恐れが生じます。もし勝家方が勢いに乗って防御線を突破し、木ノ本方面へ進出すれば、秀吉軍の補給拠点まで脅かすことができました。

この時点では、柴田方が明らかに優勢でした。しかし、右近が兵力を温存して後退したことにより、秀吉方は完全には崩壊しませんでした。防御線は損傷したものの、後方で態勢を整え、帰還する秀吉本隊と合流する余地が残されていたのです。

これだけは覚えよう

  • 織田信孝の再挙兵に対応するため、秀吉は北近江から大垣方面へ移動しました。
  • 秀吉本隊の不在を好機と見た佐久間盛政は、大岩山砦を攻撃しました。
  • 守将の中川清秀は討死し、大岩山砦は勝家方に奪われました。
  • 岩崎山砦の高山右近も後退し、秀吉方の防御線は大きく揺らぎました。
  • この段階では、局地的に柴田方が主導権を握っていました。

勝家の撤退命令に従わなかった盛政

大岩山攻略に成功した盛政は、そのまま前線にとどまったと伝えられます。一方、勝家は秀吉の帰還を警戒し、盛政へ撤退を命じたとするのが一般的な合戦像です。

賤ヶ岳の戦い

しかし、この「命令違反」の筋書きは、主に『川角太閤記』など後世の軍記物によって知られています。勝家が何度も撤退を命じたのに、盛政が功名心から拒絶したという細部まで史実と断定することはできません。

それでも、盛政軍が大岩山付近へ進出し、秀吉の反撃を受ける位置にとどまったことは、戦局上の重要な事実です。奇襲に成功した盛政は戦線を拡大しようとしましたが、その時間が秀吉に帰還の余地を与えました。

奇襲成功後に勝家が撤退を命じた理由

あけぼの

一般的な軍記物では、勝家は大岩山砦を攻略した盛政に対し、すぐに本隊の陣地へ戻るよう命じたとされます。その理由は、秀吉の反撃を警戒したためでした。

盛政軍の攻撃は大きな成果を挙げましたが、前進すればするほど勝家本隊との距離が広がります。山岳地帯では、敵に側面や退路を遮断された際、後方から援軍を送ることが容易ではありません。特に夜間は、命令や敵情を伝える使者の移動にも時間がかかります。

勝家にとって理想的な結果は、大岩山砦を破壊して秀吉方へ損害を与えた後、盛政軍を安全な前線まで戻すことでした。敵の砦を一つ奪うことより、主力部隊を失わずに次の攻撃機会を待つ方が重要だったと考えられます。

また、秀吉が大垣付近にいるなら、北近江へ戻るには相応の時間がかかると予想できます。しかし、秀吉は中国大返しで大軍を急速に移動させた実績を持つ武将です。勝家がその機動力を警戒していたとしても不思議ではありません。

ただし、「勝家が三度使者を送り、盛政がすべて拒んだ」といった具体的な場面は、軍記物によって形づくられた可能性があります。同時代の命令書など、撤退命令の内容を直接裏付ける史料は確認が難しいためです。

したがって、「勝家は撤退を命じたと伝えられる」と理解するのが適切でしょう。確実にいえるのは、勝家が盛政軍の突出を危険視したとする伝承が早くから形成され、後世には敗因の象徴として語られたことです。

盛政はなぜ大岩山付近にとどまった?

あけぼの

盛政が本当に勝家の命令へ反抗したかは断定できません。それでも、大岩山付近に軍勢を残した判断には、単なる功名心だけではない軍事的な理由が考えられます。

佐久間盛政が撤退しなかった理由の一つに、秀吉方の防御線が崩れ始めていたことが挙げられます。中川清秀を討ち取り、高山右近も後退させたことで、さらに南へ進める可能性が生まれています。

ここで撤退すれば、せっかく奪った主導権を手放し、秀吉方に砦を再び利用される恐れがありました。

二つ目の理由としては、秀吉がすぐ戻るとは考えにくかった可能性があります。大垣から木ノ本までは約50キロメートルとされます。通常の大軍なら移動に相当な時間を必要とし、到着後には休息と隊列の再編も欠かせません。

盛政が翌日まで攻撃の猶予があると判断しても、当時の常識から大きく外れたものではなかったでしょう。

三つ目の理由は、信孝や一益の動きへの期待です。秀吉が美濃と伊勢へ注意を向けざるを得ない間に、勝家方が北近江で前進すれば、多方面からの圧力を実現できます。盛政にとっては、この好機を最大限に利用することが勝利につながると見た可能性があります。

一方、勝家の許可を得て攻撃したのか、独断で行動範囲を拡大したのかについては、史料の記述が一定しません。後世には、敗北の責任を盛政個人の命令違反へ集中させる物語も形成されました。

結果だけを見れば、早期撤退が安全でした。しかし、奇襲が成功し、敵の防御線が崩れかけた瞬間に撤退を決断することも容易ではありません。盛政は成功したからこそ、引き際を見失いやすい状況に置かれたのです。

勝家軍の突出で生まれた危険

あけぼの

大岩山方面へ進出した盛政軍は、勝家本隊から離れた突出部となりました。突出部とは、味方の陣形から敵側へ張り出し、三方向から攻撃されやすくなった部隊や陣地を指します。

盛政軍の背後には勝家方の前線陣地がありましたが、その間には山道や谷があります。敵が退路を遮断すれば、大軍であっても安全に本隊へ戻ることはできません。また、大岩山砦を占領した後は、捕獲した物資の整理、負傷者の収容、守備態勢の構築も必要でした。

一方の秀吉方は、大岩山と岩崎山を失っても、木ノ本や田上山方面の後方拠点を維持していました。周辺の砦に残る部隊と、大垣から戻る秀吉本隊が連携できれば、盛政軍の正面と側面へ圧力を加えられます。

現代風にいえば、盛政軍は相手の前線拠点へ深く入り込んだものの、本社との通信路と補給路が細いまま、敵の増援を待つ形になったのです。攻撃を続けるには後続部隊が必要であり、撤退するにも安全な通路を確保しなければなりません。

勝家方が盛政軍の前進に合わせて全軍で南下できれば、突出は大規模な攻勢へ変わります。しかし、山岳地帯では各部隊が同時に動きにくく、勝家本隊と前線部隊の距離を短時間で埋めることは困難でした。

局地的な勝利を得た盛政軍は、同時に柴田軍全体の最も危険な部分となりました。秀吉が予想より早く帰還すれば、まず盛政軍が集中攻撃を受け、その動揺が後方の部隊へ波及する可能性があったのです。

秀吉が反撃できる時間が残された

あけぼの

盛政軍が大岩山付近にとどまったことで、秀吉には前線へ戻り、反撃態勢を整える時間が残されました。ここで秀吉の機動力が戦局を左右します。

秀吉は大岩山砦陥落の知らせを受けると、大垣から木ノ本方面へ急速に引き返したとされます。この軍団移動は、後世に「美濃大返し」と呼ばれました。大垣から木ノ本までの距離は、およそ50キロメートル前後と説明されます。

通説では、秀吉軍は約5時間でこの距離を移動したとされます。しかし、数万人規模の全軍が同じ速度で走破したと考えるのは現実的ではありません。先鋒や精鋭部隊が先行し、後続部隊が順次到着した可能性、秀吉が実際には大垣より北側にいた可能性なども考える必要があります。

沿道に松明や食事を準備し、兵士が甲冑を着けずに走り、武具を長浜方面から運ばせたという話も伝わります。これらは秀吉の準備能力を象徴する魅力的な逸話ですが、細部まで同時代史料で確認できるわけではありません。

重要なのは、秀吉方が木ノ本・長浜方面の道路と補給拠点を確保し、北近江の味方と連絡できたことです。秀吉は地理的・組織的な条件を利用して、盛政側の予想を上回る速さで戦場へ戻りました。

盛政軍がすぐ撤退していれば、秀吉が到着した時点で安全な陣地へ戻っていた可能性があります。しかし、大岩山付近に残っていたため、秀吉軍は突出した敵部隊を狙って反撃できました。戦線を拡大するために費やした時間が、そのまま秀吉へ与えられた反撃時間となったのです。

これだけは覚えよう

  • 勝家が盛政へ撤退を命じたという話は、主に近世の軍記物によって伝えられています。
  • 盛政が単純に命令を無視したと断定するのは慎重であるべきです。
  • 大岩山にとどまる判断には、秀吉方の防御線をさらに崩す狙いがあったと考えられます。
  • 盛政軍は勝家本隊から突出し、秀吉軍の集中攻撃を受けやすくなりました。
  • 秀吉の急速な帰還が、局地的に優勢だった柴田方の計算を崩しました。

秀吉軍の反撃で勝敗が決まる

戦場へ戻った秀吉は、勝家本隊よりも、前方へ突出した盛政軍を攻撃しました。やがて前田利家隊が戦線を離れ、柴田軍の陣形は次々と崩れていきます。

賤ヶ岳の戦い

戦局の転換は、単に「秀吉軍が速く戻った」だけで説明できません。盛政軍の突出、柴田方各部隊の距離、前田利家の複雑な立場、秀吉軍の補給力など、複数の要因が重なっていました。

柴田方の前線が崩れると、その動揺は後方へ急速に広がります。山岳地帯の狭い道では、退却する味方と前進しようとする部隊が衝突し、隊列を立て直せませんでした。勝家は全軍の崩壊を止められず、越前へ退くことになります。

秀吉軍が佐久間盛政隊へ攻めかかる

あけぼの

木ノ本方面へ戻った秀吉軍は、盛政隊を中心とする柴田方の前線部隊へ反撃を開始しました。秀吉の狙いは、敵軍全体ではなく、陣形から突出した部分を各個撃破することでした。

各個撃破(かくこげきは)とは、敵の部隊を分散させ、一部へ兵力を集中して順番に破る戦い方です。勝家本隊と盛政隊が十分に連携できていないなら、秀吉軍は全柴田軍を一度に相手にする必要がありません。

盛政側も、ただちに一方的な敗走へ移ったわけではありません。大岩山攻略に成功した部隊は士気が高く、勇猛で知られた盛政の指揮下にありました。撤退しながら反撃し、秀吉方の追撃を食い止めようとしたと考えられます。

戦闘では、盛政隊だけでなく、柴田勝政ら勝家方の部隊も秀吉軍と交戦しました。この戦いで福島正則加藤清正ら秀吉方の若手武将が活躍し、のちに「賤ヶ岳七本槍」と称されます。

ただし、七人だけで柴田軍を破ったわけではありません。「七本槍」の呼称や武功の物語は、秀吉政権成立後に顕彰され、イメージ戦略として整理された面があります。

秀吉軍の強みは、帰還した本隊だけではありません。木ノ本方面に残っていた部隊や、後方へ退いていた右近らが再編され、複数方向から盛政軍へ圧力を加えられました。

盛政軍は大岩山を奪ったことで前へ出ていましたが、その位置は秀吉軍にとって攻撃目標を絞りやすい場所でもありました。奇襲によって生じた柴田方の突出が、今度は秀吉方の反撃を呼び込む弱点へ変わったのです。

前田利家隊の戦線離脱

あけぼの

柴田軍が秀吉軍の反撃を受けるなか、前田利家隊は戦線から離脱したとされます。この行動は、柴田軍全体の動揺を拡大させる重要な転換点となりました。

前田利家は北陸方面で勝家の指揮下に入り、賤ヶ岳の戦いにも勝家方として参加していました。しかし、利家は勝家の直属家臣ではなく、織田政権のもとで勝家に付属された与力です。

また、秀吉とは以前から親しい関係で、妻同士にも親交があり、両者の間には書状の往来や人的なつながりがあったと考えられています。

後世には、利家が秀吉との友情を選び、勝家を裏切ったという物語が広まりました。しかし、利家の心情を直接示す同時代史料は乏しく、戦線離脱の理由を友情だけで説明することはできません。

利家は勝家方の陣形の一部を担っていました。その部隊が後退すれば、隣接する部隊の側面が開き、敵の進入を許す恐れがあります。また、周囲の武将は「勝家方が崩れ始めた」「利家は秀吉と通じている」と受け取り、戦意を失った可能性があります。

利家隊がどの時点で、どのような命令を受けて動いたのかには諸説があります。「戦闘を避けて撤退した」「秀吉と事前に通じていた」「勝敗を見極めて離脱した」などの説明がありますが、どれか一つに断定することは困難です。

確かなのは、利家が最後まで勝家軍と行動を共にせず、のちに秀吉を受け入れたことです。その結果として、勝家方の防御線に空白が生まれ、前線の崩壊を加速させました。

柴田軍の陣形が崩壊

あけぼの

盛政隊への攻撃と利家隊の離脱が重なると、柴田軍の陣形は急速に崩れ始めました。山岳地帯での退却は、平地以上に困難でした。

余呉湖周辺では、軍勢が利用できる道が限られています。前線部隊が後退を始めると、後方から救援へ向かう部隊や物資を運ぶ荷駄隊と同じ道へ集中します。狭い山道で兵士や馬が混雑すれば、指揮官の命令が届かず、整然とした撤退は難しくなります。

一部の部隊が崩れると、隣の部隊も側面を守れなくなります。さらに「味方が敗れた」という情報が伝われば、実際には戦える部隊まで退却を始めることがあります。戦国時代の軍隊は、複数の大名・国衆・家臣団を組み合わせて編成されており、全軍が一体となって動くとは限りませんでした。

勝家方では、盛政隊が前方に出ている一方、勝家本隊やほかの部隊は北側の陣地にいました。この距離が、反撃時の連携を難しくします。利家隊の離脱も加わり、前線を支える横のつながりが失われました。

秀吉方は、崩れた場所へ兵力を集中し、退却する柴田軍を追撃します。福島正則や加藤清正らの活躍は、この追撃戦のなかで語られることが多いものです。

ただし、七本槍の個人的な武勇だけを勝因とするのは適切ではありません。柴田軍が敗れた背景には、盛政隊の突出、秀吉の急速な帰還、利家隊の離脱、山岳地形による連携の難しさがありました。複数の亀裂が一度に広がったことで、柴田軍は組織的な抵抗を続けられなくなったのです。

勝家が北ノ庄城へ敗走する

あけぼの

前線の崩壊を止められないと判断した勝家は、越前の北ノ庄城へ撤退しました。賤ヶ岳での敗北は、勝家にとって本拠地そのものを失う危機を意味しました。

勝家軍の退路は、近江から越前へ続く山道です。北国街道周辺の拠点は、もともと補給路と退路を守るために築かれていました。しかし、敗走する兵士が一斉に北へ向かえば、狭い道は混乱します。秀吉軍の追撃を受けながら、勝家は残った兵をまとめて越前を目指しました。

退却戦では、毛受勝照(めんじゅ かつてる)らが勝家の身代わりとなって秀吉軍を引き付けたという逸話が知られています。勝照が勝家の馬印を預かり、主君を逃がすために戦ったとする物語です。

毛受一族が退却戦で討死したことは伝えられていますが、具体的な会話や名乗りは近世の軍記物による脚色を考慮する必要があります。

勝家は北ノ庄城へ戻りましたが、賤ヶ岳で主力を失ったため、長期籠城できる状況ではありませんでした。秀吉軍は休むことなく、勝家を越前へ追撃します。

この途中、秀吉は前田利家の本拠である府中へ立ち寄り、利家を自軍へ迎え入れたとされます。利家の離脱が偶発的なものではなく、秀吉との関係修復または事前交渉を伴っていた可能性を示す出来事ですが、細かな経緯は慎重に見る必要があります。

天正11年(1583年)4月24日ごろ、北ノ庄城は秀吉軍の攻撃を受けて落城しました。勝家は妻のお市の方とともに最期を迎えます。こうして賤ヶ岳の戦いは、北近江の一決戦にとどまらず、勝家勢力の消滅へ直結したのです。

これだけは覚えよう

  • 秀吉軍は、勝家本隊より先に突出した盛政隊へ攻撃を集中しました。
  • 賤ヶ岳七本槍」だけで柴田軍を破ったのではなく、組織的な反撃のなかで若手武将が活躍しました。
  • 前田利家隊は戦線を離れましたが、その理由を秀吉との友情だけで断定することはできません。
  • 盛政隊の突出、利家隊の離脱、山岳地形による連携の難しさが重なり、柴田軍は崩壊しました。
  • 勝家は北ノ庄城へ退きましたが、秀吉軍の追撃を受けて数日後に滅亡しました。

まとめ

盛政の奇襲は失敗ではなく、柴田方に主導権をもたらした

秀吉が信孝への対応で大垣方面へ移動すると、佐久間盛政は大岩山砦を攻撃しました。中川清秀を討ち取り、高山右近を岩崎山から後退させたことで、秀吉方の防御線は大きく揺らぎます。

この段階では、盛政の奇襲は明確な成功でした。しかし、大岩山付近へ前進した盛政軍は勝家本隊から離れ、反撃を単独で受けやすい位置へ進みます。賤ヶ岳の勝敗は、奇襲の成否ではなく、成功後に戦果をどう扱うかによって分かれました。

「盛政の命令違反」だけを敗因とする見方には注意が必要

勝家が撤退を命じ、盛政が功名心から拒んだという話は、『川角太閤記』など近世の軍記物を通じて広まりました。実際に撤退をめぐる意見の違いがあった可能性はありますが、そのやり取りを直接裏付ける同時代史料は限られます。

盛政には、崩れ始めた秀吉方の防御線をさらに突破するという軍事的な狙いもあったでしょう。ただし、その間に秀吉が大垣から急速に帰還したため、盛政軍の前進は危険な突出へ変わりました。

秀吉の機動力と柴田軍内部の崩れが勝敗を決めた

秀吉軍は大垣方面から木ノ本へ戻り、盛政隊を中心とする柴田方の前線へ反撃しました。そこへ前田利家隊の戦線離脱が重なり、柴田軍の横の連携は崩れます。山岳地帯の狭い道では、いったん始まった退却を立て直すことが難しく、混乱は勝家本隊まで波及しました。

秀吉の勝因は「美濃大返し」の速さだけではありません。道路・補給拠点を確保した機動力と、敵の突出部へ攻撃を集中する判断が、数日前まで優勢だった柴田軍を崩壊させたのです。


参考史料・参考文献

一次史料・近世史料

  • 川角三郎右衛門『川角太閤記
    盛政の大岩山攻撃、勝家による撤退の勧告、秀吉軍の反撃など、後世に定着した賤ヶ岳合戦の経過を確認するために参照しました。ただし、合戦当時の一次史料ではなく、伝聞や軍記的表現を含む近世史料です。
  • 小瀬甫庵『太閤記(甫庵太閤記)
    秀吉の帰還や柴田軍との戦闘、勝家の最期に関する近世の叙述を確認するために参照しました。秀吉を顕彰する傾向があるため、具体的な兵数・会話・移動時間はそのまま事実とみなしませんでした。
  • 太田牛一『大かうさまくんきのうち
    秀吉に仕えた太田牛一による秀吉一代記です。秀吉の事績を検討するうえで重要ですが、賤ヶ岳合戦の全行程や詳細な部隊配置を復元できる史料ではないため、補助的に参照しました。
  • 賤ヶ岳合戦図屏風』長浜城歴史博物館蔵
    大岩山砦の攻防、柴田軍の撤退、秀吉軍の追撃を描いた18世紀の絵画史料です。合戦当日の写実的記録ではなく、江戸時代に形成された合戦像を確認するために参照しました。

研究書・参考文献

  • 高柳光寿『戦史ドキュメント 賤ヶ岳の戦い』学習研究社〈学研M文庫〉、2001年
    大岩山攻撃、美濃大返し、柴田軍の崩壊、北ノ庄城への撤退という軍事的経過を確認するために参照しました。
  • 柴裕之『清須会議―秀吉天下取りへの調略戦』戎光祥出版、2018年
    清須会議後の織田家の政治体制と、秀吉・勝家・信孝・信雄らの関係を理解するために参照しました。
  • 小和田哲男『豊臣秀吉』中央公論新社〈中公新書〉、1985年
    秀吉の生涯における賤ヶ岳の戦いの位置付けと、近世以来の秀吉像に含まれる虚実を検討するために参照しました。
  • 楠戸義昭『激闘!賤ヶ岳―羽柴軍vs.柴田軍 織田家臣団の頂上決戦』洋泉社〈歴史新書〉、2018年
    余呉湖周辺の地形、砦群、盛政軍と秀吉軍の動きを現地の視点から理解するために参照しました。

Webサイト・公的機関の解説

  • 長浜市・北近江豊臣博覧会「賤ヶ岳七本槍
    秀吉の美濃方面への移動、大岩山砦への奇襲、中川清秀の討死、秀吉軍の反撃という基本的な経過を確認しました。
  • 長浜城歴史博物館「賤ヶ岳合戦図屏風
    屏風の制作年代、描かれている大岩山砦の攻防、柴田軍撤退時の場面を確認しました。
  • 公益財団法人日本城郭協会公認「城びと」小和田哲男「戦国10大合戦と城 第4回 賤ヶ岳の戦い
    砦群を利用した戦い、美濃大返し、秀吉軍の反撃について確認しました。
  • 大阪城天守閣「賤ヶ岳合戦図屏風
    大阪城天守閣所蔵の合戦図屏風と、賤ヶ岳合戦が秀吉の信長後継者としての地位確立につながったことを確認しました。
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