小栗忠順はなぜ横須賀製鉄所を造ったのか?

小栗忠順の足跡

横須賀製鉄所を築いた小栗忠順|日本近代化への大構想

開国後の江戸幕府は、欧米から軍艦を購入しても、故障すれば外国の技術者や造船所に頼らなければなりませんでした。遣米使節としてアメリカの海軍造船所を視察した小栗忠順は、日本にも艦船の建造・修理と技術者育成を担う拠点が必要だと考えます。

その構想は横須賀製鉄所だけにとどまらず、フランス語教育、軍制改革、貿易会社、紙幣、洋式ホテルへと広がっていきました。

対象読者:歴史初心者~中級者
読了時間:約16分

目次

登場人物・関係者の簡単な紹介

  • 小栗忠順
    勘定奉行などを務めた幕臣。横須賀製鉄所を中心とする幕府の近代化政策を推進しました。
  • レオン・ロッシュ
    駐日フランス公使。幕府との連携を深め、技術・軍事・金融面から近代化政策を支援しました。
  • フランソワ・レオンス・ヴェルニー
    フランス海軍の技術者。横須賀製鉄所の建設と運営を技術面から指導しました。
  • 栗本鋤雲
    外国奉行などを務めた幕臣。ロッシュや通訳カションとの人脈を通じて、日仏間の調整を担いました。
  • メルメ・カション
    フランス人宣教師・通訳。幕府とフランスの意思疎通を助けました。
  • 清水喜助
    建築請負人。民間から資金を集め、築地ホテル館の建設と経営を引き受けました。

小栗忠順の近代化政策年表

主な出来事
1860年遣米使節の監察として渡米し、ワシントン海軍造船所などを視察
1864年フランス公使ロッシュが着任。幕府との連携が進む
1865年横浜製鉄所を整備し、横浜仏語伝習所を開設
1865年11月横須賀製鉄所の建設に着手
1866年フランスとの600万ドル規模の資金調達構想が進められる
1867年フランス軍事顧問団による幕府陸軍の訓練が本格化
1867年兵庫商社の設立と金札発行が進められる
1867年築地ホテル館の建設に着手
1868年江戸幕府が崩壊。横須賀製鉄所は明治政府へ引き継がれる
1868年築地ホテル館が完成
1871年横須賀製鉄所第1号ドックが完成

横須賀製鉄所建設への道

横須賀製鉄所は、単なる鉄の生産工場ではありません。軍艦の建造・修理、機械製造、職工の養成を一体化した、日本初期の総合的な近代工業施設でした。

幕府が外国から軍艦を購入するだけでは、海軍力を継続的に維持できません。小栗は造船所を、技術を日本国内へ定着させるための拠点と考えました。フランス公使ロッシュとの連携によって計画が具体化し、ヴェルニーを中心とするフランス人技術者が建設を指導します。

小栗忠順はなぜ造船所が必要だと考えたのか

あけぼの

小栗忠順が造船所の必要性を痛感した背景には、遣米使節として目にしたアメリカの海軍力と、日本が外国製軍艦に依存していた現実がありました。

小栗は万延元年(1860)、日米修好通商条約の批准書交換使節に監察として加わり、ワシントン海軍造船所などを視察しました。そこでは、軍艦の修理、金属加工、機械製造が大規模な施設の中で組織的に行われていました。

日本も外国から蒸気軍艦を購入し始めていましたが、購入しただけでは海軍力は完成しません。艦船は定期的な整備が必要であり、故障すれば部品の製造や交換を行わなければなりません。修理のたびに外国へ依頼していては、費用がかかるうえ、戦争や外交対立が起きた際に整備できなくなる恐れがあります。

小栗が必要としたのは、完成した軍艦を並べることではなく、軍艦を造り、直し、動かし続けられる産業基盤でした。そのため横須賀製鉄所には、ドック、機械工場、鋳造設備、製材施設、倉庫、技術教育の仕組みが組み込まれます。

なお、当時の「製鉄所」は、現在の製鉄所のように鉄鉱石から大量の鉄を生産する工場だけを意味しません。フランス語の造船工廠に近い、造船・修理・機械製造を総合的に行う施設でした。

造船所建設構想

  • 目的:軍艦を国内で建造・修理し、外国依存を減らす
  • 方法:ドック、機械工場、鋳造設備、教育施設を一体的に整備する
  • 結果:幕府崩壊後も明治政府へ引き継がれ、日本の造船・海軍技術を支えた

フランス公使ロッシュとの連携

あけぼの

小栗の造船所構想を現実の事業へ進めるうえで、重要な協力者となったのがフランス公使レオン・ロッシュでした。

ロッシュは元治元年(1864)に来日し、幕府との関係強化を進めました。当時のフランスは、東アジアでイギリスに対抗できる政治的・経済的な足場を求めていました。一方、幕府には、軍事技術や産業技術を提供してくれる協力国が必要でした。

両者を結び付けたのが、小栗忠順栗本鋤雲メルメ・カションらです。栗本は外国事情に詳しい幕臣で、カションは日本語に通じたフランス人通訳でした。彼らが意思疎通を支えたことで、造船所建設についての協議が進みました。

幕府は当初、アメリカなどにも技術協力を求めましたが、アメリカは南北戦争の最中で、十分な支援を行える状況ではありませんでした。ロッシュは、フランスの技術者と機械設備を導入する案を幕府へ提示し、大規模施設の準備段階として、まず横浜に小規模な製鉄所を整えることを勧めます。

こうして横浜製鉄所で機械の組み立てや日本人職工の訓練を始めたのち、本格的な横須賀製鉄所の建設へ移りました。日仏協力は、フランス側の国益と幕府側の近代化要求が一致した結果だったのです。

日仏連携

  • 目的:幕府は近代技術を導入し、フランスは日本での影響力を強める
  • 方法:ロッシュが技術者・設備・軍事支援を仲介する
  • 結果:横浜製鉄所を準備拠点として、横須賀製鉄所建設が具体化した

ヴェルニーを迎えて始まった製鉄所建設

あけぼの

横須賀製鉄所の建設責任者として選ばれたのが、フランス海軍の技術者フランソワ・レオンス・ヴェルニーでした。

ヴェルニーは、フランスの理工系高等教育機関エコール・ポリテクニックで学び、海軍の造船・機械技術に携わっていました。幕府は彼を製鉄所首長に迎え、慶応元年(1865)11月15日、横須賀で建設に着手します。

横須賀が選ばれたのは、江戸湾内にあり幕府の本拠地に近いこと、湾が比較的深く、艦船の停泊や出入りに適していたことなどが理由です。周囲の丘陵を切り開き、海岸を造成して、工場やドックを建設する大工事となりました。

ヴェルニーはフランスから技師、職工、医師、教師らを招き、機械設備もヨーロッパから取り寄せました。日本人は外国人の補助作業をするだけでなく、機械操作、造船、製図、測量、建築などを実務の中で学びます。

ただし、小栗が設計図を描き、ヴェルニーと二人だけで完成させたわけではありません。栗本鋤雲、幕府の製鉄所掛、日本人職人、フランス人技術者らの共同事業でした。また、完成前に幕府が崩壊したため、明治政府が工事を引き継ぎ、1871年に第1号ドックを完成させました。

横須賀製鉄所は、政権が交代しても中止されませんでした。それは、この施設が徳川家だけのものではなく、日本の近代化に必要な社会基盤だったことを示しています。

製鉄所建設

  • 目的:艦船の建造・修理と近代機械工業の基盤を築く
  • 方法:ヴェルニーを首長に迎え、外国製機械と技術者を導入する
  • 結果:明治政府へ継承され、横須賀造船所・横須賀海軍工廠へ発展した

これだけは覚えよう

横須賀製鉄所は、鉄を造るだけの工場ではなく、軍艦の建造・修理、機械製造、職工教育を担う総合的な造船工廠でした。小栗が政策と予算を動かし、ロッシュが日仏協力を仲介し、ヴェルニーが技術面を指導しました。幕府崩壊後も明治政府へ継承された点が、歴史的な重要性を示しています。

フランスと進めた幕府の近代化政策

小栗とロッシュの協力は、横須賀製鉄所だけにとどまりませんでした。軍隊、産業、語学教育、資金調達を結び付け、幕府の統治能力そのものを強化しようとしました。

小栗忠順の足跡

近代技術を外国から購入するだけでは、日本人が使いこなせるようになりません。そこで幕府は、フランス語を理解する人材を育て、フランス式軍隊を整え、大規模な設備・武器購入を支える資金調達にも取り組みました。

フランス式の軍事・産業技術を導入

あけぼの

幕府がフランスから導入しようとしたのは、武器や機械だけではありません。軍隊の編成、訓練、工場運営、技術教育を含む一つの制度でした。

幕府は歩兵・砲兵・騎兵による三兵編制を進め、慶応3年(1867)にはフランス軍事顧問団による訓練を本格化させました。兵士は統一された軍服と装備を用い、号令や隊列運動、銃砲の操作を学びます。

産業面では、横浜製鉄所と横須賀製鉄所へフランス製の工作機械や蒸気機関を導入しました。規格に沿って部品を加工し、設計図をもとに製品を組み立てる生産方法は、職人個人の経験に依存していた従来のものづくりとは異なります。

現代風にいえば、幕府は外国製の製品だけを輸入するのではなく、工場の設備、社員研修、業務手順、管理制度を一括して導入しようとしたのです。

もっとも、フランス式が無条件に最良だったわけではありません。フランスには日本での影響力や武器販売を拡大したい思惑がありました。幕府の近代化政策は、こうした外国の国益を利用しながら、日本側へ技術を移転させる試みだったと捉える必要があります。

フランス式技術の導入

  • 目的:幕府の軍事力と工業力を短期間で高める
  • 方法:軍事顧問、技術者、工作機械、教育制度をまとめて導入する
  • 結果:幕府陸軍と近代工業の基礎が形成され、明治政府へ継承された

仏語伝習所で日本人技術者を育成

あけぼの

フランス人技術者から高度な知識を学ぶには、通訳に頼るだけでなく、フランス語を理解できる日本人を育てる必要がありました。

幕府は慶応元年(1865)、横浜に仏語伝習所を開設しました。これは、外交官や通訳だけでなく、フランス式の軍事・産業技術を学べる人材を育てるための教育機関です。語学教育は、技術移転を支える重要な基盤でした。

機械の説明書、設計図の注記、契約書、専門用語の多くはフランス語で書かれています。単語を日本語へ置き換えるだけでは、複雑な技術を正しく理解できません。語学と数学、測量、製図などを組み合わせて学ぶ必要がありました。

さらに横須賀製鉄所内にも、技術者を育成する学校が整えられます。日本人の生徒は、代数、幾何、三角法、製図などを学び、工場では実際の機械を操作しました。現代風にいえば、外国語学校、工業高校、企業内研修所を組み合わせたような仕組みです。

なお、横浜仏語伝習所と、後に横須賀製鉄所内に設けられた技術教育の場は、厳密には同一施設ではありません。しかし、フランス語を入口として専門技術を日本人へ移すという政策上の方向は共通しています。

人材育成策

  • 目的:外国人に依存せず、技術を運用できる日本人を育てる
  • 方法:フランス語、数学、測量、製図、機械操作を教育する
  • 結果:造船・機械・土木分野を支える技術者育成の基礎となった

幕府とフランスを結んだ600万ドル借款構想

あけぼの

軍艦、武器、工作機械、外国人技術者には、莫大な費用が必要でした。そこで小栗らは、フランスとの関係を利用した大規模な資金調達を構想します。

慶応2年(1866)ごろ、幕府とフランス側の間で、総額600万ドル規模の資金を調達する計画が進められました。目的は、軍艦・武器の購入、軍制改革、産業施設の整備など、幕府の近代化政策を支えることです。

現代風にいえば、外国政府や銀行、投資家の資金を利用して、防衛設備と産業基盤を一気に整える大型の国際融資・投資ファンド構想でした。単純に現金600万ドルを一括で借りるというより、金融機関からの融資、物資購入、投資家からの資金募集を組み合わせる計画だったとする研究もあります。

フランス側には、武器や機械を日本へ輸出し、幕府を通じて経済的影響力を強める狙いがありました。一方、資金の返済条件や担保、幕府が日本全体を代表する政府なのかという問題は、フランス側の不安材料となります。

交渉はいったん具体化しましたが、計画どおりの600万ドル全額を安定的に調達するには至らず、幕府の政治的信用低下や国内情勢の悪化によって頓挫しました。したがって、「幕府が600万ドルを受け取り、それをすべて使った」と説明するのは正確ではありません。

600万ドル資金調達構想

  • 目的:軍事・産業の近代化に必要な巨額資金を得る
  • 方法:フランスの金融機関・商社・投資家を通じて資金を調達する
  • 結果:交渉は具体化したが、幕府の信用低下と政権崩壊により全面実施されなかった

これだけは覚えよう

小栗の対仏政策は、軍隊、工場、教育、金融を一体として整える構想でした。仏語伝習所は技術移転を支える人材を育て、600万ドル構想は近代化費用を海外から調達しようとした試みです。ただし、600万ドル全額が幕府へ渡ったわけではなく、計画は最終的に頓挫しました。

貿易と産業を支える新制度に挑む

小栗が目指した近代化は、軍事施設の整備だけではありません。開港によって拡大する貿易を日本人の手で管理し、民間資本を公共事業へ活用する制度も構想しました。

小栗忠順の足跡

兵庫商社、金札、築地ホテル館に共通するのは、幕府の資金だけですべてを賄うのではなく、商人の資本と経営能力を利用しようとした点です。そこには、政府と民間が役割を分担する近代的な経済政策の芽が見られます。

兵庫商社による貿易統制構想

あけぼの

兵庫の開港を控え、小栗は日本の商人が外国貿易へ組織的に参加できる「兵庫商社」の設立を進めました。

当時の日本商人は、資金力や海外情報、輸送手段で外国商人に及びませんでした。生産者が個別に外国商人と取引すれば、価格交渉で不利になり、日本の商品を安く買いたたかれる恐れがあります。

そこで幕府は、大坂などの有力商人を組織し、資金を共同で出させる計画を立てました。兵庫商社が国内商品を集め、外国との取引をまとめて行えば、日本側の交渉力を高められます。貿易から生まれる利益や関税を、開港場の整備や産業振興へ回すことも期待されました。

現代風にいえば、商社、貿易銀行、港湾開発会社の機能を一つにまとめた半官半民の事業体です。ただし、自由な民間会社というより、幕府が主導して商人を組織し、貿易を統制しようとする性格が強いものでした。

兵庫商社は制度として動き始めましたが、大政奉還と幕府崩壊によって十分な活動を行えませんでした。また、「日本最初の株式会社」と呼ばれることがありますが、現代の会社法に基づく株式会社と同一ではないため、あくまでその先駆的な構想と捉えるのが適切です。

兵庫商社

  • 目的:外国商人に対する日本商人の交渉力を高める
  • 方法:有力商人から資金を集め、輸出入を共同で行う
  • 結果:近代的な商社の先駆けとなる構想だったが、幕府崩壊で本格化しなかった

紙幣発行で兵庫開港の費用を調達

あけぼの

兵庫商社を動かし、開港場を整えるには、多額の資金が必要でした。小栗らは、商人から資金を集める一方、「金札」と呼ばれる紙幣の発行も計画します。

幕府は長く金貨・銀貨・銭貨を中心とする貨幣制度を維持してきました。そのため、幕府の政策に関係する組織へ紙幣発行を認めることは、大きな転換でした。

計画では、商人が幕府の必要資金を立て替え、その見返りとして兵庫商社に金札を渡します。商社は金札を事業資金として使用し、一定の条件で正貨との引き換えを担う予定でした。発行額は100万両規模が構想されましたが、実際の発行は幕府崩壊直前の一部にとどまったとされています。

現代風にいえば、政府が民間の事業組合へ、事業資金として流通可能な兌換券を与える仕組みです。銀行券に似ていますが、現代の中央銀行が発行する法定通貨とは性格が異なります。

この制度には、手元の金銀が不足していても大規模事業を始められる利点がありました。一方、発行主体への信用が失われれば、金札を受け取る人がいなくなります。政権そのものが不安定になった幕末には、信用を維持することが最大の課題でした。

金札発行構想

  • 目的:兵庫商社の資本と開港関連事業の資金を確保する
  • 方法:商人の立替金に対応する金札を発行し、商社に流通・交換を担わせる
  • 結果:一部は発行されたが、幕府崩壊によって計画規模には達しなかった

築地ホテル館に託した国際都市への構想

あけぼの

江戸の開市を控え、外国人が安心して宿泊できる本格的なホテルが必要になりました。そこで計画されたのが築地ホテル館です。

イギリス公使ハリー・パークスらは、江戸を訪れる外国人の宿泊施設を整えるよう幕府へ求めました。しかし、幕府には巨大な洋式ホテルを自費で建設し、運営する余裕がありません。

小栗は勘定奉行として、幕府が土地と事業上の権利を提供し、民間が資金を集めて建設・経営する方式を後押ししました。建設を引き受けたのは、清水組の二代清水喜助です。喜助は出資者を募り、利益から配当を支払う計画を立てました。

現代風にいえば、行政が用地を提供し、民間事業者が資金調達、建設、運営を担うPFI・公民連携事業に近い仕組みです。設計にはアメリカ人建築家リチャード・ブリジェンスが関わり、日本の建築技術と西洋式設備を組み合わせた建物となりました。

築地ホテル館は幕府崩壊後の1868年に完成しました。外国人居留地の宿泊施設であると同時に、江戸が国際貿易都市へ変わることを象徴する建築物でした。ただし、営業は順調とはいえず、1872年の銀座大火で焼失します。

小栗が完成後のホテルを直接運営したわけではありません。小栗の役割は、民間資本を公共性の高い都市施設へ導く事業方式を構想し、建設を後押しした点にあります。

  • 目的:江戸開市に備え、外国人向けの宿泊・交流施設を整える
  • 方法:幕府が土地を提供し、民間が出資・建設・経営を担う
  • 結果:1868年に完成し、国際都市を目指す東京の象徴となった

これだけは覚えよう

兵庫商社、金札、築地ホテル館には、商人の資金と経営能力を公共事業へ活用するという共通点があります。小栗は貿易・金融・都市整備を別々に考えず、日本が外国と対等に取引するための経済基盤として結び付けました。ただし、幕府崩壊によって多くの構想は十分に実施されませんでした。

まとめ1|横須賀製鉄所は日本に技術を残すための施設だった

小栗忠順が横須賀製鉄所を必要とした最大の理由は、外国から軍艦を購入するだけでは、自立した海軍を維持できなかったからです。艦船の建造・修理、部品製造、職工教育を国内で行うことで、外国の技術を日本の力へ変えようとしました。

建設はロッシュヴェルニー栗本鋤雲、日本人職人らとの共同事業であり、完成前に幕府は崩壊します。しかし、明治政府が事業を引き継いだことで、小栗の構想は日本近代工業の基盤となりました。

まとめ2|軍事・産業・教育・金融を結び付けた対仏政策

小栗とロッシュが進めた近代化政策は、フランス製の武器や機械を買うだけのものではありません。軍隊の編成、工場運営、フランス語と理工学の教育、国際的な資金調達を一体化する構想でした。

600万ドル計画は全面的な実施に至りませんでしたが、外国資本を利用して産業基盤を整える発想を示しています。

一方、フランス側にも日本での影響力や商業利益を拡大する狙いがあり、日仏協力は双方の国益が交わった政策として捉える必要があります。

まとめ3|商人の力を近代国家づくりへ生かす

兵庫商社、金札、築地ホテル館は、幕府の資金だけに頼らず、商人の資本と経営能力を国家的な事業へ活用する試みでした。小栗は日本人商人の貿易交渉力を高め、紙幣に似た仕組みで資金を動かし、民間出資によって国際的な宿泊施設を整えようとします。

多くは政権崩壊によって未完成に終わりましたが、商社、銀行、株式会社、公民連携事業へつながる発想が、すでに幕末の幕府内で生まれていたことを示しています。

参考史料・参考文献

一次史料・近世史料

  • 『御軍艦所之留』
    ヴェルニーによる機械購入費の送金要請と、小栗ら製鉄所掛の対応を確認するために参照しました。
  • 『幕末外国関係文書』
    幕府とフランスの外交交渉、外国公使との往復文書を確認するための基礎史料です。東京大学史料編纂所による『大日本古文書』の案内ページへリンクしています。
  • 『続通信全覧』
    幕末の外交・貿易・軍艦購入などに関する幕府文書を確認するために参照しました。リンク先は、外務省編纂の史料を復刻した「類輯之部・修好門」の国立国会図書館書誌ページです。
  • 渋沢栄一編『徳川慶喜公伝』
    兵庫商社、パリ万国博覧会、幕府の対外政策を確認するために参照できる伝記史料です。リンク先から全8巻の書誌情報とデジタル資料を確認できます。
  • 『小栗上野介関係文書』
    小栗の日記写本と役職歴を含む関係資料です。政策の前後関係を確認するために参照しました。

研究書・参考文献

Webサイト・公的機関の解説

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

目次