戦国京都の「貴賤群集」とは?二条御所に集う人々と武家権力

戦国史トピックス

戦国京都の「貴賤群集」とは?武家権力と都市空間を解説

戦国時代の京都には、公家・武士・僧侶・町衆など、異なる身分の人々が同じ催しを見るために集まることがありました。こうした状態を史料は「貴賤群集(きせんくんじゅ)」などと表現しています。

高原佳穂氏の研究発表は、『言継卿記』に記された38事例をもとに、人々が集まった場所の変化を分析しました。そこから見えてきたのは、二条御所の馬場を政治的な舞台として利用した足利将軍と織田信長の姿です。

読了時間:約17分

目次

「貴賤群集」の研究はどのような内容?

本研究は、戦国後期の京都で身分を越えた人々が、いつ、どこへ集まったのかを、公家の日記から読み解いたものです。

分析に用いられたのは、山科言継(やましな ときつぐ)が残した『言継卿記(ときつぐきょうき)』です。

研究では、日記のなかから「貴賤群集」などに該当する38件を抽出し、寺社、禁裏・公家邸宅、武家施設、市中のどこに人々が集まったのかを整理しています。

その結果、永禄元年(1558年)ごろを境として、人々の集まる場所が変化したことが指摘されました。

日本地理学会秋季学術大会で発表された研究

あけぼの姫

高原佳穂氏の研究は、2026年9月に開かれた日本地理学会秋季学術大会で発表され、要旨が公開されています。

「戦国後期京都における〈貴賤群集〉の空間と武家権力/政権」は、京都大学大学院の高原佳穂氏による研究発表です。

令和8年(2026年)9月11日から12日に九州大学で開催された、日本地理学会秋季学術大会で発表されました。研究要旨は同年9月30日にJ-STAGEで公開されています。

キーワードには『言継卿記』、都市民衆、都市空間、二条城、足利将軍、織田信長が挙げられています。

注意したいのは、現時点で公開されている資料が大会の「発表要旨」であることです。研究の問題意識・分析結果・結論は確認できますが、史料38件の一覧や個々の記述を検証する詳細な注釈までは掲載されていません。

したがって、本記事でも研究成果を確定した通説として扱わず、新たに提示された有力な見方として紹介します。

「貴賤群集」は特定の集団名ではない

あけぼの姫

「貴賤群集」とは、貴族から庶民まで身分や階層の異なる人々が、一つの場所へ集まった状態を表す言葉です。

「貴賤」は身分の高い者と低い者、「群集」は多くの人が集まることを意味します。

ただし、戦国時代の京都に「貴賤群集」という名前の固定された組織が存在したわけではありません。

本研究では、「貴賤群集」「都鄙貴賤男女」など、身分・居住地・性別を越えた多数の人々が集まったことを示す史料表現をまとめて、分析上の概念である〈貴賤群集〉としています。

集まった人々の一人ひとりについて、名前や職業、居住地が記録されているわけではありません。

そのため、「京都の全身分が平等に交流した」とまではいえません。史料から確認できるのは、公家の日記に「さまざまな人が集まった」と記されるほど、多数の見物人が同じ時間と場所を共有したことです。

『言継卿記』から38件の事例を抽出した

あけぼの姫

研究の中心史料は、公家の山科言継が約半世紀にわたって書き続けた日記『言継卿記』です。

山科言継は、永正4年(1507年)に生まれた中流公家です。内蔵頭(朝廷の財物などを管理した内蔵寮の長官)を務め、天正4年(1576年)に亡くなりました。

言継は朝廷や公家社会だけでなく、町衆、医師、武士、僧侶など幅広い人々と交流しました。その日記には、診療、金銭の貸し借り、芸能、酒宴、旅、政治事件などが細かく記されています。

現存する日記は大永7年(1527年)から天正4年(1576年)に及び、本研究では〈貴賤群集〉に該当する38件が確認されました。

公家の日記であるため、京都の人々すべてを均等に記録した史料ではありません。それでも、言継が実際に見聞きした催しや見物人の様子を追える点で、戦国京都の日常を知る貴重な一次史料です。

戦国京都の人々はどこに集まった?

分析された38件を場所と年代で整理すると、永禄元年(1558年)ごろから、群衆が集まる場所に大きな変化が見られました。

それ以前は、京都の市街地外に位置する寺社での事例が中心でした。

永禄年間に入ると、市街地内の寺社や禁裏、さらに将軍御所でも人々の集まりが確認されるようになります。

これは、単に京都の人口が増えたという話ではありません。催しを開く側が、群衆の視線を意識し、政治や権威を示すために都市空間を利用し始めた可能性を示しています。

弘治3年までは洛外寺社への群集が中心だった

あけぼの姫

弘治3年(1557年)までに確認された10件のうち8件は、京都市街の外側に位置する寺社で発生していました。

寺社の境内は、多くの参詣者を受け入れられる比較的開放的な場所でした。

戦国後期の京都には、現在の公園やイベント広場のように、誰もが自由に集まれる常設の大空間が多く存在したわけではありません。

公家邸宅や武家屋敷は原則として私的な空間であり、町屋が密集する道路も、大人数を長時間収容する場所には向きませんでした。

一方、寺社では法会、祭礼、芸能、勧進などが行われました。身分や居住地の異なる人々が同じ催しを見るために集まりやすい場所だったのです。

つまり、初期の〈貴賤群集〉を支えたのは、寺社がもともと持っていた開放性でした。

この段階では武家が群衆を自らの邸宅へ呼び込むのではなく、既存の寺社空間を利用して権威を示していたと考えられます。

天文14年の北野万部経会に武家権力が関わった

あけぼの姫

天文14年(1545年)の北野万部経会は、武家が寺社の開放的な空間を利用して権威を示した事例と解釈されています。

万部経会とは、法華経などの経典を多数読誦する大規模な仏教行事です。

研究要旨では、北野社(きたのしゃ)で行われた万部経会を武家が主催し、そこに〈貴賤群集〉が生じた事例が取り上げられています。

当時の将軍御所は、まだ多くの見物人を受け入れる政治的な公開空間としては機能していなかったと発表者はみています。

そこで武家権力は、自らの邸宅ではなく、もともと人々が集まりやすかった寺社を舞台に選んだというのです。

法会は宗教行事ですが、主催者の財力や信仰心、社会的地位を広く印象付ける機会でもありました。

現代風にいえば、多くの人が訪れる公共施設で大規模行事を開催し、主催者の存在感を示すようなものです。ただし、宗教と政治が密接だった当時を、現代の宣伝活動と完全に同一視はできません。

永禄元年以降は洛中や禁裏へ集まりが移った

あけぼの姫

永禄元年(1558年)以降の28件では、洛中寺社や禁裏など、京都市街の内部で〈貴賤群集〉が多く確認されました。

38件のうち、弘治3年(1557年)までの事例は10件でした。残る28件は永禄元年以降に集中しています。

この変化から、戦国後期の京都では、人々が集う催しの中心が洛外から洛中へ移りつつあった可能性が見えてきます。

禁裏は天皇の居所であり、本来は自由に出入りできる空間ではありません。それでも特定の行事では、多様な見物人が周辺へ集まりました。

重要なのは、都市空間が恒常的に開放されたわけではないことです。

行事の主催者や権力者が認めた時間と範囲に限り、普段は閉ざされた空間が一時的に人々の視線へ開かれました。

「どこに集まったか」だけでなく、「誰が、いつ、何のために人々を集めたか」を考えることで、都市空間と政治権力の関係が見えてくるのです。

二条御所はどのような政治空間だった?

武家の施設で〈貴賤群集〉が確認された場所は将軍御所だけであり、とくに二条御所の馬場が重要な舞台となりました。

足利義輝の時代、御所の馬場では賀茂競馬(かもくらべうま・かもけいば・かものけいば)に関係する催しが行われました。

義輝の死後には追善仏事の場所となり、足利義昭と織田信長の時代には、騎乗の披露や首実検にも使われます。

同じ空間が、娯楽・追悼・軍事的威圧という異なる役割を担った点に、研究の大きな面白さがあります。

足利義輝の二条御所で人々が催しを見物した

あけぼの姫

武家空間で確認された最初の〈貴賤群集〉は、足利義輝の二条御所で催された賀茂競馬の関連行事でした。

足利義輝は、室町幕府第13代将軍です。将軍権力の立て直しを進める一方、永禄8年(1565年)の永禄の変で殺害されました。

義輝の二条御所には馬場が設けられ、永禄7年(1564年)、賀茂競馬に関わる行事を見物する人々が集まったとされています。

賀茂競馬は、騎手が馬を走らせて速さを競う、賀茂社の神事です。馬術は武家の軍事能力や格式とも結び付いていました。

将軍御所で騎乗行事を見せることは、単なる娯楽の提供ではありません。将軍を中心に武家・公家・町衆が同じ催しを見物することで、将軍の存在を視覚的に示す機会にもなりました。

この事例は、私的な邸宅だった将軍御所が、一時的とはいえ、身分を越えた人々が集う政治的な舞台へ変わり始めたことを示しています。

義輝の死後も御所跡に人々が集まった

あけぼの姫

永禄の変で義輝が殺害された後、二条御所跡で追善仏事が営まれ、そこにも身分を越えた人々が集まりました。

足利義輝の死によって、二条御所は将軍の居所としての機能を失いました。しかし、その場所が持つ政治的な意味まで消えたわけではありません。

研究要旨によると、御所跡では義輝を弔う仏事が行われ、〈貴賤群集〉が記録されました。

発表者は、この仏事に、義輝の弟で将軍職の継承を目指していた足利義昭の意向が働いた可能性を指摘しています。

ただし、これは史料から直接確認された義昭の命令ではなく、研究上の推測です。

前将軍を追悼する行為は、故人の供養だけでなく、「自分こそがその政治的遺産を継ぐ」という意思表示にもなり得ます。

御所跡へ多数の人々が集まる光景そのものが、義輝の記憶と義昭の正統性を結び付ける役割を果たした可能性があるのです。

信長は足利義昭のために二条御所を再建した

あけぼの姫

永禄11年(1568年)に足利義昭を奉じて上洛した織田信長は、翌年、義昭の御所を大規模に再建しました。

織田信長は足利義昭を室町幕府第15代将軍に就け、京都での政治を安定させようとしました。

永禄12年(1569年)には、義昭のために二条御所を造営します。この御所は「武家御所」「公方之御城」などと呼ばれました。

信長の上洛後、京都の治安維持や寺社・公家との交渉には、木下秀吉ら家臣も関わりました。秀吉が担った京都統治を知ると、信長の京都支配が家臣たちの実務によって支えられていたことが分かります。

京都市の解説によると、旧二条城は烏丸通・新町通・丸太町通・下立売通に囲まれた、およそ二町四方の範囲を占めていました。

注意したいのは、ここでいう二条御所・二条城が、徳川家康の造営した現在の元離宮二条城とは別の城だという点です。

この御所は、義昭を守る防御施設であると同時に、将軍の権威を目に見える形で示す政治拠点でした。

信長は建設への協力を京都の住民に求め、短期間で完成させたとされます。城の規模と建設速度も、新たな政権の力を示す効果を持っていました。

信長・義昭政権は群衆をどう利用した?

再建された二条御所の馬場では、武芸の披露や首実検が行われ、集まった人々へ政権の力を見せる場として機能しました。

ここでの群衆は、自由に政治参加した市民というより、政権が見せようとする儀礼や武力を目撃する「観衆」に近い存在です。

それでも、多数の人々が見物し、体験を町へ持ち帰ることで、政権の評判や印象が広がったと考えられます。

政治は命令書や軍勢だけで動くものではありません。何を人々に見せるのかという演出も、権力を支える重要な要素だったのです。

徳川家臣の騎乗は政権の求心力を示した

あけぼの姫

永禄13年(1570年)、二条御所の馬場では、信長に従って上洛していた徳川家臣の騎乗が披露されました。

足利義昭と織田信長の政権は、将軍一人や織田軍だけで成り立っていたわけではありません。

信長と同盟を結んだ徳川家康の家臣も上洛し、その騎乗を二条御所の馬場で披露しました。

馬を巧みに操る能力は、戦国武士にとって重要な軍事技能でした。同時に、整った装束や馬具、統制された騎乗は、武家の格式と組織力を見せる演出にもなります。

観衆が見たのは、単独の騎手による曲芸ではありません。足利将軍のもとに信長や徳川勢力が集まっているという、新たな政治秩序の姿でした。

現代風にいえば、同盟関係と軍事力を一般の人々にも分かる形で披露する公式行事に近いでしょう。

研究では、こうした催しが将軍御所を開かれた政治空間へ変え、信長・義昭政権の求心力を高める役割を果たしたとみています。

首実検は武家政権の強権性を見せた

あけぼの姫

元亀2年(1571年)には二条御所の馬場で首実検が行われ、同じ空間が武家政権の強制力を示す舞台になりました。

首実検(くびじっけん)とは、合戦で討ち取った敵将などの首を確認し、本人であるか、誰の手柄であるかを判定する行為です。

戦場や陣中で行われる場合が多い首実検を、将軍御所の馬場で実施することには、政治的な意味がありました。

賀茂競馬や騎乗披露では、馬術や儀礼を通して武家の格式が示されました。一方、首実検は、敵を討ち、処罰し、戦功を認定する権力を目に見える形で示します。

同じ馬場が、華やかな見物の場から、武家政権の厳しい側面を見せる場へ変わったのです。

ただし、研究要旨だけでは、どの範囲の人々が首実検を目撃したのか、見物人がどのように受け止めたのかまでは分かりません。

確認できるのは、武家政権が将軍御所内の空間を、軍事的な権威を可視化するために利用したという点です。

御所の開放は権力によって管理されていた

あけぼの姫

二条御所は誰もが自由に出入りできる公共空間ではなく、政権が選んだ日時と催しに限って開かれる場所でした。

本研究では、永禄年間以降、将軍御所の馬場が〈貴賤群集〉の生じ得る開放的な空間になったと指摘しています。

しかし、その開放性には大きな条件がありました。

人々が集まったのは、賀茂競馬の関連行事、追善仏事、騎乗披露、首実検など、武家権力が主催・許可した催しのときです。

見物人が自発的に御所を占有し、自由に政治的意見を表明したわけではありません。門を開く時刻、見せる内容、利用する場所は、権力側が決めていました。

その意味で二条御所の馬場は、「開かれた場所」であると同時に、「管理された場所」でもありました。

人を排除することだけが権力ではありません。必要なときに人を集め、特定の光景を見せ、終われば再び閉じることも、都市を支配する力の一部だったのです。

「貴賤群集」の研究が示す歴史的意義

この研究は、戦国期の権力が城や軍勢だけでなく、人々の集まりと視線を管理することで成立していた可能性を示しています。

戦国京都では、寺社、公家邸宅、町屋、武家施設が近接していました。

身分ごとの居住空間が完全に分離していたわけではなく、行事が開かれれば異なる階層の人々が同じ場所へ集まりました。

武家権力は、こうした都市の性格を利用しながら、寺社や将軍御所を政治的な舞台へ変えていったと考えられます。

戦国京都には常設の「広場」がなかった

あけぼの姫

戦国後期の京都には近代都市のような常設の公共広場がなく、寺社や御所の一部が催しの際に集会空間となりました。

京都は長い歴史を持つ都市ですが、戦国期の市街地は、公家邸宅、武家屋敷、寺社、町屋、道路が混在する稠密な空間でした。

多くの人々が集まれる場所は、いつでも誰でも利用できる「広場」として整備されていたわけではありません。

そこで重要になったのが、寺社の境内、禁裏の周辺、将軍御所の馬場などです。

これらは本来、宗教・居住・儀礼・軍事といった固有の目的を持つ場所でした。しかし、特定の日には多数の見物人を収容する一時的な集会空間へ変わります。

空間の意味は、建物や地形だけで決まるものではありません。

誰が催しを開き、誰が入り、そこで何を見たのかによって、同じ場所でも政治的な意味が変化します。本研究は、戦国史と歴史地理学を結び付ける点でも興味深い成果です。

「見せる政治」は豊臣政権以前から始まっていた?

あけぼの姫

発表者は、豊臣政権で目立つ祝祭や政治的演出の源流を、足利義輝以来の二条御所の空間利用に見いだしています。

豊臣秀吉は、聚楽第への天皇行幸、北野大茶湯、華やかな行列など、大規模な催しを政治に利用した人物として知られています。

多くの人々に権力者の富や格式を見せ、参加者に新しい秩序を体験させる方法は、豊臣政権の特徴として論じられてきました。

しかし今回の発表では、その前段階として、足利義輝の二条御所で行われた騎乗行事や、信長・義昭期の馬場利用に注目しています。

つまり、「見せる政治」は秀吉が突然発明したものではなく、室町幕府末期から織田政権形成期にかけて積み重ねられた可能性があるという見方です。

ただし、義輝・義昭期の催しと、秀吉による大規模な都市改造や祝祭を直線的に結ぶには、さらに検討が必要です。

本研究は、その連続性を考える新しい入口を示したものと評価できます。

秀吉の京都改造を考える前提になる

あけぼの姫

16世紀末の京都改造は、それ以前の公家・寺社・武家・町衆が混在した都市空間との比較によって、意味が明確になります。

豊臣秀吉は、天正19年(1591年)ごろに御土居の築造や寺町の形成を進めました。

また、聚楽第を中心とする武家町、禁裏を囲む公家町など、身分や機能に応じた都市空間の編成も進みます。

しかし、秀吉による京都改造だけを見ると、なぜ寺院・公家・武家・町衆の空間を整理する必要があったのかが分かりにくくなります。

それ以前の京都では、異なる身分の人々の生活空間が近接し、寺社や御所の催しを通じて〈貴賤群集〉が生まれていました。

秀吉の都市政策は、こうした混在状態の上に、新しい政権の秩序を空間として配置し直したものとも考えられます。

本研究は信長・義昭期までを主な対象としていますが、その成果は豊臣政権による京都改造を理解する前提にもなるのです。

まとめ

①〈貴賤群集〉は身分を越えた人々の集まりを示す

〈貴賤群集〉は、特定の身分や職業を持つ集団の名称ではありません。

『言継卿記』に見える「貴賤群集」「都鄙貴賤男女」などの表現をもとに、異なる階層の人々が一つの催しへ集まった状態を示す分析上の概念です。

ただし、参加者全員の身元が分かるわけではなく、身分差が消滅したことを意味するものでもありません。公家の日記に記録されるほど多数の人々が、同じ空間で同じ催しを見物した点が重要です。

②人々の集まる場所は洛外から洛中へ変化した

『言継卿記』から抽出された38件のうち、弘治3年(1557年)以前は10件で、そのうち8件が洛外寺社で確認されました。

一方、永禄元年(1558年)以降の28件では、洛中寺社や禁裏での事例が増えています。

寺社はもともと多数の人々を受け入れやすい空間でしたが、やがて禁裏や将軍御所の一部も、特定の催しに限って人々へ開かれるようになりました。この変化は、武家権力と都市民衆との関係を考える手掛かりになります。

③二条御所の馬場は「見せる政治」の舞台になった

足利義輝の二条御所では、賀茂競馬に関係する催しへ人々が集まりました。

義輝の死後には追善仏事が行われ、信長・義昭期には徳川家臣の騎乗披露や首実検にも利用されます。

馬場は娯楽や儀礼の場であると同時に、政権の同盟関係、武芸、軍事的な強制力を見せる政治空間へ変化しました。この動きは、後の豊臣政権による祝祭や政治的演出の源流を考える材料になります。

④開かれた空間も武家権力に管理されていた

二条御所の馬場にさまざまな人々が集まったからといって、御所が恒常的な公共空間になったわけではありません。

人々が入れたのは、武家権力が選んだ日時と催しに限られていました。

つまり、御所の開放性は政権によって管理されていたのです。武家権力は人を締め出すだけでなく、必要なときに集め、見せたい光景を見せることでも都市を支配しました。この視点は、合戦中心の戦国史とは異なる権力の姿を教えてくれます。

参考資料

一次史料・近世史料

山科言継『言継卿記 第1』
研究発表が分析対象とした公家日記です。国立国会図書館デジタルコレクションへの案内を含む書誌情報を確認するために参照しました。

研究発表・研究書

高原佳穂「戦国後期京都における〈貴賤群集〉の空間と武家権力/政権」
本記事の中心資料です。〈貴賤群集〉の定義、38件の時空間分布、二条御所の馬場と武家権力に関する分析を確認しました。

今谷明『言継卿記―公家社会と町衆文化の接点』
『言継卿記』と公家・町衆の交流を理解するための研究書です。対象研究の参考文献にも挙げられています。

元木泰雄・松薗斉編『日記で読む日本中世史』
清水克行氏による『言継卿記』の解説を収録しています。戦国期の日記史料を読み解く際の参考文献です。

仁木宏『京都の都市共同体と権力』
中世京都の都市共同体と権力の関係を扱った研究書で、対象研究の問題設定に関わる先行研究です。

山田邦和『京都都市史の研究』
京都の都市構造を文献史学・考古学・歴史地理学から検討した研究書です。豊臣政権と都市空間を考えるために参照しました。

Webサイト・公的機関の解説

京都大学文学部・文学研究科「学部生・大学院生の研究成果」
発表者、研究題目、発表日、開催地を確認するために参照しました。

旧二条城跡|京都市
織田信長が足利義昭のために造営した旧二条城の年代・範囲・その後を確認しました。

信長の上京焼討ち|京都市上京区
足利義昭の御所造営、京都の住民に課された協力、当時の上京と信長の関係を確認しました。

京都市のあゆみ|京都市
足利義昭の入京、豊臣秀吉による御土居・寺町の形成など、京都史の年代確認に参照しました。

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