知行とは?

武将と大名のしくみ

知行とは?戦国武将が主君から与えられた土地と収入のしくみ

戦国時代の物語では、「戦功の褒美として知行を与えられた」という表現がよく登場します。しかし、知行とは単純に土地をプレゼントされることではありません。

土地から得られる年貢などの収益や、一定の支配を行う権利と深く関係し、武士の生活や軍役を支える重要な基盤でした。

知行のしくみを知れば、戦国大名がどのように家臣をまとめ、家臣がなぜ主君のもとで働いたのかも理解しやすくなります。

対象読者:歴史初級者
読了時間:約28分

目次

そもそも「知行」とは何?

知行は、戦国時代の主君と家臣の関係を理解するうえで欠かせない言葉です。「土地をもらう」というイメージから、もう一歩踏み込んで見ていきましょう。

武将と大名のしくみ

知行(ちぎょう)は、土地そのものだけでなく、そこから得られる年貢などの収益や、一定の支配を行う権利と深く関係しています。

武士は知行から得られる収益をもとに自らの家を維持し、家臣や従者を養い、軍役などを果たしました。

ただし、知行の具体的なあり方は時代・地域・大名家によって異なります。全国共通の一つの制度として考えないことも大切です。

知行とは土地や収入を支配・取得する権利

あけぼの

「知行=土地を所有すること」と考えると、本来の意味をつかみにくくなります。土地から何を得られ、どのような権利を認められたのかに注目しましょう。

知行とは、中世から近世にかけて、土地やそこから生じる収益を支配・取得することに関わる言葉です。

たとえば、主君からある村について知行を認められても、現代の不動産のように、その村全体を自由に売買できる所有権を得たという意味ではありません。

重要なのは、その土地から納められる年貢などを収益として取得したり、一定の支配を行ったりできることです。

こうした権利が主君から家臣へ認められたことは、知行充行状(ちぎょうあてがいじょう)などの文書からも確認できます。

実際に残された文書を見ると、「誰が誰に、どの土地について権利を認めたのか」という具体的な関係を知ることができます。

ただし、知行という言葉が具体的に何を意味するかは、時代や史料によって一定ではありません。

初心者の段階では、「土地そのものをもらう」ではなく、「土地やそこから得られる収益について一定の権利を認められる」と理解しておくとよいでしょう。

「土地をもらう」だけではない?知行の本当の意味

あけぼの

「武将が功績を挙げて土地をもらった」という説明は分かりやすい一方、知行の意味を単純化してしまいます。実際には収益や支配に関する権利が重要でした。

主君が家臣に知行を与えた場合、その土地に住んでいる人々や田畑そのものが、家臣の私有物になるわけではありません。

家臣にとって重要なのは、認められた土地から年貢などの収益を得て、自らの家を維持する経済的な基盤にできることでした。

現代風にいえば、土地という「物」をそのままプレゼントされるというより、特定の土地から収益を得たり、一定の支配を行ったりする立場を認められるイメージです。

もちろん、現代の不動産に関する権利とまったく同じではありません。

また、主君が新しく土地を与える場合だけでなく、家臣が以前から持っていた所領について、その権利を主君が認める場合もありました。

中世の土地には、複数の権利関係が重なっている場合もあります。そのため、現代の「所有者は誰か」という考え方だけでは説明できません。

知行を理解するときには、「誰が、どの土地について、どのような収益や支配の権利を認められていたのか」という視点が重要なのです。

「領地」「所領」「知行」は何が違う?

あけぼの

領地・所領・知行は似た場面で登場するため、初心者には分かりにくい言葉です。厳密に分けすぎず、それぞれが何に注目した言葉なのかを整理しましょう。

所領は、武士や寺社などが何らかの権利を持っていた土地を表す際によく使われる言葉です。

「先祖から受け継いだ所領」であれば、その家が以前から権利を持ってきた土地という意味合いになります。

領地は、現在の歴史解説では、大名や武将などが支配している土地を広く表す言葉として使われています。

これに対して知行は、土地そのものよりも、土地やそこから得られる収益を支配・取得する権利や行為に重点を置いた言葉です。

初心者向けに大まかに整理すると、次のようになります。

用語初心者向けの理解
領地大名や武将などが支配する土地を広く表す言葉
所領武士や寺社などが権利を持っている土地
知行土地や収益について認められた支配・取得の権利

ただし、実際の史料では、これらの用語がいつでも明確に使い分けられているわけではありません。

現代の法律用語のように意味を固定せず、その史料が作られた時代や状況に合わせて読み解くことが大切です。

知行は主君と家臣を結ぶ重要なしくみだった

あけぼの

知行は武士の収入源であるだけでなく、主君と家臣を結びつける重要な要素でした。家臣の経済基盤と主君への奉仕を一緒に考えてみましょう。

戦国大名が広い領国を支配し、合戦を行うためには、多くの家臣を組織しなければなりません。

しかし、戦国時代の家臣を、現代企業の社員のように主君の命令だけで動く存在と考えるのは適切ではありません。

有力な家臣のなかには、自らの所領を持ち、その下にさらに家臣や被官を従えていた武士もいました。

主君は、こうした家臣が以前から持っていた所領を認めたり、新しい知行を与えたりしました。

一方、家臣は合戦への参加をはじめ、城の守備や領国支配など、さまざまな役目を担います。

主君と家臣の関係を簡単に整理すると、次のようになります。

主君
↓ 
知行・所領に関する権利を認める
家臣
↓ 
軍事・行政などの役目を担う・主君を支える

ただし、主君が一方的に土地を配り、家臣が無条件に従ったわけではありません。有力な国衆などとの間では、交渉や利害調整も必要でした。

知行は、戦国大名と家臣がどのような関係を築いていたのかを読み解く重要な手がかりなのです。

これだけは覚えよう

知行を「主君から土地をもらうこと」とだけ覚えないことが、この言葉を理解する最大のポイントです。

知行とは、土地やそこから生じる収益を支配・取得する権利と深く関係する言葉です。

主君が知行を認める
↓
家臣の経済基盤になる
↓
家臣が軍事・行政などの役目を担う

この基本的な関係を押さえておきましょう。

戦国時代の家臣は知行から何を得ていた?

家臣にとって知行は、日々の生活費を得るだけのものではありません。家臣や従者を養い、武具を整え、武士として活動するための経済基盤でした。

武将と大名のしくみ

家臣が合戦へ出陣するとき、自分一人が刀や槍を持って参加すればよいわけではありません。

家の規模などに応じて人員や装備を用意する必要があり、それらを維持するための収入も必要でした。

知行と軍役を結びつけて考えると、戦国武士の経済と軍事が密接につながっていたことが見えてきます。

家臣は知行地から年貢などの収入を得ていた

あけぼの

知行地から得られる年貢などは、家臣にとって重要な収入源でした。その収益は生活だけでなく、武士としての家や軍事力を維持するためにも必要でした。

年貢は、農村などから領主へ納められる重要な負担でした。

家臣が一定の土地を知行している場合、その土地から生じる年貢などの収益が、家臣の経済基盤となります。

ただし、「村で収穫された米がすべて家臣のものになった」という意味ではありません。

年貢の徴収方法や負担の内容、村と領主との関係は、地域や時期によって異なりました。

さらに武士が必要とした収入は、自分や家族が暮らすためだけのものでもありません。

自身に仕える家臣や従者を養い、武器や防具を整え、場合によっては馬などを維持する必要もありました。

現代風にいえば、個人の生活費としての「給料」というより、自分が率いる小さな組織を維持する財源まで含んだ経済基盤に近い面があります。

大きな軍勢を率いる武将ほど、多くの人員や物資を支える経済力が必要でした。

知行を見ることで、戦国武将の軍事力を支えていた「土地と収入」という側面まで見えてくるのです。

知行はどのように家臣へ与えられた?

あけぼの

主君が家臣へ新しい知行を与えたり、以前から持っていた所領の権利を認めたりするときには、文書が発給されることがありました。

代表的な文書の一つが知行充行状です。

「充行」は「あておこなう」と読み、土地などに関する権利を与えることを意味します。

一方、家臣が以前から持っていた所領などについて、主君がその権利を認めることは安堵と呼ばれます。

初心者向けに大まかに整理すると、

安堵=これまで持っていた権利を認める

充行・宛行=新たな知行などを与える

という違いがあります。

実際に残されている『入来院家文書(いりきいんもんじょ)』には、島津氏が発給した知行充行状や安堵状などが含まれています。

こうした文書は、戦国武将がどのような土地を与えられたり、その権利を認められたりしたのかを知る重要な手がかりです。

ただし、文書が発給されれば、それだけで現地の支配が完成するわけではありません。

戦乱によって支配地域が変われば、文書で認められた土地から実際に収益を得られない場合も考えられます。

「誰が誰に何を認めたのか」と同時に、「その土地を実際に誰が支配していたのか」まで考えることが大切です。

土地ではなく米や金銭を与えられることもあった?

あけぼの

武士を経済的に支える方法は、特定の土地を知行させることだけではありません。ただし、戦国期と江戸期の給与制度をそのまま同じものとして考えるのは禁物です。

戦国時代には土地から得られる収益が、武士の経済基盤として大きな意味を持っていました。

一方、武士への給付や恩賞には、米や銭などが用いられる場合もありました。

注意したいのは、これを現代の「土地払い」「現金払い」のような全国共通の給与制度として考えないことです。

大名家によって家臣団の構成や財政、土地支配の方法が異なり、時代によっても仕組みは変化しました。

この違いがより分かりやすくなるのが江戸時代です。

江戸幕府の幕臣には、知行所から年貢を徴収する「知行取」と、幕府から蔵米を支給される「蔵米取」がいました。

つまり、武士の生活を支える方法には、特定の土地から直接収益を得る方式だけでなく、主君側から米などを受け取る方式もあったのです。

ただし、江戸時代に制度化された仕組みを、そのまま戦国時代へ当てはめてはいけません。

戦国期から近世へ向かうなかで、武士を経済的に支える方法も再編されていったと理解しましょう。

知行の大きさは家臣の立場や軍役にも関係した

あけぼの

家臣が持つ知行の規模は、その家が負担する軍役とも関係していました。ただし、「何石なら何人」という全国共通の基準があったわけではありません。

軍役(ぐんえき)とは、主君のもとで家臣が負担する軍事上の役目を指します。

合戦が始まると、家臣は自身の立場や負担に応じて、家臣・従者・足軽などを伴って出陣する場合がありました。

多くの人員を連れていけば、武器や防具だけでなく、食料や馬なども必要になります。

そのため、家臣がどれほどの経済基盤を持っているかは、どの程度の軍事的負担を担えるのかとも関係していました。

ただし、戦国時代の軍役には大名家ごとの違いがあります。

「100石なら必ず何人を出す」といった全国共通の規則が存在したわけではありません。

また、戦国時代には土地や収益を評価する方法として、石高だけでなく貫高などが使われた地域や大名家もありました。

その後、戦国時代後期から織豊期にかけて、土地の生産力を石高で把握する方法が広がっていきます。

知行と軍役を一緒に考えると、戦国武将の軍事活動が、土地や収入という経済的な基盤に支えられていたことが分かります。

これだけは覚えよう

知行は家臣の生活費だけではなく、武士として活動し、家臣や従者を養い、軍役などを果たすための経済基盤でもありました。

知行から収益を得る
↓
家を維持する
↓
人員や装備を整える
↓
軍役などを果たす

というつながりを押さえておきましょう。

ただし、知行や軍役の具体的な仕組みは、大名家・地域・時期によって異なります。

主君はなぜ家臣に知行を与えた?

大名から見た知行は、家臣に与える単なる「ご褒美」ではありません。功績に報いるとともに、家臣団を維持して領国を支配するためにも重要でした。

武将と大名のしくみ

戦国大名が広い領国を一人で統治することはできません。

そこで家臣の所領を認めたり、新しい知行を与えたりしながら、軍事や地域支配を担わせました。

知行には、家臣への「恩賞」と、家臣団を組織・維持するための「政治的な仕組み」という両面があったのです。

知行は家臣の働きに報いるために与えられた

あけぼの

合戦などで功績を挙げた家臣には、新たな知行が与えられることがありました。戦功は名誉だけでなく、武士の家を成長させる機会にもなったのです。

戦国時代の合戦で家臣が大きな功績を挙げると、主君がその働きを評価することがありました。

功績を認めるために発給された文書の一つが感状(かんじょう)です。

さらに、新しい土地についての知行などが恩賞として与えられる場合もありました。

しかし、ここで重要になるのが「どこから恩賞を用意するのか」という問題です。

主君が家臣へ新しい知行を与えるためには、そのもとになる土地や収益を確保しなければなりません。

勢力を拡大して新しい地域を支配すれば、家臣へ配分できる知行が増える可能性があります。

反対に、戦争に敗れて領地を失えば、家臣への恩賞を十分に用意できなくなる場合もあります。

このため、戦国大名による領土拡大は、大名自身の勢力を大きくするだけの問題ではありませんでした。

家臣の功績に報い、その家臣団を維持することとも結びついていたのです。

ただし、「敵を倒せば必ず土地がもらえる」という単純な成果報酬ではありません。恩賞の内容は主君側の事情や家臣の立場によって異なりました。

家臣は知行を受ける代わりにどんな役目を負った?

家臣は知行という経済的な基盤を得る一方、主君のもとでさまざまな役目を担いました。合戦だけが戦国武士の仕事ではありません。

代表的な役目の一つが軍役です。

主君から出陣を命じられれば、家臣は必要な人員や装備を整え、軍勢に加わりました。

しかし、戦国武士が担った仕事は戦場で戦うことだけではありません。

城や拠点の守備、領内の警備、使者、築城や道路整備などの普請、地域支配に関わる仕事を命じられることもありました。

知行と役目の関係を「目的・方法・結果」で整理してみましょう。

項目内容
目的家臣が継続して活動できる経済基盤を整える
方法所領を安堵したり、新しい知行を与えたりする
結果家臣が軍事・行政・地域支配などの役割を担う

ただし、これは現代の「仕事をした分だけ給与を受け取る」という雇用関係とは異なります。

主君と家臣との関係には、家の由緒、以前から持っていた所領、地域の政治関係なども影響しました。

「知行を与えられたから、主君の命令には何でも従う」という単純な関係ではなかったことも覚えておきましょう。

合戦で活躍すると知行が増えることもあった

あけぼの

合戦で大きな功績を挙げた武士が、新たな知行を与えられることはありました。しかし、活躍すれば必ず土地が増える仕組みではありませんでした。

主君にとって、家臣の戦功を適切に評価することは重要でした。

功績を認めてもらえなければ、家臣に不満が生じる可能性があります。

そこで、功績を確認したうえで感状を発給したり、状況に応じて新しい知行を与えたりしました。

一方、新しい知行を与えるには、主君側にも配分できる土地や収益が必要です。

敵から獲得した地域を恩賞として与えるのであれば、まずその地域を実際に支配しなければなりません。

さらに、同じ土地について複数の武士が権利を主張すれば、家臣同士の争いにつながる可能性もあります。

したがって、大名に必要だったのは、単に「活躍した家臣へ土地を配る」ことだけではありません。

家臣の功績を判断し、土地の権利関係を調整し、実際に収益を得られる状態にすることも重要でした。

知行という視点から見ると、戦国時代の合戦が軍事だけではなく、土地・収益・主従関係を巻き込んだ政治活動だったことが分かります。

知行を通じて大名は家臣団をまとめていった

あけぼの

戦国大名は、既存の所領を認めたり、新しい知行を与えたりしながら家臣との関係を築きました。知行は領国をまとめる政治手段でもありました。

家臣団には、古くから大名家に仕えてきた家臣だけでなく、勢力拡大の過程で従うようになった武士もいました。

なかには、自分の領域や家臣を持ち、地域社会に強い基盤を築いていた国衆もいます。

こうした武士たちをまとめるため、大名は家臣が以前から持っていた所領を安堵したり、新たな知行を宛行ったりしました。

一方、大名が家臣の知行地を変更したり、新しい支配方法を導入したりする場合もあります。

しかし、戦国大名が領国内の土地を最初から自由自在に配分できたわけではありません。

地域に強い基盤を持つ国衆などとの間では、交渉や対立が生じることもありました。

そのため、知行を調べることは、単に「武将が何石もらったのか」を知るだけではありません。

大名がどのように家臣の権利を認め、ときには再編しながら、自らの領国へ組み込んでいったのかを考えることにつながります。

知行は、戦国大名による領国支配の仕組みを理解するうえでも重要な手がかりなのです。

これだけは覚えよう

主君にとって知行は、家臣への恩賞であると同時に、家臣団を維持し、軍事や領国支配を担わせるための重要な仕組みでした。

家臣の働きを評価する
↓
所領を安堵・知行を宛行う
↓
家臣の経済基盤になる
↓
軍事・領国支配などを担う

という関係を押さえておきましょう。

ただし、大名が領国内の土地をすべて自由に配分できたわけではなく、地域の事情や家臣との関係も重要でした。

戦国時代の知行はその後どう変わった?

戦国時代後期から豊臣政権、さらに江戸時代へ進むにつれて、土地と収益を把握する方法も変化しました。その鍵になるのが検地と石高です。

武将と大名のしくみ

豊臣政権による検地の進展は、土地の生産力を石高によって把握する仕組みが広がるうえで大きな意味を持ちました。

その後の江戸時代には、石高が大名や武士の領地・知行などを表す重要な尺度として広く用いられるようになります。

豊臣政権の検地で土地と石高が把握されていった

あけぼの

豊臣秀吉の時代には各地で検地が進められ、田畑の面積や等級などを調べて、生産力を石高によって把握する方法が広がっていきました。

豊臣秀吉が天下統一を進める過程で重要な意味を持った政策の一つが検地です。

検地では田畑の面積や土地の等級などを調査し、一定の基準によって土地の生産力を把握しました。

ここで注意したいのは、石高が「その年に実際に収穫された米の量」と完全に同じではないことです。

土地の生産力を米の量に換算して示した基準として考えると分かりやすいでしょう。

天正13年(1585年)の京都周辺では秀吉による検地が行われ、その後には知行宛行状も発給されました。

検地を「目的・方法・結果」で整理すると、次のようになります。

項目内容
目的土地と収益の基盤を把握する
方法田畑を調査し、生産力などを一定の基準で評価する
結果土地や知行を石高で把握する仕組みが広がる

ただし、いわゆる太閤検地が全国で同じ時期に、まったく同じ方法で一斉に行われたわけではありません。

地域や実施時期による違いを意識しながら理解することが大切です。

「○万石」という石高と知行はどう関係する?

あけぼの

戦国時代末から近世になると、「○石」「○万石」という数字が大名や家臣の経済規模を示す重要な尺度になります。知行も石高で表されるようになります。

石高とは、土地の生産力を米の量に換算して表した数値です。

歴史ドラマなどで「10万石の大名」という表現を聞いたことがある方も多いでしょう。

これは、その大名が毎年10万石の米を実際に倉へ収納していた、という意味ではありません。

領地の生産力を「石」という単位によって評価したものです。

土地や知行を石高で数値化すると、異なる地域の経済的な規模を共通する尺度によって表しやすくなります。

また、近世になると石高は、大名や家臣が持つ知行の規模だけでなく、軍役などの負担とも関係する重要な基準となっていきました。

現代風にいえば、石高は実際に手元へ入る「給料」ではなく、領地や知行が持つ経済的な規模を示すための物差しに近いものです。

したがって、「知行1000石」と書かれていても、毎年1000石の米をそのまま受け取るという意味ではありません。

知行と石高は同じ言葉ではありませんが、近世へ向かう過程で両者は深く結びついていったのです。

江戸時代には「地方知行」と「蔵米知行」が使われた

あけぼの

江戸時代になると、武士を経済的に支える仕組みはさらに制度化されます。知行地から収益を得る方法と、主君側から米などを受け取る方法がありました。

地方知行とは、家臣に一定の知行地を与え、その土地から年貢などの収益を得させる方式です。

一方、特定の土地から直接年貢を得るのではなく、主君側から米などを支給される武士もいました。

江戸幕府の幕臣では、知行所から年貢を徴収する者を「知行取」、幕府から蔵米を受け取る者を「蔵米取」と呼びました。

そのため、見出しにある蔵米知行という言葉は地方知行と対比して仕組みを理解するには便利ですが、幕臣について具体的に説明する場合は「蔵米取」「蔵米支給」と区別する方が正確です。

また、江戸幕府の旗本・御家人と、全国の諸藩の家臣制度がすべて同じだったわけでもありません。

地方知行が維持された地域もあれば、蔵米などによる給付が広がった地域もありました。

戦国時代の知行が、そのまま江戸時代へ残ったと考えるのではなく、近世社会の成立とともにさまざまな形へ再編されたと理解しましょう。

戦国時代の知行は江戸時代の武士社会へどうつながった?

あけぼの

戦国期の知行は、豊臣政権による検地や石高制の展開を経ながら、近世の武士社会を支える仕組みへとつながっていきました。

戦国時代には、大名家によって知行・土地支配・軍役のあり方にさまざまな違いがありました。

その後、豊臣政権による検地が各地で進められ、土地の生産力を石高によって把握する方法が広がっていきます。

さらに江戸時代になると、大名や旗本、諸藩の家臣などの領地・知行・俸禄を石高で表すことが一般的になりました。

大きな流れを年表にすると、次のようになります。

時期知行をめぐる大きな流れ
戦国時代所領や知行を経済基盤として家臣が活動。仕組みは大名家・地域によって異なる
織豊期各地で検地が進み、土地支配や知行の再編が進展
天正13年
(1585年)
京都周辺で秀吉の検地が行われ、検地後に知行宛行状が発給される
江戸時代石高が領地・知行を示す重要な尺度となり、地方知行や蔵米支給などが展開

ただし、この変化は全国で一様に、一直線に進んだわけではありません。

近世になっても地方知行のあり方には地域差があり、各藩の政治・社会構造によって異なる制度が展開しました。

知行の変化を追うことで、戦国武将の主従関係が江戸時代の武士社会へどのように再編されていったのかが見えてくるのです。

これだけは覚えよう

戦国時代の知行を理解したら、豊臣政権の検地、石高、そして江戸時代の知行制度まで一つの流れとして見てみましょう。

戦国期の所領・知行
↓
豊臣政権による検地の進展
↓
石高による土地・知行把握の拡大
↓
江戸時代の知行・俸禄制度

という大きな流れがあります。

ただし、全国が同時に同じ制度へ切り替わったわけではなく、地域や大名家による違いがありました。

知行とは?まとめ

そもそも「知行」とは何?

知行は、単純に「主君から土地をプレゼントされること」ではありません。一定の土地や、そこから生じる収益を支配・取得する権利と深く関係する言葉です。

戦国時代には、家臣が以前から持っていた所領を主君が認める場合も、新しい知行を与える場合もありました。

現代の土地所有権とは異なるため、「土地そのもの」ではなく「土地・収益・支配に関する権利」という視点を持つと、戦国時代の知行を理解しやすくなります。

戦国時代の家臣は知行から何を得ていた?

家臣は知行地から得られる年貢などを経済的な基盤として、自分や家族だけでなく、家臣や従者を養い、武具などを整えました。

そのため、知行を現代の「給料」とだけ考えるのは十分ではありません。武士の家を維持し、軍役などを果たすための財源でもありました。

ただし、知行の与え方や軍役との関係は大名家・地域・時期によって異なり、戦国時代に全国共通の一律な制度が存在したわけではありません。

主君はなぜ家臣に知行を与えた?

大名にとって知行は、家臣の功績に報いる恩賞であると同時に、家臣団を組織・維持するための重要な手段でした。

主君が所領を安堵したり、新しい知行を与えたりすることで、家臣は経済基盤を確保し、軍事や領国支配などの役割を担います。

一方、有力家臣や国衆が独自の地域基盤を持つ場合もあり、大名がすべての土地を自由に配分できたわけではありません。知行を見ることは、大名と家臣の力関係を見ることにもつながります。

戦国時代の知行はその後どう変わった?

戦国時代後期から豊臣政権の時代には検地が進められ、土地の生産力を石高によって把握する方法が広がりました。

江戸時代になると、知行や俸禄を石高で表す仕組みが広く用いられ、知行地から年貢を得る方法だけでなく、蔵米などによる給付も行われました。

ただし、戦国時代から江戸時代へ一度に制度が切り替わったわけではありません。知行・検地・石高を連続して見ることで、戦国社会から近世社会への変化が理解しやすくなります。

参考史料・参考文献

一次史料・近世史料

東京大学史料編纂所 『入来院家文書』関連史料

島津氏などが発給した知行充行状・安堵状などを確認できます。永禄2年(1559年)12月23日付の島津貴久知行充行状や、慶長5年(1600年)10月10日付の島津義弘知行充行状も掲載されています。 東京大学ハイテクノロジーセンター

東京大学史料編纂所 『大日本史料』第十一編之二十三

天正13年(1585年)の京都周辺における羽柴秀吉の検地と、検地後に一斉発給された知行宛行状を確認するために参照しました。 東京大学ハイテクノロジーセンター

国立公文書館 『官府御沙汰略記』

江戸幕府の幕臣における知行取と蔵米取の違いや、蔵米の支給方法を確認するために参照しました。 国立公文書館

研究書・参考文献

村田修三 「戦国大名の知行制について―最近の先学の成果に学ぶ」

『歴史評論』293号、1974年、61~71頁。戦国大名の知行制について、研究史を確認するための参考文献です。 国立国会図書館サーチ(NDLサーチ)

安良城盛昭 『太閤検地と石高制』

NHKブックス93、日本放送出版協会、1969年7月刊。太閤検地と石高制の関係を考えるための研究書です。 CiNii

鈴木寿 『近世知行制の研究』

日本学術振興会、1971年。近世の知行制度について確認するための研究書です。 国立国会図書館サーチ(NDLサーチ)

高野信治 『近世地方知行制の比較史的研究』

1993~1994年の科学研究費補助金研究成果報告書です。近世の地方知行を地域差も含めて考えるために参照できます。 国立国会図書館サーチ(NDLサーチ)

Webサイト・公的機関の解説

東京大学史料編纂所「大日本史料第十一編之二十三」

天正13年(1585年)の京都周辺の検地と、検地後に秀吉の知行宛行状が一斉に発給されたことを確認できます。 東京大学ハイテクノロジーセンター

国立公文書館「旗本御家人―官府御沙汰略記」

江戸幕府の旗本・御家人における知行取と蔵米取について確認できます。知行取はおおむね500石以上の旗本で、それ以下の幕臣では蔵米取が多かったことも解説されています。 国立公文書館

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