企画展「長宗我部元親の城づくり」が開催!

戦国史トピックス

長宗我部元親の城づくりとは?企画展から四国侵攻の実像を読み解く

土佐の一領主から四国有数の戦国大名へ成長した長宗我部元親。その勢力拡大を支えたのは、合戦における強さだけではありませんでした。進出先の城を確保し、竪堀や堀切などを整え、軍勢と物資を動かす拠点網を築いたことも重要です。

高知県立歴史民俗資料館で開催される企画展「長宗我部元親の城づくり―四国制覇に向けて―」では、縄張図や出土資料から元親の四国侵攻を読み直します。「四国制覇」という有名な言葉の実像にも迫ってみましょう。

読了時間:約14分

目次

企画展「長宗我部元親の城づくり」の開催概要

元親が関わった四国各地の城を縄張図や出土品から比較し、城づくりと勢力拡大の関係を紹介する企画展です。

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企画展「長宗我部元親の城づくり―四国制覇に向けて―」は、令和8年(2026年)10月23日から令和9年(2027年)1月11日まで開催されます。

会場は、元親の本拠だった岡豊城(おこうじょう)跡に位置する高知県立歴史民俗資料館です。城の縄張図、写真、発掘調査で見つかった出土品などを通して、長宗我部勢が四国各地の城を利用・改修しながら進出した可能性を探ります。

高知県立歴史民俗資料館で開催

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元親の本拠・岡豊城跡に立地する博物館で、展示資料と実際の山城遺構をあわせて見学できます。

高知県立歴史民俗資料館は、高知県南国市岡豊町八幡にあります。企画展の会期は令和8年(2026年)10月23日から令和9年(2027年)1月11日まで、開館時間は午前9時から午後5時までです。入館は午後4時30分までとなり、12月27日から1月1日までは年末年始の休館期間です。

観覧料は大人700円、20人以上の団体は560円です。高校生以下、高知県・高知市の長寿手帳所持者、対象となる各種手帳の所持者と介護者1人などは無料と案内されています。

同館が建つ岡豊山には、元親の本拠だった岡豊城の遺構が残ります。展示室で縄張図や出土品を見てから城跡を歩けば、曲輪や堀が地形とどのように結び付いていたのかを実感できます。開催情報は変更される場合があるため、来館前には公式サイトをご確認ください。

縄張図・出土資料・復元イラストを展示

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古文書の記述だけに頼らず、城の構造や発掘された遺物から元親の軍事行動を読み解く点が本展の特徴です。

展示の中心となるのは、縄張図、城跡の写真、発掘調査で確認された遺物です。縄張図とは、曲輪、土塁、堀切、横堀、竪堀、虎口など、城を構成する防御施設の配置を示した図面です。複数の城を同じ視点から比較すると、地域ごとの違いや共通する築城方法が見えてきます。

注目される資料の一つが、岡豊城跡から出土した「天正三年銘瓦」です。天正3年(1575年)という年が刻まれた瓦は、元親が土佐統一を進めた時期の城の姿を考える重要な手掛かりとなります。

本展では、生成AIを利用した城郭想像復元イラストも公開されます。ただし、復元図は残された遺構や研究成果から推定した当時の姿であり、写真のような確定的記録ではありません。根拠となった縄張図、地形、出土資料と見比べることが大切です。

城郭研究を深掘りする講演会と講座

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会期中には岡豊城と浦戸城、岐阜城との比較、南予進出、外交戦などを扱う関連講座も予定されています。

企画展に関連して、長宗我部氏の築城を多方面から学べる講演会と講座が用意されています。11月1日には「長宗我部氏と豊臣氏の築城―岡豊城と浦戸城―」、11月3日には「長宗我部元親の四国制覇と城づくり」が開催される予定です。

11月14日の「岐阜城と岡豊城」では、織田信長の本拠と元親の本拠を比較します。11月23日の「長宗我部氏の南予進出」は、伊予南部への勢力拡大を城郭から考える内容です。12月19日には、原文書を用いて阿波・讃岐・伊予の土佐方武将を読み解く外交戦の講座も予定されています。

専門家の解説を聞けば、城跡のどこに注目すべきか、縄張図から何が分かるのかをより深く理解できます。関連企画には定員や申込方法が設定されているため、参加する場合は公式ページで最新情報をご確認ください。

長宗我部元親はどのように城を利用した?

元親にとって城は身を守るだけの施設ではなく、占領地を維持し、軍勢や物資を動かすための支配拠点でした。

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長宗我部元親は、父・国親の死後に家督を継ぎ、岡豊城を中心として勢力を拡大しました。敵方の城を攻め落としただけでは、その地域を継続的に支配できません。

城を整備して家臣を置き、街道や河川、峠、港を押さえることで、軍勢の移動、物資の輸送、周辺勢力の監視が可能になります。元親の城づくりは、戦場の防御と領国支配を結び付けた政策だったと考えられます。

岡豊城を拠点に土佐統一を進めた

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高知平野を見渡せる岡豊山の本拠は、元親が土佐各地へ軍勢を送り出す政治・軍事拠点となりました。

岡豊城は、高知平野北辺の国分川に面した標高約94メートルの岡豊山に築かれた山城です。山頂部には「詰」と呼ばれる中心曲輪をはじめ、二ノ段、三ノ段、四ノ段などが配置されました。曲輪とは、斜面を削って造った、兵士や建物を置くための平坦な区画です。

元親は永禄3年(1560年)に父・国親の跡を継ぎ、土佐国内の国人や有力勢力との戦いを進めました。天正3年(1575年)には土佐統一を実現したとするのが一般的な理解です。ただし、地域によって服属時期や支配の深さには違いがありました。

岡豊城は土佐中央部に位置し、東西へ延びる交通路や高知平野を見渡せます。籠城するためだけの施設ではなく、領主の居館、政務、軍勢の集結、物資の管理など、複数の機能を備えた本拠だったと考えられます。

阿波・讃岐・伊予への進出拠点を確保

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土佐統一後の元親は国境の峠や街道、河川交通を意識し、四国各地の城を結ぶように勢力を広げました。

阿波・讃岐・伊予へ進出するには、軍勢が国境を越え、兵糧や武器を継続して運べる経路を確保しなければなりません。山地の多い四国では、主要街道、峠、河川流域、港などを監視できる場所に築かれた城が重要でした。

長宗我部勢は敵方の城を攻略すると、そのまま利用するだけでなく、防御施設を追加して再構築した可能性が指摘されています。そこへ家臣や味方の武将を置けば、後方との連絡を保ちながら、さらに先の地域へ進出できます。

城は前線基地であると同時に、攻略した地域を長宗我部方へ組み込むための支配拠点でした。

ただし、どの城を元親が直接設計し、どこまで長宗我部勢が改修したのかは、城ごとに検討する必要があります。似た遺構があるという理由だけで、すべてを元親の築城と断定することはできません。

「長宗我部流」の防御施設とは?

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四国の城跡で確認される堀切や竪堀群などの共通性から、長宗我部勢による改修の痕跡が研究されています。

企画展の公式解説では、長宗我部勢が関わった四国各地の城に、「長宗我部流」ともいえる防御施設が確認されつつあると説明されています。その代表例として注目されるのが、堀切、竪堀、横堀、土塁などです。

堀切は、尾根を横断するように掘り下げ、敵が尾根伝いに近づくのを防ぐ施設です。竪堀は山の斜面に沿って上下方向へ掘られ、敵兵の横移動や回り込みを難しくします。竪堀を何本も並べた施設は、畝状竪堀群と呼ばれます。横堀は斜面とほぼ平行に設けられ、敵の進路を制限しました。

もっとも、これらの施設は長宗我部氏だけが使用したものではなく、西日本を中心とする多くの山城で確認されています。「長宗我部流」という表現は、特定の設備だけを指すのではなく、施設の組み合わせ方、配置、年代、分布を比較するための研究上の視点として理解するのが適切です。

城郭研究が見直す元親の「四国制覇」

城跡に残された堀や土塁を調べることで、記録の少ない地域でも長宗我部勢が進出した可能性を検討できます。

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城郭考古学では、地表に残る遺構の観察、縄張図の作成、発掘調査、出土品の年代判定などを組み合わせます。長宗我部氏の四国進出には、文書だけでは経路や時期を確定しにくい地域があります。

そこで城跡の構造を比較し、どの段階で防御が強化されたのかを調べることにより、軍勢の移動や勢力圏の広がりを復元する研究が進められています。

岡豊城に残る横堀・土塁・竪堀群

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岡豊城には山頂の曲輪群だけでなく、斜面を利用した横堀、土塁、竪堀群などの防御施設が残されています。

国史跡・岡豊城跡の山頂部には、詰、二ノ段、三ノ段、四ノ段などの曲輪が連なります。その下の斜面には横堀、土塁、竪堀群、切岸が設けられています。切岸とは、敵が登りにくいよう、山の斜面を人工的に急角度へ削った防御施設です。

詳しくは、高知県立歴史民俗資料館の内容をご覧ください。

発掘調査では、礎石建物の痕跡、「天正三年」の文字を持つ瓦、石積みなども確認されています。これは、岡豊城が土を中心に築かれた中世山城の性格を残しながら、瓦葺き建物や石材を使う近世城郭の要素を取り入れていたことを示します。

岡豊城跡が平成20年(2008年)に国史跡へ指定されたのも、長宗我部氏が土佐から四国へ支配を広げ、やがて織豊政権へ組み込まれていく変化を伝える重要な城跡だからです。

岡豊城と織田信長の岐阜城に共通点?

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岡豊城の調査では岐阜城と共通する要素が指摘され、中央の築城文化が影響した可能性が検討されています。

企画展では、織田信長の岐阜城と岡豊城との共通性が取り上げられます。岡豊城では瓦や礎石建物、石積みなど、それまでの土造りの山城とは異なる要素が確認されました。こうした変化を、信長政権を中心に広がった新しい城郭文化との関係から考える視点です。

元親は四国内だけで活動していたわけではありません。信長と外交関係を築き、信長の死後には秀吉との対立と服属を経験しました。城は軍事施設であると同時に、領主の権威や中央政権とのつながりを示す政治的な舞台でもあります。

ただし、似た建築要素があるからといって、信長が岡豊城の設計を直接命じたと確認されたわけではありません。技術者の移動、政治的影響、模倣など複数の可能性があります。「共通点がある」という指摘と、「直接築かせた」という断定は区別しなければなりません。

四国全土を完全支配したとは断定できない

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元親は四国の大部分へ勢力を伸ばしましたが、全域を長期間にわたって安定統治したかどうかは慎重に考える必要があります。

長宗我部元親の四国制覇は、その生涯を象徴する言葉として知られています。元親は土佐統一後、阿波・讃岐・伊予へ進出し、天正13年(1585年)ごろには四国の大部分へ軍事的影響力を及ぼしました。しかし同年、豊臣秀吉による四国攻めを受けて降伏し、土佐一国の領有を認められます。

合戦で敵を破ること、城主を服属させること、城へ家臣を配置すること、検地や法令によって継続的に統治することは同じではありません。地域によって、長宗我部氏の支配の強さや継続期間には差がありました。

「四国制覇」は元親の急速な勢力拡大を分かりやすく表す言葉ですが、四国全域を一元的に統治したという意味に受け取るのは適切ではありません。本展は、その実態を文献と城郭遺構の両面から考え直す機会になります。

まとめ

企画展の内容と城郭研究の成果を振り返り、元親の城づくりから分かる四国進出の要点を三つに整理します。

長宗我部元親の勢力拡大は、戦場での勝利だけでは説明できません。岡豊城を本拠として各地の城を確保し、街道や峠、河川、港を結ぶ軍事的な拠点網を築いたことが重要でした。

本展は縄張図、出土資料、文献史料を組み合わせることで、元親の四国侵攻と「四国制覇」の実態を再検討する企画です。

①企画展では城から元親の四国進出を学べる

縄張図、出土品、写真、復元イラストを通して、長宗我部勢が城を利用しながら進出した過程を学べます。

企画展「長宗我部元親の城づくり」は、令和8年(2026年)10月23日から令和9年(2027年)1月11日まで開催されます。会場は岡豊城跡に位置する高知県立歴史民俗資料館です。

展示室で天正三年銘瓦や縄張図などを見たあと、実際の山城遺構を歩けば、資料と地形を結び付けて理解できます。城郭研究に関する講演会や講座も予定されています。

②城は占領地を維持する支配拠点だった

城は敵を防ぐ施設であるとともに、軍勢や物資を動かし、攻略した地域を維持するための拠点でした。

岡豊城を出発点とした元親の勢力拡大では、進出先の城を確保することが重要でした。城へ家臣を配置し、防御施設を整えれば、周辺の監視、兵糧の保管、軍勢の集結、街道の支配が可能になります。

堀切、竪堀、横堀、土塁などを組み合わせた山城は、元親の四国進出を支える軍事・統治ネットワークの一部だったと考えられます。

③「四国制覇」の実態は研究が続いている

元親は四国の大部分へ勢力を広げましたが、全地域を安定して支配したとまでは言い切れません。

「四国制覇」は元親の功績を象徴する分かりやすい言葉です。一方、城の攻略、武将の服属、家臣の配置、年貢徴収などでは、支配の意味や強さが異なります。城跡の分布と文書を照合する研究によって、長宗我部勢の侵攻経路や支配範囲が少しずつ明らかになっています。

本展の重要な意義は、英雄伝説を否定するのではなく、その内実を具体的に考え直せる点にあります。

参考資料

開催情報と展示内容は主催館の公式発表を優先し、岡豊城の構造や元親の生涯は文化庁・自治体等の解説で確認しました。

本記事では、企画展の公式ページとチラシを中心に、文化庁の国指定文化財等データベース、高知県立埋蔵文化財センター、高知市などの公的情報を参照しました。

展示内容、関連企画、休館日、料金などは変更される場合があります。来館を予定する場合は、高知県立歴史民俗資料館の最新情報をご確認ください。

Webサイト・公的機関の解説

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