津城跡で犬走りを確認!発掘で見えた城の構造と歴史的意義
三重県津市の津城跡で行われた発掘調査により、本丸石垣の裾に設けられた「犬走り(いぬばしり)」と、内堀の石垣が確認されました。津城で使用されていた瓦も出土しています。
特に注目されるのは、江戸時代の絵図に描かれていた犬走りが、実際の遺構として確認されたことです。犬走りの幅も約4.5メートルあり、絵図に表された津城の構造が、発掘成果によって裏付けられました。
ところで、犬走りとは、いったい何のために造られた場所なのでしょうか。そして、今回の発見は、津城を築いた織田信包や、大改修を行った藤堂高虎の城づくりを考えるうえで、どのような意味を持つのでしょうか。発掘調査の成果と津城の歴史を、初心者にも分かりやすく解説します。
読了時間:約16分
津城跡の発掘調査で何が見つかった?
津城跡の本丸南側では、史跡と公園の整備に先立って発掘調査が行われました。地中から現れたのは、かつての津城の輪郭を伝える貴重な遺構です。
津市教育委員会は、2026年8月3日から津城跡の南東広場で発掘調査を行いました。調査では、本丸石垣の基底部、その外側に延びる犬走り、さらに内堀北端の石垣が確認されています。
津城に葺かれていた瓦も出土し、8月29日に開催された現地説明会で遺構とともに公開されました。調査は新たな公園・史跡整備の基礎資料を得るためのもので、確認された成果は今後の津城跡の保存と活用に反映される予定です。
本丸南側で石垣の基底部を確認
あけぼの発掘調査では、地上に見えている本丸石垣の下から、石垣を支える基底部が確認されました。城の石垣がどの位置から積み上げられていたのかを知る手掛かりです。
基底部とは、石垣の最も下に位置する部分です。石垣は地表に見える石だけで成り立っているのではなく、地盤を整えたうえで根石となる石を据え、上部の重量を支えています。そのため、基底部の位置や造りを調べることは、石垣の本来の高さや築造方法を考えるうえで欠かせません。
現在の津城跡では、本丸や西之丸の石垣が地上に残っています。しかし、明治時代以降の公園整備や周辺の市街地化によって地面の高さや景観が変わり、築城当時の石垣の裾が見えにくくなっていました。
今回、石垣の基底部とその外側の遺構が一緒に確認されたことで、本丸石垣と犬走り、内堀がどのような位置関係にあったのかを、現地の遺構から具体的に検討できるようになりました。
幅約4.5メートルの犬走りが出土
あけぼの石垣の基底部に沿って、「犬走り」と呼ばれる細長い平坦地が確認されました。その幅は約4.5メートルあり、江戸時代の絵図とほぼ一致していました。
今回確認された犬走りは、本丸南側の石垣と内堀との間に設けられていました。三重テレビの報道によると、現地で説明した津市職員は、犬走りの幅が約4.5メートルあり、江戸時代の絵図に描かれた内容と一致したことを大きな成果として挙げています。
古い絵図は、失われた城の構造を知るための重要な史料です。ただし、測量図とは限らず、用途に応じて形や大きさが省略・強調されている場合もあります。そのため、絵図に描かれているだけでは、実際の位置や規模を確定できません。
今回は、絵図と地中の遺構を照合し、犬走りが存在した場所と幅を確かめられました。紙に残された情報と考古学的な証拠が結び付いた点に、この発見の大きな価値があります。
内堀北端の石垣と津城の瓦も発見
あけぼの犬走りの外側からは、かつて本丸を囲んでいた内堀の石垣も確認されました。さらに、津城の建物に葺かれていたとみられる瓦の一部も出土しています。
津城の内堀は、江戸時代には本丸や西之丸などを囲んでいました。しかし、明治維新後にその大半が埋め立てられ、現在では本丸北側から西之丸周辺などに一部が残るだけです。今回発見された石垣は、埋め立てられた内堀の北端、すなわち本丸側の岸がどこにあったのかを示す直接的な証拠となります。
瓦は、城内に瓦葺きの建物があったことを物語る遺物です。形状や文様、製作技法などを詳しく調べれば、作られた年代や城主の時代を推定できる場合があります。
ただし、津市の発表では瓦の年代や種類、どの建物で使用されたものかまでは示されていません。現段階では「津城に葺かれていた瓦が出土した」という確認済みの事実にとどめ、詳しい評価は今後の整理・分析を待つ必要があります。
「犬走り」とはどのような場所?
犬走りという言葉から、犬を走らせるための通路を想像するかもしれません。しかし城郭では、石垣や土塁などに沿って設けられた細長い平坦地を指します。
犬走りは、城によって場所・幅・構造が異なります。その目的についても、石垣の維持管理や安定性、城内外の移動など、遺構ごとに検討しなければなりません。
津城の場合は、本丸石垣の外側と内堀との間に設けられていました。今回の調査によって、その幅や内堀石垣との位置関係が明らかになり、絵図だけでは分からなかった実際の姿が見えてきました。
犬を走らせるための通路ではない
あけぼの「犬走り」は、犬専用の通路という意味ではありません。一般には、建物・石垣・土塁などに沿って細長く延びる、幅の狭い平坦な空間を表す言葉です。
犬走りという名称の由来には、「犬が通れるほどの狭い場所」という説明がありますが、すべての犬走りが文字どおり犬一匹分の幅だったわけではありません。津城で確認された犬走りは約4.5メートルもあり、人が十分に移動できる広さでした。
城郭における犬走りは、石垣と堀の間や、土塁の内側・外側などに設けられることがあります。ただし、同じ名前で呼ばれていても、その形や役割が全国一律だったとは限りません。
今回の発見についても、「兵士が移動するための通路だった」「防御のために設けられた」といった説明だけで用途を断定するのは慎重であるべきです。津城における役割は、石垣や堀との関係、城絵図、ほかの調査区の成果を総合して考える必要があります。
石垣と内堀の間に設けられた平坦地
あけぼの津城の犬走りは、本丸の石垣と内堀との間にありました。「本丸石垣、犬走り、内堀石垣、水堀」という順番で配置されていたと考えると分かりやすいでしょう。
現在の津城跡を歩いただけでは、本丸南側にかつて広い内堀があったことや、その岸辺に犬走りが延びていたことを想像するのは簡単ではありません。堀の多くが埋め立てられ、地上は公園や市街地として利用されているからです。
しかし地面を掘り下げると、現在見えている本丸石垣の裾、その外側の平坦面、さらに内堀との境界を示す石垣が順番に現れました。これは、津城本丸の外周構造を一続きの遺構として捉えられる重要な成果です。
犬走りだけを単独で見るのではなく、石垣と堀をつなぐ場所として考えることで、城が平面的な縄張図だけではなく、高低差を持つ立体的な防御施設だったことも理解できます。
犬走りにはどのような役割があった?
あけぼの犬走りの役割としては、石垣の維持管理、排水、地盤の安定、作業や移動のための空間などが考えられます。ただし、津城での用途はまだ確定していません。
石垣のすぐ下まで堀の水が迫る構造と比べると、石垣と堀の間に平坦面を設けることで、石垣の裾に一定の幅を持たせられます。石垣の点検や修理を行う際には、作業場所として利用できた可能性もあるでしょう。
一方、敵が上陸できる足場にもなり得るため、犬走りが広ければ必ず防御力が高まるとは限りません。城の防御機能を考える場合は、石垣の高さ、堀の幅や深さ、塀・櫓の配置なども含めて評価する必要があります。
津城の犬走りが約4.5メートルという広さを持っていた理由についても、今後の検討課題です。現時点では一つの機能に決めつけず、城の構造維持や運用に関わる空間だった可能性を紹介するのが適切です。
津城は誰によって築かれたのか
津城は一人の武将が完成させた城ではありません。織田信包が築いた城を富田氏が受け継ぎ、江戸時代初期に藤堂高虎が大規模に改修しました。
今回確認された犬走りについては、藤堂高虎の改修前、富田氏が城主だった時代に築かれた可能性が報じられています。それが正しければ、高虎による大改修以前の城の姿を伝える遺構ということになります。
津城の歴史を振り返ると、発掘された遺構が、織田・豊臣・徳川の時代をまたいで利用された城の一部であることが分かります。
織田信長の弟・織田信包が築いた津城
あけぼの津城は、伊勢国安濃津に築かれたことから「安濃津城」とも呼ばれます。現在につながる本格的な城郭を築いたのは、織田信長の弟・織田信包です。
津市の整備活用計画では、津城は天正8年(1580年)ごろ、織田信包(おだ のぶかね)によって創建されたと説明されています。信包は、信長による伊勢支配を支えた武将で、伊勢湾に近い交通上の要地に城を整備しました。
ただし、織田信包が入る以前にも、同地には細野氏の城館があったとされています。そのため、「津城の起源」と「近世城郭へつながる本格的な築城」を分けて考える必要があります。
信包の時代には、本丸・二之丸・三之丸などが整えられ、天守も築かれたと伝わります。現在の本丸には天守台や小天守台など、信包による築城当初の遺構と考えられている部分が残っており、津城には高虎の改修だけでは説明できない複数の築城段階があります。
富田氏の津城は関ヶ原の前哨戦となった
あけぼの織田信包が津を離れた後、文禄4年(1595年)に富田氏が津城へ入りました。富田知信と、その跡を継いだ富田信高の時代です。
慶長5年(1600年)、徳川家康と石田三成らの対立が深まると、東軍側についた富田信高(とみた のぶたか)の津城は、西軍による攻撃を受けました。「安濃津城の戦い」と呼ばれる、関ヶ原の戦いに先立つ攻防です。
津市の解説によると、毛利秀元を総大将とする西軍約3万人が津城を攻撃し、城内では富田勢に加えて津の住民も籠城戦に参加しました。激しい戦いの末、富田信高は城を明け渡しましたが、関ヶ原本戦で東軍が勝利すると再び津城主へ戻っています。
今回の犬走りが富田氏時代に築かれたものなら、実戦を経験した当時の津城の構造を考える手掛かりになる可能性があります。ただし、築造年代は今後の正式な調査報告を待つ必要があります。
藤堂高虎は既存の津城を大改修した
あけぼの慶長13年(1608年)、富田氏に代わって藤堂高虎が伊勢・伊賀へ入封しました。高虎は津城を居城とし、慶長16年(1611年)に大改修を行ったとされています。
高虎は宇和島城・今治城・伊賀上野城など、多くの城の築城や改修に関わった武将です。津城でも本丸を拡張し、内堀・外堀を整備するとともに、城下町の再編を進めました。三重県の文化財情報によると、本丸南側の石垣には、高虎が本丸を拡張した痕跡が明瞭に残されています。
ここで重要なのは、高虎が何もない場所に津城を一から築いたわけではないことです。織田信包や富田氏が整備した城を受け継ぎ、既存の縄張や石垣を利用しながら、津藩の本拠にふさわしい城へ造り替えました。
今回発見された犬走りが富田氏時代にさかのぼるなら、高虎がそれを残して利用したのか、改修を加えたのかという新たな問いも生まれます。
今回の発見が持つ歴史的意義
今回の成果で重要なのは、単に地中から石が見つかったことではありません。絵図に描かれた津城の構造を、実際の遺構によって確かめられたことです。
さらに、埋め立てられた内堀の位置や、高虎による大改修以前の城の姿を考える材料も得られました。津城が複数の城主によって段階的に造られた城であることを、考古学的に検討する手掛かりとなります。
今回の発掘は、城絵図・文献史料・地中の遺構を結び付け、失われた津城の姿を読み解く調査といえるでしょう。
江戸時代の絵図を遺構によって確かめた
あけぼの城絵図は、建物・石垣・堀・道などを知るための重要な史料です。しかし、描かれた目的や年代が異なるため、実際の姿をそのまま写したものとは限りません。
城の管理や工事のために作られた絵図もあれば、大名家の由緒を示すもの、幕府への提出を目的としたものもあります。方角や縮尺が正確な絵図もありますが、必要な情報だけを強調し、ほかの部分を簡略化した例もあります。
そのため、絵図に犬走りが描かれていても、それだけで正確な幅や位置まで確定することはできません。発掘調査によって同じ位置から平坦面が現れ、約4.5メートルという幅が絵図の内容と一致したことで、史料の信頼性を具体的に検証できました。
歴史研究では、文献だけ、遺跡だけを見るのではなく、性質の異なる証拠を照合することが大切です。今回の成果は、その過程を初心者にも分かりやすく示してくれます。
埋め立てられた内堀の位置が明らかになった
あけぼの明治維新後、津城の建物は取り壊され、外堀のすべてと内堀の大半が埋め立てられました。城跡の周囲には道路や官公庁、商店などが造られ、近代的な市街地へ変化しています。
現在のお城公園には本丸や西之丸の石垣、内堀の一部が残っていますが、江戸時代の城域は現在よりもはるかに広いものでした。地表から失われた堀の位置を知るには、絵図・古地図と発掘調査を組み合わせなければなりません。
今回確認された内堀石垣は、堀の本丸側の岸がどこにあったのかを示します。犬走りの外端も分かったため、本丸石垣から内堀までの距離や高低差を復元するための基礎資料になります。
これは津城だけの問題ではありません。多くの平城は、廃城後に市街地として利用されました。現代の街の地下に城の遺構が残っていることを示す、都市遺跡ならではの発見でもあります。
藤堂高虎以前の津城を考える手掛かり
あけぼの津城といえば、築城の名手・藤堂高虎を思い浮かべる人が多いでしょう。しかし、津城の歴史は高虎の入城以前から続いています。
現在見られる石垣や縄張には、織田信包の築城、富田氏による利用、藤堂高虎の大改修、さらに後世の修理が重なっていると考えられます。城跡を一人の武将の作品として見るだけでは、その長い変遷を捉えられません。
三重テレビは、今回確認された犬走りについて、高虎の改修以前の城主である富田知信の時代に築かれたものと考えられていると報じています。この見解が今後の調査でも裏付けられれば、犬走りは富田氏時代の津城を知る貴重な遺構になります。
一方で、現段階では正式な発掘調査報告書が公開されていません。高虎による改修との関係も含め、断定せずに今後の研究成果を見守る必要があります。
津城跡は発掘成果を生かして整備へ
今回の調査は、津城跡を「歴史を体感できる場所」として整備する事業の一環です。発見された遺構は、保存したうえで今後の公園・史跡整備に生かされます。
津城跡は三重県指定史跡であると同時に、市民に親しまれてきた都市公園でもあります。歴史的価値を守りながら、子どもから大人まで利用しやすい場所にすることが整備の課題です。
発掘された犬走りや内堀石垣は調査終了後に埋め戻されますが、見えなくなることは消滅を意味しません。土中で保存し、調査記録や説明板などを通じて成果を伝えることも、史跡を未来へ引き継ぐ方法です。
発掘された遺構はなぜ埋め戻される?
あけぼのせっかく発見した犬走りや内堀石垣を埋め戻すと聞くと、もったいないと感じるかもしれません。しかし、埋め戻しは遺構を守るために広く用いられる保存方法です。
石垣や土の遺構は、長い間地中にあることで一定の環境に保たれてきました。掘り出したまま屋外に置くと、雨水、乾燥、気温変化、植物の根、人の立ち入りなどによって傷む可能性があります。常時公開するには、排水設備や保護施設、安全対策と継続的な管理が必要です。
発掘調査では、遺構の位置・高さ・形状を測量し、写真や図面などの記録を残します。そのうえで保護材や土をかぶせて埋め戻せば、地中で遺構を保存できます。
将来、より進んだ技術や新しい研究課題に基づいて再調査できる可能性を残す意味でも、現地保存は重要です。
発掘成果は今後の公園整備に反映される
あけぼの津市教育委員会は、津城跡を子どもも大人も楽しみながら歴史を体感できる場所として整備する計画を進めています。今回の発掘成果も、その計画へ反映されます。
具体的な展示・表示方法は今後検討されますが、犬走りや内堀の位置を舗装の色や線で示す、解説板に絵図と発掘写真を掲載する、立体復元図で往時の姿を伝えるといった活用が考えられます。
遺構そのものが埋め戻されても、地上で位置や規模を体感できれば、訪れた人は現在の公園と江戸時代の津城を重ね合わせられます。特に約4.5メートルという犬走りの幅は、現地で実寸を示すことで理解しやすくなるでしょう。
史跡整備では、見栄えのよい建物を安易に再建するのではなく、調査で確認された事実に基づいて城の姿を伝えることが大切です。
続報では瓦の年代と築造時期に注目
あけぼの今回の発表は、発掘調査の速報に当たります。今後、遺構の測量結果や出土した瓦の整理が進めば、より詳しい情報が示される可能性があります。
瓦は、形や文様、焼き方、胎土などを調べ、ほかの遺跡から出土した年代の分かる瓦と比較することで、製作年代を絞り込める場合があります。瓦に家紋や特徴的な文様があれば、城主や建物との関係を考える材料にもなります。
犬走りについても、築かれた土の層、周囲から出土した遺物、石垣の積み方などを検討することで、富田氏時代とする年代観が補強される可能性があります。反対に、別の時期に築かれたり改修されたりしたことが分かるかもしれません。
正式な発掘調査報告書が刊行された際には、今回の記事へ追記し、速報段階の見解から何が更新されたのかを示すとよいでしょう。
まとめ
津城跡の発掘調査では、本丸南側から石垣の基底部、幅約4.5メートルの犬走り、内堀北端の石垣が確認され、城で使用されていた瓦も出土しました。
最大の成果は、江戸時代の絵図に描かれていた犬走りの存在と規模が、実際の遺構によって確かめられたことです。さらに、埋め立てられた内堀の位置や、藤堂高虎の大改修以前の津城を考える手掛かりも得られました。
津城は、織田信包が築いた城を富田氏が受け継ぎ、藤堂高虎が大改修した城です。今回の発見は、城が一人の名将によって一度に完成したのではなく、歴代城主による築城・利用・改修の積み重ねで形づくられたことを教えてくれます。
今後は、出土瓦の年代や犬走りの築造時期、高虎による改修との関係がどこまで明らかになるのかに注目です。

コメント