小栗忠順の功績と再評価|近代日本に受け継がれた遺産
1868年、小栗忠順は新政府軍に捕らえられ、十分な取り調べを受けないまま処刑されました。しかし、小栗が幕末に進めた横須賀製鉄所の建設は、明治政府へ引き継がれ、日本の造船業や海軍を支える基盤になります。
本人が「逆賊」と疑われた一方、その政策は新国家に活用されたのです。遺族のその後、横須賀に残された近代化の遺産、福沢諭吉や東郷平八郎にまつわる評価をたどりながら、小栗の名誉が回復されていった過程を見ていきましょう。
対象読者:歴史中級者
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主な登場人物と小栗家との関係
| 人物 | 小栗家との関係 |
|---|---|
| 小栗道子 | 小栗忠順の妻。身重のまま権田村を脱出した |
| 小栗国子 | 忠順の死後、会津で生まれた娘 |
| 三野村利左衛門 | 小栗家に仕えた経験を持つ実業家。遺族を経済的に支援した |
| 大隈重信 | 明治政府の要人。妻の綾子とともに国子を保護したと伝わる |
| 大隈綾子 | 重信の妻。小栗家と縁があり、国子の養育に関わった |
| ヴェルニー | 横須賀製鉄所の建設を指揮したフランス人技師 |
| 福沢諭吉 | 幕府の近代化政策を知る思想家。小栗を高く評価したとする言説が伝わる |
| 東郷平八郎 | 日露戦争時の連合艦隊司令長官。小栗の遺族に謝意を伝えたという逸話が残る |
小栗忠順の死後を生きた家族
小栗忠順が処刑されたとき、妻の道子は身重でした。遺族は新政府軍の追及を避けながら各地を移動し、忠順と縁のあった人々に支えられて生き延びました。

小栗の死は、一人の幕臣の最期だけでは終わりませんでした。家族も「旧幕府の有力者の遺族」という危うい立場に置かれたからです。道子らは権田村を離れて会津方面へ逃れ、逃避行の途中で多くの困難に直面します。
その後、小栗家を支えたのが、実業界で成功した三野村利左衛門でした。さらに道子の死後は、大隈重信・綾子夫妻が娘の国子を保護したと伝えられます。敵味方の区別を越えた人のつながりが、小栗家の存続を支えたのです。
権田村を脱出した遺族の逃避行
あけぼの小栗忠順の捕縛が迫るなか、身重だった妻の道子らは権田村を離れました。その行程は、新政府軍の進軍を避けながら山間部を進む過酷なものでした。
1868年、小栗が処刑される前後に、道子をはじめとする女性たちは権田村から脱出しました。同行者や正確な経路については資料によって細部が異なりますが、信濃国の秋山郷や越後方面を経て会津へ向かったと伝えられています。平坦な街道ではなく、山深い地域を選んだのは、新政府軍の目を避ける必要があったためでしょう。
道子は妊娠中であり、逃避行は身体的にも極めて厳しいものでした。やがて会津へ到着し、同年に娘の国子を出産します。国子という名前には、故郷や国の行く末に対する思いが込められたとも語られますが、命名の意味については確実な同時代史料で確認できないため、伝承として扱う必要があります。
会津も戊辰戦争の戦場となり、遺族に長期の安住は許されませんでした。その後、東京や静岡方面へ移り、最終的には小栗と縁の深かった人々の庇護を受けます。
小栗家の逃避行は、戊辰戦争が戦闘に参加した武士だけでなく、その妻子にも大きな負担を負わせたことを伝えています。
三野村利左衛門が小栗家を支援した理由
あけぼの小栗家の遺族に救いの手を差し伸べたのが、三井組の発展を支えた三野村利左衛門です。その支援の背景には、小栗への深い恩義がありました。
三野村利左衛門は、若いころ小栗家に奉公し、忠順と主従を越えた信頼関係を築いた人物です。その後、両替商として頭角を現し、幕府と三井組を結ぶ役割を担いました。三井広報委員会の解説でも、利左衛門が小栗家で働き、当時まだ無役だった忠順と親しい関係を築いたことが紹介されています。三井広報委員会「三野村利左衛門」
小栗は利左衛門の能力を認め、幕府財政に関わる仕事で活躍する道を開いたとされます。一方の利左衛門も、幕府の御用を通して信用を高め、明治期には三井の事業改革を主導しました。忠順の死後に遺族を支えたのは、かつて受けた恩に報いる意味が大きかったのでしょう。
後年編纂された『三野村利左衛門伝』などには、道子と国子が三野村家の庇護を受け、継続的な援助が行われたことが記されています。ただし、支援額を現在の金額へ換算した数字は、物価や賃金の比較方法によって大きく変わるため断定できません。
現代風にいえば、三野村の支援は一時的な見舞金ではなく、住居や生活費を含む長期的な生活保障に近いものでした。小栗が人を見る目によって育てた信頼が、死後に家族を守ったのです。
大隈重信と小栗家を結んだ縁
あけぼの道子の死後、娘の国子を支えたと伝えられるのが大隈重信・綾子夫妻です。そこには、小栗家と綾子の実家を結ぶ縁がありました。
大隈重信は、明治政府で財政・外交・教育などに携わり、のちに内閣総理大臣となった人物です。幕臣だった小栗とは政治的な所属が異なりますが、大隈自身も近代国家の制度づくりを進めた実務家でした。
国子の保護に深く関わったとされるのは、重信だけでなく妻の綾子です。綾子は旧幕臣の三枝家の出身で、小栗家と親族上のつながりがあったと伝えられています。1886年に道子が亡くなった後、国子は大隈夫妻の庇護を受けました。さらに夫妻は、国子の結婚や小栗家の家名継承にも力を貸したとされます。
ここで注目したいのは、小栗家への支援が、単純な「薩長新政府と旧幕府」という対立図式に収まらないことです。明治社会では、旧幕臣の人脈、婚姻関係、事業上の縁が複雑に結び付き、敗者の家族を支える場合がありました。
ただし、国子を正式な「養女」とした時期や法的な形、縁談成立までの詳しい過程は、伝記によって表現に差があります。「大隈夫妻が国子を保護し、小栗家の存続を助けた」という骨格と、後世に加えられた美談的な細部は分けて考える必要がありそうです。
これだけは覚えよう
- 小栗の妻・道子らは、権田村を脱出して越後・会津方面へ逃れました。
- 道子は小栗の死後に娘・国子を出産しました。
- 三野村利左衛門は、旧主である小栗への恩義から遺族を長期的に支援しました。
- 道子の死後、国子は大隈重信・綾子夫妻の庇護を受けたと伝えられています。
- 逃避経路や支援の細部には伝承も含まれるため、資料間の違いに注意が必要です。
明治日本に受け継がれた小栗忠順の遺産
小栗忠順が建設を進めた横須賀製鉄所は、幕府とともに消滅することはありませんでした。明治政府へ引き継がれ、造船、技術教育、灯台建設などを支える近代工業の拠点になります。

横須賀製鉄所は、単に軍艦を修理する工場ではありません。造船設備やドック、工作機械を備え、外国人技師から日本人へ技術を伝える教育機関としての役割も持っていました。
幕府崩壊後もヴェルニーらが建設を続け、1871年には第1号ドックが完成します。名称は横須賀造船所へ変わり、明治政府の海軍整備を支えました。小栗が構想した「人と技術を育てる工場」は、政権交代を越えて新国家に受け継がれたのです。横須賀市「横須賀の誇り!横須賀製鉄所」
横須賀製鉄所から横須賀造船所へ
あけぼの幕府が始めた横須賀製鉄所の建設は、明治政府に中断されることなく継承されました。その連続性に、小栗の政策が国家事業だったことが表れています。
横須賀製鉄所は、勘定奉行(幕府の財政や領地行政を担った役職)などを歴任した小栗忠順が中心となり、フランス公使レオン・ロッシュの協力を得て計画されました。建設の技術責任者には、フランス海軍技師のフランソワ・レオンス・ヴェルニーが選ばれ、1865年に起工します。
ところが、完成を待たずに江戸幕府は崩壊し、小栗も1868年に処刑されてしまいました。それでも施設の建設は打ち切られませんでした。明治政府は横須賀製鉄所の価値を認め、ヴェルニーらを引き続き雇用して工事を継続します。
1871年には大型船を収容して船底を修理できる第1号ドックが完成し、横須賀製鉄所は横須賀造船所と呼ばれるようになりました。同年には明治天皇も現地を訪れています。さらに1875年には、横須賀で建造された軍艦「清輝」が進水しました。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 目的 | 国内で軍艦を建造・修理できる海軍工業基盤をつくる |
| 方法 | フランスから技師、工作機械、建設技術を導入する |
| 結果 | 明治政府が施設を継承し、日本の造船・海軍技術の拠点となった |
政権は変わっても施設と人材育成は引き継がれました。横須賀製鉄所は、「幕府の事業」であると同時に「近代日本の国家事業」でもあったのです。
日本の造船・海軍技術を支えた製鉄所
あけぼの横須賀製鉄所の重要性は、軍艦を造ったことだけではありません。技術者の育成や機械工業の普及を通じ、日本の近代産業を支えました。
当時の「製鉄所」は、鉄鉱石から鉄を大量生産する現在の製鉄所とは意味が異なります。フランス語の「arsenal(「兵器庫」のような意味)」に近く、艦船の建造・修理、金属加工、機械製作などを行う総合工場でした。蒸気機関を動力とする工作機械や大型クレーン、ドライドックなど、当時としては最先端の設備が導入されました。

製鉄所内には技術教育の場も設けられ、日本人に造船、機械、製図、数学などを教えました。横須賀市の解説によれば、代数、幾何、解析、三角関数など、当時の日本では高水準の教育が行われています。また、横須賀の技術者たちは灯台建設にも携わり、観音埼灯台をはじめとする近代的な航路標識の整備を支えました。横須賀市「横須賀とフランスの歴史」
さらに、生野鉱山や富岡製糸場などへ機械設備を供給したことから、横須賀で蓄積された技術は海軍の外にも広がりました。つまり、横須賀製鉄所は完成品を生み出す工場であると同時に、近代的な技術と人材を各地へ送り出す拠点でもあったのです。
横須賀に残るヴェルニーと小栗忠順の功績
あけぼの現在の横須賀には、ヴェルニーと小栗忠順の功績を伝える施設や行事が残されています。二人の協力は、日仏交流の出発点としても記憶されています。
旧横須賀製鉄所の主要部分は、現在の米海軍横須賀基地内に位置しています。そのため自由に見学できない場所もありますが、幕末から明治期に造られたドライドックなどが今も残り、横須賀が造船都市として発展した歴史を伝えています。
JR横須賀駅近くのヴェルニー公園には、小栗忠順とヴェルニーの胸像が並んでいます。これは、構想をまとめて幕府を動かした小栗と、技術面で建設を指揮したヴェルニーの双方が不可欠だったことを象徴する配置です。園内のヴェルニー記念館では、横須賀製鉄所で使用されたスチームハンマーなどを通じ、当時の機械技術を学べます。
横須賀市では、両者を顕彰する「ヴェルニー・小栗祭式典」も行われています。市は横須賀製鉄所を「日本の近代化と横須賀市発展の礎」と位置付け、小栗とヴェルニーの功績を日仏双方の関係者とともに振り返っています。横須賀市「ヴェルニー・小栗祭式典」
小栗は完成した造船所を見ることができませんでした。しかし、二人の胸像が並ぶ現在の景観は、幕府側の企画力とフランス側の技術が結び付いて近代化が進んだことを伝えています。
これだけは覚えよう
- 横須賀製鉄所は1865年に起工されました。
- 幕府崩壊後も明治政府が事業を引き継ぎ、1871年に第1号ドックが完成しました。
- 横須賀製鉄所は造船だけでなく、技術教育、機械製作、灯台建設にも貢献しました。
- 蓄積された技術は、生野鉱山や富岡製糸場などにも波及しました。
- 横須賀では現在も、小栗とヴェルニーが近代化の功労者として顕彰されています。
「逆賊」から近代化の先駆者へ
処刑後の小栗忠順は、長く敗者側の幕臣として扱われました。しかし、その事業が明治日本を支えた事実が注目され、近代化の先駆者として再評価されていきます。

小栗の評価には、「抗戦論を唱えた旧幕臣」と「近代国家の基盤を築いた実務家」という二つの側面があります。明治政府にとって前者は扱いにくい存在でしたが、横須賀造船所をはじめとする政策の成果は否定できませんでした。
福沢諭吉による評価や、東郷平八郎が遺族に謝意を示したとする逸話は、後世の小栗像に大きな影響を与えます。
ただし、有名な言葉ほど原典を確認し、確実な事実と顕彰の過程で形成された物語を分ける必要があります。
福沢諭吉は小栗忠順をどう評価したのか
あけぼの福沢諭吉は、幕府の近代化政策を単なる失敗とは見ませんでした。その文脈から、小栗を明治国家の基礎を準備した人物として評価したと語られています。
福沢は遣欧・遣米経験を持ち、西洋の制度や技術を日本へ紹介した思想家です。小栗も1860年の遣米使節に参加しており、両者は幕府の海外派遣事業を通じ、西洋文明を実地に見たという共通点を持っていました。
後世の小栗顕彰では、福沢が小栗を「明治政府の近代化を先取りした幕臣」として高く評価したという説明がしばしば用いられます。また、「明治政府の近代化政策は小栗の模倣だった」という趣旨の強い言葉が福沢の発言として紹介される場合もあります。
しかし、流布している文言には表現の異なる複数の形があり、福沢自身の著作や同時代の記録で、そのまま確認することが難しいものもあります。そのため、特定の刺激的な言葉を福沢の確定した発言として引用するのは慎重であるべきです。
確実にいえるのは、幕末の幕府が軍艦、造船所、外交制度、洋式軍制などの整備をすでに進めており、明治政府がその施設や人材を多数引き継いだことです。福沢の名を借りた評価だけに頼らなくても、小栗の政策が明治国家へ継承されたことは、横須賀造船所の歴史そのものが示しています。
東郷平八郎の謝辞として伝わる逸話
あけぼの東郷平八郎が小栗の遺族を招き、横須賀造船所建設への感謝を伝えたという逸話があります。小栗再評価を象徴する話ですが、史実と伝承を分けて読む必要があります。
伝承によれば、1912年ごろ、東郷は小栗の遺族を自宅に招き、日本海海戦の勝利には横須賀造船所が大きく貢献しており、その建設を進めた小栗のおかげだという趣旨の謝意を伝えたとされます。
また、「仁義礼智信」と記した書を贈ったとも伝えられ、その書は小栗家との関係を示す資料として知られています。国立国会図書館のレファレンス事例でも、小栗家に伝わった東郷の書が取り上げられています。国立国会図書館レファレンス協同データベース
ただし、東郷が述べたとされる謝辞の正確な文章は、後年の回想や顕彰資料を通じて広まったものです。当日の逐語的な会話記録として確定できるわけではありません。「日本海海戦の勝因は横須賀造船所だけだった」と受け取るのも適切ではないでしょう。
この逸話の核心は、勝因を一人へ帰することではありません。明治海軍の代表者である東郷が、旧幕府側で処刑された小栗の事業を評価したという、歴史的な和解の象徴にあります。東善寺では、伝承の内容と関係資料が紹介されています。東善寺「小栗上野介と日本海海戦―東郷元帥の謝辞」
現代になって進んだ名誉回復と再評価
あけぼの小栗忠順の再評価は、無実を証明する一度の裁判で実現したものではありません。研究、史跡保存、地域の顕彰を通じて少しずつ形成されてきました。
小栗は正式な裁判を受けずに処刑されたため、近代的な意味で有罪判決を取り消す手続きも存在しません。そのため「名誉回復」とは、政府が法的に無罪を宣告したという意味ではなく、史料研究によって人物像や政策が見直され、社会的評価が変化したことを指します。
小栗家の日記や関係文書の研究が進むと、財政、外交、軍事、造船、商社構想など、幅広い政策に関与した実務家としての姿が明らかになりました。高崎市は権田村への移住や終焉の地を紹介し、横須賀市は横須賀製鉄所建設の中心人物として小栗を顕彰しています。
東善寺、水沼河原の顕彰慰霊碑、ヴェルニー公園の胸像なども、小栗の記憶を伝える重要な場所です。横須賀でヴェルニーと並んで顕彰されていることは、小栗が単なる「悲劇の幕臣」ではなく、近代化を構想した政策担当者として認識されていることを示します。
一方で、小栗を「明治の父」として過度に英雄化し、近代日本の成果をすべて一人へ結び付けるのも慎重でなければなりません。小栗の功績は、ヴェルニー、栗本鋤雲、幕府官僚、フランス人技師、日本人職工など、多くの人々との共同事業として捉えることで、より正確に評価できます。
これだけは覚えよう
- 小栗の再評価は、横須賀造船所が明治日本へ継承された事実を基礎としています。
- 福沢諭吉の評価として流布する言葉には、原典を確認しにくい表現もあります。
- 東郷平八郎の謝辞は有名ですが、会話の正確な文言は後年の伝承を含みます。
- 小栗の「名誉回復」は法的な無罪判決ではなく、研究や顕彰による社会的評価の変化です。
- 小栗一人を過度に英雄化せず、共同事業として近代化を捉えることが大切です。
小栗忠順の死後と再評価の年表
| 西暦 | 出来事 |
|---|---|
| 1865年 | 横須賀製鉄所の建設が始まる |
| 1868年 | 小栗忠順が水沼河原で処刑される |
| 1868年 | 道子らが会津方面へ逃れ、娘の国子が生まれる |
| 1871年 | 第1号ドックが完成し、横須賀造船所へ改称される |
| 1875年 | 横須賀で建造された軍艦「清輝」が進水する |
| 1877年 | 三野村利左衛門が死去する |
| 1886年 | 小栗道子が死去し、国子が大隈夫妻の庇護を受けたと伝わる |
| 1905年 | 日本海海戦で日本の連合艦隊が勝利する |
| 1912年ごろ | 東郷平八郎が小栗の遺族へ謝意を伝えたとされる |
| 現代 | 高崎・横須賀などで史跡保存や顕彰、研究が続けられる |
まとめ
小栗忠順の死後を生きた家族
小栗の処刑後、妻の道子らは新政府軍の追及を避け、越後や会津方面へ逃れました。道子は逃避行の末に娘の国子を出産します。
その後、小栗家に仕えた経験を持つ三野村利左衛門が、旧主への恩義から遺族を長期的に支援しました。
道子の死後には、大隈重信・綾子夫妻が国子を保護したと伝わります。小栗が生前に築いた信頼と人脈が、政治的な立場を越えて家族の命と家名を守ったのです。
明治日本に受け継がれた小栗忠順の遺産
小栗が建設を進めた横須賀製鉄所は、幕府崩壊後も明治政府に引き継がれました。1871年には第1号ドックが完成し、横須賀造船所として日本の造船業と海軍整備を支えます。さらに、工作機械の運用、技術者教育、灯台建設、他の官営工場への設備供給を通じ、近代産業全体へ影響を与えました。
小栗の最大の遺産は一つの建物ではなく、技術、人材、設備を一体として育てる近代工業の仕組みだったといえます。
「逆賊」から近代化の先駆者へ
小栗は旧幕府の抗戦論者として危険視され、正式な裁判を受けないまま処刑されました。
しかし、横須賀造船所が明治日本を支えた事実や、関係史料の研究によって、その評価は大きく変化します。福沢諭吉の評価や東郷平八郎の謝辞として伝わる話には、原典を確認しにくい部分もあるため注意が必要です。
それでも、小栗が幕末から近代国家の基盤整備を進めた実務家であったことは、現在残る施設と事業の継承が明確に示しています。
参考史料・参考文献
以下は、本文の史実確認と、後世に成立した逸話を区別するために参照できる資料です。
一次史料・近世史料
- 『群馬県史料集 第7巻 小栗日記』
小栗家の日記や家計関係の記録を収録しています。小栗家と権田村の動向を確認するための基礎史料です。 - 『小栗上野介関係文書』
小栗の履歴書、日記写本、書簡などを含む国立国会図書館憲政資料室の所蔵資料です。 - 太政官編『復古記』第11冊「東山道戦記」
戊辰戦争における東山道軍の進軍や、新政府側の命令・報告を確認するために参照できます。 - 福沢諭吉『福翁自伝』
福沢自身の幕末期の経験や幕府観を確認するための基本史料です。小栗に帰される個別の発言が、福沢の確実な著述に存在するかを検討する際にも役立ちます。
研究書・参考文献
- 村上泰賢『小栗上野介―忘れられた悲劇の幕臣』
遣米使節、幕政改革、横須賀製鉄所、処刑、死後の評価までを通して理解できる研究書です。 - 高橋敏『小栗上野介忠順と幕末維新―「小栗日記」を読む』
『小栗日記』をもとに、小栗家、権田村社会、幕末維新期の動向を検討した研究書です。 - 村上泰賢編『小栗忠順のすべて』
小栗の人物像、横須賀造船所、夫人の会津脱出、処刑、顕彰などを複数の研究者が検討しています。 - マイケル・ワート『明治維新の敗者たち―小栗上野介をめぐる記憶と歴史』
小栗が「逆賊」「悲劇の幕臣」「近代化の先駆者」として記憶される過程を考えるための参考文献です。 - 三野村清一郎『三野村利左衛門伝』
三野村利左衛門の経歴と、小栗家遺族への支援を確認するための伝記資料です。
Webサイト・公的機関の解説
- 横須賀市「横須賀の誇り!横須賀製鉄所(造船所)」
横須賀製鉄所の計画、建設、明治政府への継承、第1号ドック完成までを確認できます。 - 横須賀市「横須賀とフランスの歴史」
フランス人技師、日本人技術者教育、灯台建設、他の近代産業との関係を確認できます。 - 横須賀市「ヴェルニー・小栗祭式典」
現代の横須賀における小栗忠順とヴェルニーの顕彰を確認できます。 - 高崎市「本市ゆかりの幕臣・小栗上野介」
小栗の生涯、権田村への移住、処刑、現代の評価を確認できます。 - 東善寺「小栗上野介と日本海海戦―東郷元帥の謝辞」
東郷平八郎が小栗家へ謝意を伝えたとする逸話と、関係資料を確認できます。寺院による顕彰資料である点を踏まえて参照しました。

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