小栗忠順はなぜ処刑されたのか?抗戦論から非業の最期まで

小栗忠順の足跡

小栗忠順の最期|抗戦論を退けられ処刑されるまで

慶応3年(1867年)の大政奉還によって、約260年続いた江戸幕府は終幕へ向かいました。しかし、徳川家を新たな政治体制の中に残すのか、それとも武力で排除するのかは決着していませんでした。

鳥羽・伏見の戦いに敗れた徳川慶喜が恭順へ傾く一方、小栗忠順は幕府の軍事力を結集した抗戦を主張します。その選択の違いが、罷免、権田村への移住、そして取り調べを欠いた処刑へとつながっていきました。

対象読者:歴史初心者~中級者
読了時間:約18分

目次

小栗忠順を取り巻く人物

人物立場と小栗との関係
小栗忠順勘定奉行(幕府の財政・行政を担った役職)などを歴任した幕臣。鳥羽・伏見の戦い後に抗戦を主張しました
徳川慶喜江戸幕府最後の将軍。朝廷への恭順を選び、小栗ら主戦派を罷免しました
勝海舟軍事総裁(幕府軍の統括を担った役職)として江戸城の無血開城に尽力しました
岩倉具定東山道先鋒総督府を率いた公家。小栗追捕に関わる新政府側の中心人物です
小栗又一
(忠道)
小栗忠順の養嗣子。忠順の処刑後、高崎で処刑されました

小栗忠順の最期に至る年表

西暦出来事
1867年11月9日徳川慶喜が大政奉還を朝廷へ申し出る
1868年1月3日王政復古の大号令が発せられ、幕府の廃止と新政府の成立が宣言される
1868年1月19日庄内藩を中心とする幕府側部隊が、江戸の薩摩藩邸を焼き討ちする
1868年1月27~30日鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が敗北する
1868年2月上旬江戸へ戻った徳川慶喜に対し、小栗忠順が抗戦を主張する
1868年2月8日小栗が勘定奉行などの役職を罷免される
1868年2月21日小栗が権田村への土着願を幕府へ提出する
1868年3月21日小栗一行が江戸を出発し、権田村へ向かう
1868年3月24日小栗一行が上野国権田村へ到着し、東善寺を仮住まいとする
1868年5月26日小栗と家臣たちが新政府側の部隊に捕縛される
1868年5月27日小栗と家臣3人が水沼の烏川河原で処刑される
1868年5月28日養嗣子の小栗又一(忠道)らが高崎で処刑される

幕府崩壊と徳川慶喜との対立

大政奉還後も、徳川家が持つ領地や軍事力は健在でした。しかし、鳥羽・伏見の敗戦を境に、幕府内部は「抗戦」と「恭順」に分裂します。

小栗忠順の足跡

幕府は大政奉還によって政権を朝廷へ返しましたが、直ちにすべての権力を失ったわけではありません。徳川家は広大な領地、陸海軍、行政機構を保持しており、新体制でも主導権を握れる可能性がありました。

ところが薩摩藩などは徳川勢力の政治的影響力を警戒します。武力衝突が始まると、小栗は幕府軍を再編して反撃する道を選びました。

一方、慶喜は朝敵とされた状況を重く受け止め、内戦拡大を避ける方向へ転じます。この路線の違いが、両者の決定的な対立を生みました。

大政奉還で揺れた幕府内部

あけぼの

大政奉還は幕府の降伏宣言ではありません。慶喜は政権を返上した後も、徳川家が新体制の中心に残る道を模索していました。

慶応3年(1867年)10月14日、徳川慶喜は政権を朝廷へ返上する大政奉還を申し出ました。諸藩の代表による新たな政治体制が成立しても、最大の領地と行政経験を持つ徳川家が重要な役割を担う可能性は残されていました。

しかし、同年12月9日の王政復古の大号令によって、将軍職と幕府の廃止が宣言されます。さらに徳川家の官位や領地をどう扱うかが政治問題となり、幕臣たちは動揺しました。

小栗忠順は、幕府の財政や軍事制度を実務面から支えてきた人物です。彼にとって、組織も軍艦も兵力も残っている段階で徳川家が主導権を手放すことは、受け入れにくい選択だったと考えられます。

ただし、小栗が大政奉還そのものにどのような発言をしたかについては、後世の伝記に依存する部分があります。確実に確認できるのは、鳥羽・伏見の敗戦後、慶喜の恭順方針に反対して抗戦を主張したことです。大政奉還から直ちに小栗と慶喜が全面対立した、と単純化しないことが大切です。

薩摩藩邸焼き討ちから鳥羽・伏見の戦いへ

あけぼの

江戸で続いた挑発と報復は、京都・大坂周辺の軍事的緊張と結び付き、旧幕府軍と新政府軍の衝突へ発展しました。

大政奉還後、江戸では薩摩藩の関係者が浪士を使って騒乱を起こしたとされ、幕府側の治安部隊との緊張が高まりました。慶応3年12月25日、庄内藩を中心とする幕府側部隊が三田の薩摩藩邸を攻撃し、焼き討ちにします。

この知らせが大坂へ届くと、旧幕府側の強硬論を勢いづかせました。慶応4年(1868年)1月、旧幕府軍は慶喜の上京を名目として京都方面へ進み、鳥羽・伏見で薩摩・長州を中心とする部隊と衝突します。

兵力では旧幕府軍が優勢だったとされますが、指揮系統の不統一や戦闘目的の曖昧さがありました。新政府側に錦旗が掲げられると、旧幕府軍は朝廷に逆らう「朝敵」と見なされる危険に直面します。

淀藩などが旧幕府軍の入城を拒み、諸藩の態度も新政府側へ傾きました。軍事的敗北に政治的な孤立が重なった結果、慶喜は大坂城から軍艦で江戸へ帰還します。この突然の帰還は、戦場に残された旧幕府軍を混乱させました。

江戸へ戻った徳川慶喜に抗戦を主張

あけぼの

江戸へ戻った慶喜に対し、小栗は幕府の陸海軍を活用した抗戦を訴えました。しかし慶喜が選んだのは、朝廷への恭順でした。

鳥羽・伏見の戦いから帰還した慶喜を前に、江戸城では今後の方針が協議されました。小栗は、フランス式訓練を受けた幕府陸軍や軍艦を利用すれば、なお戦えると考えていたとされます。

後世に広く知られた説では、新政府軍を関東へ誘い込み、箱根や碓氷峠などの交通路を遮断する一方、幕府海軍が西国を攻撃する策を主張したと伝わります。ただし、この詳細な作戦像は後年の記録や伝承による部分が大きく、小栗本人の同時代文書で全容を確認できるわけではありません。

史実として確実なのは、小栗が恭順ではなく抗戦を唱えたこと、慶喜がその意見を採用しなかったこと、そして慶応4年1月15日に小栗が役職を罷免されたことです。

慶喜にとって抗戦は、徳川家だけでなく日本全体を長期内戦へ巻き込み、外国勢力の介入を招く危険を伴いました。一方の小栗は、戦わずして軍事力を手放せば、徳川家は交渉力まで失うと見ていたのでしょう。両者の対立は、勇気と臆病の違いではなく、何を最も大きな危険と見るかという政治判断の違いでした。

これだけは覚えよう

  • 大政奉還後も、徳川家には領地・軍隊・行政機構が残っていました。
  • 鳥羽・伏見の敗戦後、小栗は抗戦、慶喜は恭順を選びました。
  • 小栗の詳細な関東迎撃策には、後世の伝承が含まれています。
  • 小栗は慶応4年1月15日、幕府の役職を罷免されました。

勘定奉行罷免と権田村への移住

役職を失った小栗は、上野国権田村への移住を決めました。それは再起のための潜伏だったのか、幕臣生活を終える帰農だったのでしょうか。

小栗忠順の足跡

罷免された小栗は、江戸にとどまって政治活動を続けるのではなく、小栗家の知行地だった上野国群馬郡権田村へ向かいました。現代の群馬県高崎市倉渕町権田に当たります。小栗は幕臣としての立場を離れ、土地に根差した生活を始める意向を示しました。

しかし、多くの家臣や武器、家財を伴った移住は、新政府側から見ると軍事拠点づくりにも映りました。抗戦論者として知られた経歴も疑念を強め、本人の意図と新政府側の受け止め方との間に深い溝が生まれます。

小栗忠順の抗戦策はなぜ退けられたのか

あけぼの

小栗の抗戦論には軍事的な根拠がありました。それでも採用されなかった最大の理由は、慶喜が勝利より恭順による徳川家存続を選んだからです。

幕府はフランスの支援を受け、歩兵・砲兵・騎兵からなる西洋式軍制を整えつつありました。海上には榎本武揚らが率いる幕府艦隊も残っていました。そのため、小栗が抗戦可能と判断したことには一定の軍事的根拠があります。

一方、鳥羽・伏見の戦いでは、新政府軍に朝廷の軍であることを示す錦旗が掲げられました。旧幕府軍が戦闘を続ければ、徳川家は朝廷への反逆者という立場を決定的にされる恐れがあります。慶喜は、軍事的な勝敗だけでなく、朝敵として討伐される政治的危険を重視しました。

抗戦策を「目的・方法・結果」で整理すると、次のようになります。

項目内容
目的徳川家の軍事力を維持し、新政府との交渉力を取り戻す
方法幕府陸軍・海軍を活用して東海道方面などで新政府軍を迎撃する
結果慶喜が恭順を選んだため採用されず、小栗は罷免された

現代風にいえば、小栗は「交渉の前に防衛力を手放してはならない」と考え、慶喜は「戦闘を続ければ組織そのものが消滅する」と判断したことになります。どちらも徳川家の存続を考えていましたが、その手段が正反対だったのです。

幕臣としての職を失い権田村へ向かう

あけぼの

罷免された小栗は、領地の権田村へ移る準備を進めました。江戸を離れたこと自体は、抗戦運動を続ける人物としては不自然な行動でもあります。

小栗は罷免後、上野国権田村への移住を決めました。権田村は小栗家の知行地の一つで、菩提寺の東善寺もありました。一行は慶応4年3月1日に権田村へ到着し、まず東善寺を仮住まいとします。

同行者には家族や家臣がおり、家財や武器も運ばれました。これは旗本家が地方へ移る以上、不自然とは言い切れません。しかし、新政府軍の東征が進む緊迫した時期だったため、多数の家臣と武器を伴う移動は警戒の対象になりました。

小栗は観音山で住居の建設を始め、農地や用水の整備にも関わったと伝わります。権田村で生活基盤を整えようとする行動は、少なくとも表面上、江戸奪回のための軍事行動とは異なります。

もし大規模な抗戦を計画していたなら、江戸や幕府艦隊との連絡を維持し、周辺諸藩を組織する必要があったはずです。その明確な証拠は確認されていません。小栗が危険視された背景には、実際の挙兵計画というより、過去の抗戦論と、旧幕府の実力者としての知名度が強く作用したと考えられます。

帰農を願い出た小栗忠順の真意

あけぼの

小栗は農民として土地に根付く意思を示しました。しかし、その帰農願が心からの引退だったのか、情勢を見守るためだったのかは断定できません。

「帰農」とは、武士が身分や奉公関係を離れ、農業を営む生活へ移ることです。小栗は権田村での土着を希望し、住居建設や用水整備を始めました。これらの行動からは、家族と家臣を養いながら地域で暮らそうとする姿が読み取れます。

一方、小栗は鳥羽・伏見の敗戦後まで抗戦を唱えた人物です。新政府側が「完全に政治的意図を捨てた」と信用しなかったことも理解できます。旧幕府勢力が各地で抵抗を続ける中、能力と人望のある元勘定奉行が関東山間部にいること自体が脅威と見なされました。

後世には、小栗が再起の機会を待っていたという説もあります。しかし、権田村で新政府軍に対抗する軍事組織を編成したことを示す確実な史料は乏しく、反乱準備を断定することはできません。

したがって、帰農願の真意は「完全な隠居」か「一時的な退避」かの二択で考えるべきではないでしょう。小栗自身は武力行動を開始せず生活再建を進めながらも、徳川家や国内情勢への関心まで失ってはいなかった、と見るのが慎重な理解です。

これだけは覚えよう

  • 小栗は罷免後、小栗家の知行地だった権田村へ移りました。
  • 東善寺を仮住まいとし、住居や用水の整備を進めました。
  • 武器や家臣を伴った移住が、新政府側の疑念を招きました。
  • 権田村で挙兵を準備したと断定できる確実な史料はありません。

なぜ小栗忠順は新政府軍に処刑されたのか

小栗が処刑された直接の背景には、反乱の嫌疑と新政府軍の警戒がありました。しかし、正式な裁判や十分な取り調べは行われませんでした。

小栗忠順の足跡

新政府の東山道軍が関東へ進む中、小栗は「徳川方の大物」「抗戦を主張した実力者」として危険視されました。住居建設や武器の所持も、陣地構築の証拠であるかのように受け取られます。

高崎藩は小栗らを捕縛し、翌日には水沼河原で処刑しました。具体的な反乱計画や戦闘行為について審理する手続きはなく、小栗が弁明する機会もほとんど与えられませんでした。この異例の速さこそ、小栗の死が「非業の最期」と語られる最大の理由です。

権田村で始めた小栗主従の新生活

あけぼの

権田村での小栗は、住まいを整え、地域に根差した生活を始めようとしていました。しかし、周辺の治安悪化が小栗主従を武装させることになります。

小栗一行が権田村へ到着した直後、近隣では「世直し」を掲げる騒動が発生しました。慶応4年3月、集団が三ノ倉村から権田村方面へ押し寄せ、小栗の家臣や村人と衝突します。小栗側はこれを撃退しました。

この行動は村や家族を守るための防衛だったとみられますが、小栗主従が武器を持ち、集団を指揮できることを周囲に印象付けました。新政府側から見れば、元幕府高官が家臣団とともに武装しているという情報だけでも警戒材料になります。

小栗は観音山に屋敷を建てようとし、資材を集めていました。後に新政府側は、これを「陣屋を構えている」と疑う理由の一つにしました。しかし、屋敷建設が軍事拠点の整備だったことを裏付ける確実な証拠はありません。

ここでは「確認できる事実」と「新政府側の解釈」を分ける必要があります。小栗主従が騒動に備えて武装したことと、新政府に対する反乱を計画したことは同じではありません。ところが戊辰戦争下では、その区別を慎重に確かめる余裕も意思も、新政府軍側にはなかったとみられます。

東山道軍に危険視され捕縛される

あけぼの

小栗を追及したのは、京都から中山道方面を進んだ東山道軍でした。抗戦論者という前歴と武装の情報が、反乱の嫌疑へ結び付きます。

東山道軍は、新政府が江戸へ向けて派遣した東征軍の一部です。その先鋒総督府が関東へ進む中、小栗が権田村で家臣を集め、武器を保有しているという情報が伝えられました。

小栗側は反乱の意思がないことを示そうとし、養嗣子の又一らを高崎方面へ向かわせたとされます。しかし、新政府側の疑念を解くことはできませんでした。高崎藩などの兵が権田村へ派遣され、慶応4年閏4月5日、小栗は家臣らとともに捕縛されます。

疑われた内容としては、陣屋の構築、武器の蓄積、周辺勢力との連携などが挙げられました。しかし、それらが具体的な反乱計画を示すものだったのかは確認されませんでした。

小栗が特に危険視された理由は、単なる元幕臣ではなかったことです。財政、外交、陸海軍の事情に通じ、横須賀製鉄所建設を進めた実務家でした。新政府側にとっては、旧幕府勢力を再編できる可能性を持つ人物だったのです。

つまり、処刑は「実行した反乱」に対する刑罰というより、「反乱を起こすかもしれない有力者」を早期に排除した性格が強かったと考えられます。

水沼河原で迎えた最期

あけぼの

捕縛の翌日、小栗は十分な取り調べを受けないまま水沼河原へ連行され、家臣たちとともに斬首されました。なんだか理不尽ですよね。

慶応4年閏4月6日、小栗忠順は上野国群馬郡水沼の烏川河原で処刑されました。新暦では1868年5月27日です。高崎市の案内では、小栗と家臣3人がこの場所で斬首されたとされています。

捕縛から処刑まで、わずか一日でした。反乱計画の有無を検証する正式な裁判や、十分な取り調べが行われた形跡はありません。翌日には養嗣子の又一らも高崎で処刑されました。

小栗がなぜこれほど急いで殺されたのかについて、命令系統や個々の責任まで完全に解明されているわけではありません。現地部隊が軍事上の危険を除こうとした可能性、新政府側が旧幕府の有力者を警戒した可能性などが考えられます。

一方、「小栗が隠していた莫大な幕府資金を奪うためだった」「特定の人物が個人的な恨みで殺した」といった説には、確実な裏付けがありません。また、小栗の有名な最期の言葉にも後世の脚色が含まれる可能性があります。

史料から慎重にいえるのは、小栗が具体的な反乱行為を認定される法的手続きを経ず、軍事的嫌疑によって迅速に処刑されたことです。水沼河原の顕彰慰霊碑には、後世の人々の評価を示す「罪なくして此所に斬らる」という言葉が刻まれています。

これだけは覚えよう

  • 小栗は旧幕府の有力な抗戦論者として、新政府軍に警戒されました。
  • 権田村の屋敷建設や武器の所持が、反乱準備と疑われました。
  • 捕縛の翌日に処刑され、十分な取り調べや裁判は行われませんでした。
  • 反乱を実行した証拠よりも、「将来の脅威」と見なされたことが処刑の大きな背景です。
  • 埋蔵金や個人的怨恨を理由とする説は、史実として断定できません。

まとめ

幕府崩壊と徳川慶喜との対立

大政奉還だけで幕府の軍事力や徳川家の影響力が消滅したわけではありません。小栗忠順は、残された陸海軍を活用して新政府軍に対抗し、徳川家の交渉力を守ろうとしました。

しかし徳川慶喜は、朝敵とされたまま戦えば内戦が拡大し、徳川家そのものが滅びる危険があると判断します。抗戦と恭順の対立は、単なる勇気の差ではなく、軍事力を背景に交渉するのか、服従によって存続を図るのかという戦略の違いでした。

勘定奉行罷免と権田村への移住

抗戦論を退けられた小栗は幕府の役職を罷免され、知行地の権田村へ移りました。東善寺を仮住まいとし、屋敷や用水を整えた行動からは、地域に根差した生活を築こうとする姿が見えてきます。

一方、多くの家臣や武器を伴っていたことは、新政府側の疑念を招きました。小栗が再起を計画していたとする説もありますが、具体的な挙兵計画を裏付ける史料は乏しく、帰農を偽装した反乱準備だったと断定することはできません。

なぜ小栗忠順は処刑されたのか

小栗が処刑された背景には、抗戦論者としての前歴、幕府財政や軍事に通じた能力、家臣団と武器の存在がありました。新政府軍は、実際に起こした反乱よりも、小栗が将来旧幕府勢力をまとめる可能性を恐れたと考えられます。

小栗は捕縛の翌日に水沼河原で処刑され、十分な取り調べや裁判を受けませんでした。したがって、その死は立証された犯罪への刑罰ではなく、戊辰戦争下の軍事的警戒による予防的な排除だったと捉えるのが妥当でしょう。

参考史料・参考文献

以下は、書誌情報や公開状況を確認できた資料です。

一次史料・近世史料

  • 『群馬県史料集 第7巻 小栗日記』
    小栗家の日記や家計簿などを収録しています。権田村移住後の小栗家と周辺社会の動きを確認するための基礎史料です。
  • 太政官編『復古記』第11冊「東山道戦記」
    明治政府が編纂した戊辰戦争関係の史料集です。東山道軍の進軍や、新政府側の命令・報告を確認するために参照しました。国立国会図書館デジタルコレクションで本文を閲覧できます。
  • 『徳川慶喜公伝』
    渋沢栄一が編纂した徳川慶喜の伝記です。大政奉還から鳥羽・伏見の戦い、慶喜の恭順に至る政治過程を確認するために参照しました。
  • 『小栗上野介関係文書』
    小栗の履歴書、日記写本、書簡などを含む国立国会図書館憲政資料室の所蔵資料です。

研究書・参考文献

Webサイト・公的機関の解説

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

目次