遣米使節で世界を見た小栗忠順

小栗忠順の足跡

小栗忠順と遣米使節|世界一周で見た近代国家の姿

安政5年(1858年)、江戸幕府は日米修好通商条約を結び、日本は本格的な開港へ踏み出しました。しかし、国内では条約締結への反発が広がり、海外との通貨交換でも深刻な問題が生じていました。万延元年(1860年)、幕府は条約の批准書を交換するため、アメリカへ使節団を派遣します。その監察に選ばれたのが、後に横須賀製鉄所の建設や幕政改革を進める小栗忠順でした。

対象読者:初心者~中級者向け
読了時間:約16分

目次

主要人物を簡単に紹介

人物使節団での立場小栗忠順との関係
新見正興正使使節団の代表を務めた外国奉行
村垣範正副使正使を補佐し、旅の記録を残した幕臣
小栗忠順監察使節団の監督と通貨問題の調査・交渉を担った
森田岡太郎勘定方小栗とともに貨幣問題の調査に関わった
木村芥舟軍艦奉行別船の咸臨丸を率いて渡米した幕臣
勝海舟咸臨丸の船将咸臨丸で太平洋を往復した幕臣

遣米使節の動きを追う年表

年月日出来事
1858年7月29日日米修好通商条約を締結
1860年2月9日ポーハタン号で横浜を出航
1860年3月28日サンフランシスコへ到着
1860年5月15日ワシントンへ到着
1860年5月23日日米修好通商条約の批准書を交換
1860年6月フィラデルフィア造幣局などを視察
1860年6月30日ニューヨークから帰国の途につく
1860年11月10日江戸へ帰着
1861年小栗忠順が外国奉行に就任
1865年横須賀製鉄所の建設が始まる

日米修好通商条約と遣米使節団

万延元年遣米使節は、単なる海外視察団ではありません。幕府を代表して条約の手続きを完了させ、日本が国際社会へ参加する意思を示す、重要な外交使節でした。

小栗忠順の足跡

幕府が使節団を送り出した当時、開国をめぐって国内世論は激しく揺れていました。使節団には、批准書交換という表向きの使命に加え、欧米の政治・産業・軍事・通貨制度を現地で確かめる役割も期待されていたのです。

小栗忠順は監察として使節団に加わりました。幕臣たちの行動を監督するだけでなく、開港後に問題となった日米通貨の交換比率を調査し、アメリカ側と交渉するという実務的な役割も担っていました。

開国後の日本を揺るがした通商条約

あけぼの

日米修好通商条約は日本を世界市場へ結びつける一方で、幕府の政治的な求心力を低下させ、金銀の流出や物価上昇を招く要因にもなってしまいました。

安政5年(1858年)、江戸幕府はアメリカ総領事タウンゼント・ハリスとの交渉を経て、日米修好通商条約を締結しました。条約により、神奈川・長崎・新潟・兵庫などの開港、江戸・大坂の開市、外国人の居住や貿易が定められました。

しかし、日本側には関税を自由に決めにくい制約があり、外国人を日本の法廷で裁けない領事裁判権も認められました。さらに、条約は孝明天皇の勅許を得ないまま調印されたため、朝廷を重視する大名や尊王攘夷派から強い反発を受けます。

通貨交換も大きな問題でした。条約では、同じ種類の貨幣を重さに応じて交換する「同種同量」の考え方が採用されました。その結果、洋銀(メキシコドル)3ドルが日本の一分銀9枚と交換されます。

一分銀は銀の含有量だけで価値が決まる貨幣ではなく、幕府の信用によって額面価値が支えられていました。現代風にいえば、素材の価格以上の価値を国が保証した通貨です。

ところが、外国側は銀の重量を基準に交換したため、日本国内の金銀比価との差を利用して小判を海外へ持ち出し、これを地金(じがね)として交換すると約3倍になるという、ある意味錬金術みたいな取引が横行しました。

↓↓↓ 分かりやすく、下の画像で解説しているので、ご覧ください。↓↓↓

小栗忠順の足跡
項目内容
目的アメリカとの正式な通商関係を築く
方法港の開放、外国人との貿易、通貨交換のルールを定める
結果貿易が始まる一方、政治的対立や金貨流出が深刻化した

条約批准書交換使節が派遣された目的

あけぼの

批准書とは、国家が条約を正式に承認したことを示す文書です。遣米使節団の最大の使命は、ワシントンにてこの批准書を交換することでした。

日米修好通商条約には、批准書をワシントンで交換することが定められていました。そこで幕府は、外国奉行(外国との交渉を担当した役職)の新見正興を正使、村垣範正を副使、小栗忠順を監察とする使節団を編成します。

表向きの目的は、日米両国が作成した批准書を交換し、条約の正式な手続きを完了させることでした。しかし、幕府にとっては、日本の外交能力を外国に示す意味もありました。使節団は将軍の書簡や贈答品を携え、ブキャナン大統領と会見しています。

また、使節団には西洋社会を調査する役割もありました。訪問先では政府機関、海軍施設、工場、鉄道、造幣局などを見学しています。幕臣たちは、巨大な蒸気船、機械による大量生産、都市を結ぶ鉄道、整備された行政機構を目の当たりにしました。

この使節は「友好訪問」だけでも「視察旅行」だけでもありません。外交儀礼を遂行しながら、今後の国家運営に必要な知識を集める実務的な調査団でもあったのです。

項目内容
目的条約の批准書交換と日米関係の確立
方法幕府の正式な代表団をワシントンへ派遣
結果批准手続きを完了し、西洋の制度や技術に関する知見を得た

小栗忠順が監察として選ばれた理由

あけぼの

小栗忠順は目付としての監督能力に加え、数字や実務に強く、外国人を相手に通貨問題を調査・交渉できる幕臣として期待されました。

小栗は安政6年(1859年)、目付に就任しました。目付とは、幕臣の行動を監察し、幕政上の重要事項を調査・報告する役職です。遣米使節における「監察」は、正使・副使に次ぐ重要な立場でした。

選任理由を一つに断定できる史料は限られますが、小栗が旗本としての教養を備え、実務能力と強い責任感を評価されていたことは、その後の経歴からも読み取れます。使節団の規律を保ち、訪問先で得た情報を調査する人物として適任と判断されたのでしょう。

さらに、小栗には通貨交換問題を調べる役割がありました。開港後、日本の金貨が大量に海外へ流出していたためです。小栗は勘定方の森田岡太郎らとともに、貨幣の重量や金銀の含有量を調べ、交換制度の矛盾をアメリカ側に説明しようとしました。

注意点としては、小栗の選任は井伊直弼による個人的な「抜擢」だけではないということです。井伊政権下で目付となり使節に加わったのは事実ですが、誰がどのような理由で最終的に推挙したかについては、史料上確認できる範囲を区別して考える必要があります。

これだけは覚えよう

  • 遣米使節団の正式な目的は、日米修好通商条約の批准書交換でした。
  • 正使は新見正興、副使は村垣範正、監察は小栗忠順です。
  • 小栗は使節団の監督だけでなく、日米通貨問題の調査にも関わりました。
  • 使節団には、西洋の政治・産業・軍事・交通を調査する役割もありました。
  • 日本国内では条約締結への反発が強まり、幕府の外交は厳しい状況に置かれていました。

アメリカで目にした西洋文明

小栗忠順たちは蒸気船で太平洋を渡り、鉄道で大陸を移動しました。各地で目にした工場や造船所は、日本とアメリカの工業力の違いを実感させるものでした。

小栗忠順の足跡

使節団が訪れたアメリカは、南北戦争の直前にあり、国内に深刻な対立を抱えていました。それでも、蒸気船、造船所、鉄道、電信、機械工場などの社会基盤は、日本よりはるかに大規模でした。

小栗が何を見てどの政策を直接思いついたのかは慎重に判断する必要があります。しかし、帰国後に軍制・財政・造船・工業の改革へ取り組んだ経歴を考えると、渡米経験が彼の問題意識を深めたことは間違いないでしょう。

ポーハタン号で太平洋を横断

あけぼの

使節団はアメリカ海軍の蒸気フリゲート艦ポーハタン号に乗船し、ハワイとサンフランシスコを経てアメリカ大陸へ向かいました。

安政7年1月18日(1860年2月9日)、使節団は横浜からポーハタン号で出航しました。ポーハタン号は蒸気機関と帆を併用する大型軍艦で、日本の幕臣たちにとって、船そのものが西洋技術を学ぶ対象でした。

航海中は荒天に見舞われ、ポーハタン号は修理のためハワイへ寄港します。その後、同年3月にサンフランシスコへ到着しました。使節団は現地で盛大な歓迎を受け、新聞でも大きく報じられます。

なお、勝海舟や福沢諭吉らが乗った咸臨丸は、遣米使節の本隊を運んだ船ではありません。咸臨丸はポーハタン号の護衛・随伴という位置づけで太平洋を横断し、サンフランシスコ到着後は日本へ引き返しました。一方、小栗たち本隊はパナマ地峡を越えてワシントンへ向かっています。

長い航海は、日本が外国と交渉するためには、軍艦を購入するだけでなく、自国で整備・修理し、運用する技術と人材が必要であることを実感させたはずです。ただし、「この航海中に横須賀製鉄所を着想した」とまで断定はできません。帰国後の政策との関連として捉えるのが適切でしょう。

ワシントンで行われた批准書の交換

あけぼの

ワシントンへ到着した使節団はブキャナン大統領と会見し、国務省で日米修好通商条約の批准書を正式に交換しました。

サンフランシスコからパナマへ移動した一行は、パナマ地峡鉄道に乗って太平洋側から大西洋側へ横断しました。当時、北米大陸を横断する鉄道はまだ完成していなかったため、パナマを経由するのが効率的な移動経路だったのです。

大西洋側のアスピンウォール、現在のコロンから米軍艦ロアノーク号に乗り、1860年5月15日にワシントンへ到着しました。使節団はブキャナン大統領に謁見し、将軍徳川家茂からの国書を渡します。

同年5月23日、アメリカ国務省で条約批准書の交換が行われました。これは、日本が欧米諸国の外交儀礼に従って実施した本格的な外交行事の一つです。使節たちは礼服である長袴や烏帽子を身に着け、日本の正式な代表として儀式に臨みました。

アメリカ側にとっても、日本からの公式使節は大きな話題でした。一方、使節団の幕臣たちは歓迎行事だけに目を奪われず、政府の運営、軍事施設、都市機能などを観察しています。華やかな外交儀礼の裏側で、近代国家の仕組みを学ぶ調査が進められていたのです。

造船所と工場で目にしたアメリカの技術力

あけぼの

小栗たちは、ワシントン海軍造船所をはじめとする施設を見学し、機械と分業によって支えられた西洋の工業力に触れました。

当時の日本にも、反射炉や洋式造船所を整備しようとする動きはありました。しかし、アメリカの施設では、蒸気機関を動力として大型の機械が稼働し、規格に沿った部品が組織的に生産されていました。

近代的な造船所は、船を組み立てるだけの場所ではありません。設計、製材、製鉄、鋳造、鍛造、旋盤加工、修理、資材管理、技術者教育を一体的に行う総合工場です。現代風にいえば、造船会社、機械メーカー、職業訓練校、研究施設を一か所に集めた産業拠点に近いものでした。

小栗がアメリカから「一本のねじ」を持ち帰り、工業力の違いを示したという逸話は広く紹介されています。ただし、そのねじに関する伝承の細部や発言は、同時代史料で確認できる事実と後世の物語を分けて扱う必要があります。

帰国後の小栗は、軍艦奉行や勘定奉行などを歴任し、横須賀製鉄所の建設を推進します。渡米中の視察だけを建設の唯一の出発点とはいえませんが、海外で見た造船・機械工業が、小栗の近代化構想に重要な実感を与えたと考えられます。

これだけは覚えよう

  • 本隊が乗った船はポーハタン号で、咸臨丸とは役割も帰国経路も異なります。
  • 使節団はハワイ、サンフランシスコ、パナマを経てワシントンへ向かいました。
  • 1860年5月23日、アメリカ国務省で批准書を交換しました。
  • 小栗は造船所や工場を通して、近代工業が機械・分業・人材育成によって成り立つことを学びました。
  • 渡米経験と横須賀製鉄所建設の関係は重要ですが、特定の見学だけを直接の着想と断定しないことが大切です。

世界一周を経て日本へ帰国

使節団はアメリカ東海岸から大西洋へ出て、アフリカ南端とインド洋を回り、日本へ戻りました。小栗は帰国後、幕末外交の難局へ直面することになります。

小栗忠順の足跡

小栗たちはフィラデルフィア造幣局で日米貨幣を分析し、通貨交換制度の問題を確かめました。しかし、日本側の主張がそのまま制度変更として認められたわけではありません。

帰国後の日本では、攘夷運動と幕府批判が激化していました。世界の工業力を見た小栗にとって、単純な排外論では国を守れないことは明らかだったはずです。ここから、外交官・改革者としての本格的な活動が始まります。

造幣局で確かめた日米金貨の価値

あけぼの

小栗たちはフィラデルフィア造幣局で日本とアメリカの貨幣を分析し、開港後の通貨交換が日本に与える不利益を検証しました。

日本では、小判1枚を1両、一分銀4枚を1両として扱っていました。しかし、一分銀の銀含有量は額面価値より少なく、その不足分は幕府の信用によって支えられていました。つまり、一分銀には計数貨幣に近い性格があったのです。

外国側は貨幣を銀の重量で評価し、1ドル銀貨を一分銀3枚と交換しました。外国商人は一分銀を小判に換え、小判を海外へ持ち出すことで、金銀比価の違いから利益を得られました。そのため、日本から大量の金貨が流出したと考えられています。(下に画像を再掲)

小栗忠順の足跡

小栗らは日本の小判や一分判などを分析し、含まれる金銀の量に基づいて価値を確かめました。そして、一分銀を単なる銀の塊として扱うのではなく、幕府が額面を保証する貨幣として評価すべきだと主張します。

ただし、「小栗がその場で不公平さを証明し、アメリカ側を完全に論破して交換比率を改めさせた」と考えるのは早計です。分析によって日本側の主張を裏づけようとしたことは重要ですが、交渉は直ちに制度改正という成果には結びつきませんでした。

項目内容
目的金貨流出の原因となった通貨交換の問題を検証する
方法造幣局で日米貨幣の重量と金銀含有量を分析する
結果日本側の主張を補強したが、交換制度の抜本的変更には至らなかった

大西洋とインド洋を経由した帰国航路

あけぼの

使節団はニューヨークから大西洋へ出航し、アフリカ南端の喜望峰、バタビア、香港を経て日本へ帰国しました。

使節団はワシントンでの任務を終えた後、フィラデルフィアやニューヨークなどを訪問しました。1860年6月30日、ナイアガラ号に乗ってニューヨークを出航し、大西洋を渡ります。

一行はアフリカ西方のポルト・グランデ、現在のカーボベルデに寄港し、さらにアフリカ沿岸のルアンダを経て喜望峰を回りました。その後、インド洋を東へ進み、バタビア、現在のジャカルタや香港などを経由して、同年11月10日に江戸へ帰着します。

この航海は、日本から太平洋を渡り、北米大陸とパナマ地峡を横断し、大西洋・インド洋を経て日本へ戻る世界一周でした。幕臣たちはアメリカだけでなく、欧米諸国の海上交通と植民地支配が世界規模で結びついている現実も目にしたことになります。

約9か月に及ぶ旅を通じて、小栗は海軍、造船、通貨、交通、産業が別々の分野ではなく、国家の力を支える一つの仕組みであることを実感したと考えられます。この視野の広さが、帰国後の複合的な改革へつながっていきました。

帰国した小栗忠順を待っていた攘夷の嵐

あけぼの

世界の工業力を見て帰国した小栗を待っていたのは、開国への反発と尊王攘夷運動が激しくなる、不安定な国内情勢でした。

小栗の留守中、安政の大獄を進めた大老・井伊直弼が桜田門外で暗殺されました。幕府の権威は大きく傷つき、外国との条約や貿易に反発する攘夷運動が勢いを増していました。

帰国した小栗は、翌1861年に外国奉行へ就任します。外国奉行とは、条約国との交渉や開港場の問題を担当した幕府の外交責任者です。小栗は、ロシア軍艦による対馬占拠事件など、武力衝突に発展しかねない外交問題に向き合いました。

アメリカで軍艦、造船所、工場、鉄道を見た小栗にとって、精神論だけで外国勢力を排除することが現実的でないのは明白だったでしょう。日本が独立を守るためには、外交交渉を行う能力と、自国で軍艦や兵器を整備できる産業基盤の両方が必要でした。

この経験は、後の西洋式軍制改革や横須賀製鉄所建設へつながります。ただし、小栗の政策を「アメリカを見て西洋化を決意した」という一言だけで説明することはできません。幕府が以前から進めていた海防政策、長崎海軍伝習所、反射炉や洋式船建造などの蓄積の上に、小栗の海外経験が加わったと捉えるべきでしょう。

これだけは覚えよう

  • 小栗は日米貨幣の価値を分析し、通貨交換の問題をアメリカ側へ訴えました。
  • 貨幣分析は重要な成果でしたが、交換比率をただちに変更させたわけではありません。
  • 使節団は大西洋、喜望峰、インド洋を回る世界一周航路で帰国しました。
  • 帰国後、小栗は外国奉行となり、幕末外交の難局に立ち向かいました。
  • 遣米使節で得た知見は、軍制改革や横須賀製鉄所建設へつながる重要な経験となりました。

まとめ

日米修好通商条約と遣米使節団

万延元年遣米使節団の正式な使命は、日米修好通商条約の批准書をワシントンで交換することでした。正使の新見正興、副使の村垣範正、監察の小栗忠順を中心とする一行は、日本を代表して初めて本格的な対米外交に臨みます。小栗は使節団の規律を監督するとともに、金貨流出を招いた通貨交換問題の調査も担当しました。遣米使節は外交儀礼だけでなく、近代国家の制度を学ぶ調査団でもあったのです。

アメリカで目にした西洋文明

小栗たちはポーハタン号で太平洋を渡り、パナマ地峡鉄道を利用してワシントンへ到着しました。アメリカでは、海軍造船所、工場、鉄道、造幣局などを視察し、機械、分業、規格、人材育成によって支えられた近代工業の力を目にします。この経験だけから横須賀製鉄所が着想されたと断定することはできませんが、日本にも軍艦の建造・修理と技術者育成を担う産業基盤が必要だという、小栗の認識を深めたと考えられます。

世界一周を経て日本へ帰国

フィラデルフィア造幣局での貨幣分析は、日本の通貨制度が外国との交換で不利になる仕組みを明らかにしました。ただし、小栗の主張が直ちに交換制度の変更を実現したわけではありません。世界一周を終えて帰国した小栗は、攘夷運動が激化する日本で外国奉行に就任します。海外で得た知見を外交・軍事・財政・産業へ結びつけようとした点に、小栗忠順という実務官僚の大きな特徴があります。

参考史料・参考文献

一次史料・近世史料

  • 外務省編纂『続通信全覧
    万延元年遣米使節の編成、外交手続き、批准書交換などを確認するために参照。国立公文書館デジタルアーカイブでは史料名による検索が可能です。
  • 村垣範正『遣米使日記
    副使を務めた村垣範正が、航海、アメリカ各地での歓迎、使節団の行動を記録した日記。国立国会図書館デジタルコレクションで書名検索ができます。
  • 村垣淡路守公務日記
    村垣範正の幕臣としての活動と遣米使節に関する記録を確認するために参照。
  • 佐野鼎『訪米日記
    アメリカの社会や施設、フィラデルフィア造幣局での日米貨幣分析に関する記録を確認するために参照。
  • 佐藤藤七『幕末遣米使節・小栗忠順従者の記録
    小栗の従者として世界一周に同行した佐藤藤七の記録を確認するために参照。

研究書・参考文献

Webサイト・公的機関の解説

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