小栗忠順の生い立ち|名門旗本に生まれた若き日の素顔
幕末の近代化を支えた小栗忠順(おぐり ただまさ)は、文政10年(1827)、江戸の名門旗本の家に生まれました。黒船来航より26年前、まだ幕藩体制が安定していた時代です。
しかし少年期から学問と武芸を身につけ、外国船の接近によって揺れ動く日本を目の当たりにした経験が、後の開国論と近代化構想につながりました。
本記事では、小栗家の歴史から学問、結婚、家督相続、目付への抜擢まで、若き日の歩みを分かりやすくたどります。
対象読者:歴史初心者
読了時間:約15分
徳川家に仕えた名門・小栗家
小栗忠順の考え方を理解するには、徳川家と深く結びついた小栗家の歴史を知る必要があります。まずは、その家柄と家庭環境を見ていきましょう。

小栗家は、徳川家が三河を本拠としていた時代から仕えたとされる譜代の旗本です。家禄は2,500石で、江戸幕府の旗本のなかでも比較的高い格式を備えていました。
忠順は、こうした家に生まれたことで、幼い頃から「徳川家を支える幕臣」としての責任を意識する環境に置かれます。ただし、名門の出身だから自動的に出世できたわけではありません。学問・武芸・実務能力を身につけ、幕府内部で評価を得る必要がありました。
徳川家康の時代から続く小栗家の歴史
あけぼの小栗忠順が生まれた小栗家は、徳川家の支配を実務面から支えてきた旗本の家でした。その家の由緒は、忠順の人生観にも大きな影響を与えたのですよ。
小栗家は、徳川家がまだ松平氏を名乗り、三河国を基盤として勢力を広げていた時代から仕えた「安祥譜代」に連なる家と伝えられています。譜代とは、徳川家に古くから仕えた家臣を指す言葉です。
祖先の小栗忠政は徳川家康に仕え、元亀元年(1570)の姉川の戦いなどで武功を挙げたと伝えられます。忠政が戦場でたびたび先陣を切ったことから、家康が「また一番槍か」と称賛し、「又一」という名を与えたという逸話も残されています。以後、「又一」は小栗家当主が受け継ぐ通称となりました。
ただし、この由来は小栗家に伝わる顕彰的な逸話として紹介されることが多く、家康の発言を同時代史料でそのまま確認できるわけではありません。「小栗家ではこのように伝えられてきた」と理解するのが適切です。
江戸時代の小栗家は、2,500石を領する旗本として、上野国・上総国・下総国などに知行地を持っていました。旗本とは、将軍に直接仕える武士のうち、原則として1万石未満の者です。現代風にいえば、小栗家は「長年にわたり中央政府を支えてきた上級官僚の家系」に近い立場でした。
忠順が幕府の存続に最後まで強い責任を感じた背景には、個人的な忠義だけでなく、何代にもわたって徳川家に仕えてきた小栗家の歴史があったのです。
父・小栗忠高と新潟奉行時代
あけぼの忠順の父・小栗忠高も、幕府の役職を歴任した旗本でした。なかでも新潟奉行への就任は、後に忠順が実務官僚として歩むうえで重要な家庭的背景となったのですよ。
小栗忠高(おぐり ただたか)は、旗本・中川忠英の子として生まれ、小栗家に養子入りしました。使番や持筒頭などを経て、安政元年(1854)に新潟奉行(新潟港の統治や海防などを担当した役職)に就任します。
当時の新潟は、日本海側の重要な港町でした。外国船への警戒、密貿易への対応、港の管理、年貢米や商品の流通など、奉行が扱う問題は多岐にわたります。日米和親条約が結ばれた同年に赴任した忠高は、従来の行政だけでなく、海防という新たな課題にも直面しました。
一方、忠順はすでに江戸城へ出仕しており、父とともに新潟で勤務したわけではないため、「忠順が新潟奉行所で父・忠高から直接行政を学んだ」というわけではありません。
それでも、父が地方統治と海防の現場を預かる役人であったことは、忠順にとって身近なお手本でした。幕府の役職は単なる名誉ではなく、治安・財政・外交上の問題を現場で処理する仕事だと理解する環境にあったと考えられます。
忠高は安政2年(1855)7月、任地の新潟で亡くなりました。忠順はその年の10月に家督を相続します。父の死によって、忠順は小栗家の当主として、家臣・領民・家名を守る責任を背負うことになったのです。
江戸で生まれた小栗忠順の少年期
あけぼの小栗忠順は、江戸の中心部に近い神田駿河台で生まれました。名門旗本の嫡男として育ちながらも、少年時代から型にはまらない一面を見せたと伝えられています。
忠順は文政10年(1827)6月23日、小栗忠高と邦子の長男として誕生しました。幼名は「剛太郎」、後に小栗家当主の通称である「又一」を名乗ります。生まれた神田駿河台は、現在の東京都千代田区にあたり、武家屋敷や学問所が集まる地域でした。
忠順が生まれた頃の将軍は第11代徳川家斉です。外国船は日本近海に現れていましたが、江戸の町では後の幕末動乱を予想させるような緊迫感はまだ広がっていませんでした。
名門旗本の嫡男には、読み書きや儒学だけでなく、剣術、砲術、礼法などの習得が求められました。忠順も学問と武芸を学び、将来の幕臣として教育を受けます。剣術については、直心影流の剣客・島田虎之助に学んだとされ、砲術にも関心を持っていました。
一方、幼い忠順を「いたずら好き」「一風変わった少年」とする話も伝わっています。ただし、少年期の細かな性格や行動を伝える記録の多くは、後世の回想や伝承に基づきます。史実として確実なのは、旗本の嫡男として教育を受け、天保14年(1843)、17歳で初めて江戸城に登城し、将軍徳川家慶に御目見えしたことです。
この初登城は、忠順が小栗家の後継者として公に認められた重要な節目でした。
これだけは覚えよう
- 小栗家は徳川家に古くから仕えたとされる、2,500石の名門旗本でした。
- 父・忠高は新潟奉行を務めましたが、忠順が新潟で一緒に勤務したわけではありません。
- 忠順は文政10年(1827)、江戸の神田駿河台で生まれました。
- 17歳で江戸城に初登城し、将軍徳川家慶に御目見えしました。
- 小栗家の由緒に関する逸話は、確認できる経歴と家伝を分けて読む必要があります。
若き小栗忠順を育てた学問と人間関係
忠順は家柄だけに頼らず、儒学や武芸を通して判断力を磨きました。師や婚姻によって築かれた人間関係も、後の幕臣生活を支える基盤となります。

幕臣に求められた儒学は、単なる古典の暗記ではありません。主君と家臣の関係、政治を行う者の責任、社会秩序の保ち方などを考えるための学問でした。
忠順は儒学者・安積艮斎の教えを受けたとされ、物事を筋道立てて判断する力を養います。同時に、自分が正しいと考えた意見を簡単には曲げない性格も形づくられていきました。
儒学者・安積艮斎から受けた教え
あけぼの若き忠順の学問形成を考えるうえで欠かせないのが、幕末を代表する儒学者・安積艮斎です。その門下からは、後に政治や外交で活躍する人物が多数現れたのでした。
安積艮斎(あさか ごんさい)は、江戸で私塾「見山楼」を開いた儒学者です。忠順は幼少期から艮斎に学んだとされ、漢学や儒学の素養を身につけました。
儒学というと、古い道徳を暗記する学問と思われがちです。しかし艮斎は、中国の古典を通して政治や社会のあり方を考える一方、海外情勢にも関心を持っていました。その門下には、栗本鋤雲(くりもと じょうん)、吉田松陰、高杉晋作、岩崎弥太郎ら、幕末から明治に活躍した人物が含まれます。
ただし、在塾時期が異なるため、忠順が彼ら全員と同席して学んだわけではありません。
忠順が艮斎から具体的にどの言葉を教えられ、それがどの政策に直結したのかを証明するのは困難ですが、政治を道徳だけでなく現実の問題として考える姿勢や、国内外の情報に目を向ける学風は、忠順の成長を考える手掛かりとなります。
後年の忠順は、外国との通商を避けるのではなく、海外の制度や技術を取り入れながら日本の力を高めようとしました。儒学を学んだ幕臣でありながら西洋技術を積極的に受け入れた点は、矛盾ではありません。忠順にとって重要だったのは、形式を守ることより、徳川家と日本を現実に守れる方法を選ぶことでした。
独立不羈の精神を示す青年期の逸話
あけぼの忠順は、相手の身分や周囲の空気に流されず、自分の意見を述べる人物として知られています。その性格を象徴する青年期の逸話を見ていきましょう。
「独立不羈」とは、他人にむやみに支配されず、自分の考えに従って行動する姿勢です。忠順は若い頃から物怖じせず、ときには目上の人物に対しても率直に意見を述べたといわれます。
代表的なのが、14歳頃に播磨国林田藩主・建部政醇の江戸屋敷を訪れたという逸話です。忠順は少年でありながら堂々と受け答えし、煙管でたばこを吸いながら政醇と議論したため、周囲を驚かせたと伝えられています。
この逸話は、後に国際法学者となった蜷川新が、母方の林田藩関係者から聞いた話として著書に記したものです。忠順の少年時代と同時期に作成された記録ではないため、発言や動作まで完全な史実として断定することはできません。
それでも、後年の忠順が上役に対しても遠慮なく意見を述べ、辞職や罷免を繰り返しながら幕政改革を進めたことを考えると、この逸話は彼の人物像と重なる部分があります。
一方で、率直さは長所ばかりではありません。周囲との妥協を嫌う態度は、保守的な幕臣との対立を招く原因にもなりました。忠順の「独立不羈」は、近代化政策を進める原動力であると同時に、幕府内で孤立する危険を伴う性格でもあったのです。
結婚によって広がった旗本社会とのつながり
あけぼの嘉永2年(1849)、忠順は播磨国林田藩主家の娘・道子と結婚しました。この婚姻は、家庭を築くだけでなく、武家社会における人脈を広げる意味も持っていたのですよ。
妻の小栗道子は、先ほどお伝えした林田藩主・建部政醇の娘です。建部家は小規模ながら1万石を領した大名家であり、2,500石の旗本である小栗家より格式上は高い立場でした。
江戸時代の武家の結婚は、本人同士の関係だけでなく、家と家の結びつきでもありました。忠順が大名家の娘を妻に迎えたことは、小栗家の格式や将来性が建部家から認められていたことを示します。
もっとも、「14歳の忠順の堂々とした態度に政醇が感心し、娘との結婚を決めた」といった筋書きは、後世の逸話をつなぎ合わせた解釈と思われます。婚姻に至る具体的な交渉過程までは確認できないため、断定は避けなければなりません。
道子との婚姻によって、忠順は建部家だけでなく、その家臣や親族とも結びつきました。林田藩士だった塚本真彦は、道子に伴って小栗家に入り、後に忠順を支える家臣となります。
旗本社会では、同僚、師弟、親族、婚姻関係が複雑に重なり合っていました。忠順の人間関係も、単なる私的な交友ではありません。幕臣として情報を集め、協力者を得て、家を維持するための重要な基盤だったのです。
人物関係の簡単な紹介
| 人物 | 忠順との関係 | 主な役割 |
|---|---|---|
| 小栗忠高 | 父 | 新潟奉行を務め、幕臣としての先例を示す |
| 小栗邦子 | 母 | 小栗家の血統を受け継ぐ |
| 安積艮斎 | 学問の師 | 儒学・漢学を教えたとされる |
| 建部政醇 | 義父 | 林田藩主。道子の父 |
| 小栗道子 | 妻 | 忠順を支え、死後は小栗家を守る |
| 塚本真彦 | 家臣 | 建部家から小栗家に入り、忠順に仕える |
これだけは覚えよう
- 忠順は儒学者・安積艮斎の門下で学んだとされています。
- 艮斎の門人全員と忠順が同時期に交流したわけではありません。
- 忠順は、周囲に流されず意見を述べる「独立不羈」の人物でした。
- 14歳頃の建部政醇との対面は、後世の証言に基づく逸話です。
- 嘉永2年(1849)、林田藩主家の娘・道子と結婚しました。
幕臣として歩み始めた小栗忠順
江戸城への出仕、父の死、家督相続を経て、忠順は小栗家の当主となります。やがて実務能力を評価され、幕政の中枢へ近づいていきました。

忠順の前半生は、名門旗本の後継者から、幕府の実務を担う役人へ成長する過程でした。西の丸書院番として出仕した後、進物番、使番と段階的に経験を積んでいます。
そして安政6年(1859)、目付に任命されました。これは単なる昇進ではありません。開国をめぐって幕府内外が激しく揺れるなか、外交問題を扱う立場へ進んだ大きな転機でした。
書院番として幕府に出仕
あけぼの弘化4年(1847)、20歳の忠順は西の丸書院番に任命され、幕臣として本格的な一歩を踏み出しました。しかし、忠順が最初から政治の中枢に入ったわけではありません。
書院番(しょいんばん:将軍の警護や江戸城内の当直を担った役職)とは、幕府の軍事・警備組織である「両番」の一つです。もう一つの小姓組とともに、将軍に近い場所で勤務する役目でした。
忠順が配属された西の丸は、将軍の後継者や前将軍が居住する区域です。書院番の仕事には警護や宿直が含まれ、規律、礼儀、同僚との連携が求められました。後年の勘定奉行や外国奉行と比べれば政策決定への関与は限られますが、江戸城内の仕組みと幕臣社会を学ぶ重要な出発点でした。
忠順はその後、進物番出役として、諸大名から献上される品物などを取り扱う業務にも携わります。さらに嘉永7年(1854)頃には、外国船への警戒に関連して浜御殿の警備を担当したとされます。
安政4年(1857)には、使番(つかいばん:命令の伝達や軍事上の監察などを担った役職)へ進みました。使番には状況を正確に把握し、上役へ報告する能力が必要です。
忠順の職歴を振り返ると、警備、儀礼、情報伝達、監察という経験が段階的に積み重なっています。後に目付として外交問題を扱うことができたのは、突然才能を見いだされたからではなく、およそ12年にわたる城内勤務と実務経験があったからなのです。
父の死と小栗家の家督相続
あけぼの安政2年(1855)、忠順は父・忠高を失い、小栗家の家督を相続しました。幕臣として勤務するだけでなく、2,500石の旗本家を率いる当主となったのでした。
父の忠高は、新潟奉行として赴任中に亡くなりました。忠順は同年10月に家督を相続し、小栗家に代々伝わる通称「又一(またいち)」を継承します。
江戸時代の家督相続は、現代の財産相続とは性質が異なります。当主は家禄や屋敷を受け継ぐ一方、家臣の生活、知行地の統治、幕府への奉公、祖先から続く家名の維持について責任を負いました。
家督相続の目的・方法・結果
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 目的 | 小栗家の家名・家禄・幕府への奉公を継続する |
| 方法 | 幕府の承認を受け、嫡男の忠順が当主となる |
| 結果 | 忠順が2,500石の旗本として家臣と知行地を統率する |
忠順は父の死によって、20代後半で家の経営者ともいうべき立場になりました。現代風にいえば、公務員として働きながら、代々続く組織の責任者にも就任したようなものです。
この経験は、後年の政策にも通じます。忠順は理念を述べるだけでなく、資金、人材、組織、施設をどのように動かすかを重視しました。家督相続後に使番、目付へ昇進していく歩みからも、家の責任を負う立場になったことが、行政官としての自覚をいっそう強めたと考えられます。
なぜ井伊直弼に目付へ抜擢されたのか
あけぼの安政6年(1859)、忠順は使番から目付へ昇進しました。大老・井伊直弼のもとで行われたこの人事は、遣米使節参加へつながる重要な転機となりました。
目付(めつけ:旗本・御家人の監察や幕政上の調査などを担った役職)は、幕府組織の内部を調べ、重要事項について意見を述べる立場でした。外国との交渉が増えた幕末には、外交事務にも関与しています。
忠順が目付に選ばれた正確な理由を、一つの史料だけで断定することはできません。「井伊直弼が忠順の才能を見抜いた」という説明は分かりやすいものの、人事には家格、経歴、能力、役職上の都合など、複数の要素が関係していたと考えるべきです。
それでも、忠順には目付に適した条件がありました。第一に、2,500石の譜代旗本という家格です。第二に、書院番・進物番・使番を通じた城内勤務と監察実務の経験。第三に、外国船警備に接し、開国後の情勢に関心を持っていたことです。
目付に就任した翌日、忠順は日米修好通商条約の批准書交換使節として渡米するよう命じられたとされます。正使は新見正興(しんみ まさおき)、副使は村垣範正(むらがき のりまさ)、忠順は使節を監察する目付でした。
目付抜擢の目的・方法・結果
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 目的 | 外交案件を含む重要任務に対応できる幕臣を配置する |
| 方法 | 使番として経験を積んだ忠順を目付へ昇進させる |
| 結果 | 忠順は遣米使節の監察として渡米することになる |
井伊直弼との関係を「親しい主従」と単純化することはできません。しかし、井伊政権下での目付登用が、忠順を一介の旗本から国際交渉を担う幕臣へ押し上げたことは確かです。
これだけは覚えよう
- 忠順は弘化4年(1847)、西の丸書院番として本格的に出仕しました。
- 書院番から進物番、使番へ進み、城内勤務と監察実務を経験しました。
- 安政2年(1855)、父の死を受けて小栗家2,500石を相続しました。
- 安政6年(1859)、目付に就任し、遣米使節参加への道が開かれました。
- 井伊直弼が登用した理由は、家格だけでなく忠順の経歴や実務能力を含めて考える必要があります。
小栗忠順の前半生を振り返る年表
| 年 | 年齢 | 主な出来事 |
|---|---|---|
| 1827年(文政10年) | 1歳 | 江戸・神田駿河台に生まれる |
| 1841年頃(天保12年頃) | 15歳頃 | 建部政醇と堂々と応対したという逸話が伝わる |
| 1843年(天保14年) | 17歳 | 江戸城へ初登城し、将軍徳川家慶に御目見え |
| 1847年(弘化4年) | 21歳 | 西の丸書院番に任命される |
| 1849年(嘉永2年) | 23歳 | 建部政醇の娘・道子と結婚 |
| 1853年(嘉永6年) | 27歳 | 進物番出役を務める |
| 1854年(安政元年) | 28歳 | 父・忠高が新潟奉行に就任 |
| 1855年(安政2年) | 29歳 | 父が任地で死去し、小栗家の家督を相続 |
| 1857年(安政4年) | 31歳 | 使番に任命される |
| 1859年(安政6年) | 33歳 | 目付に昇進し、遣米使節の一員に選ばれる |
※年齢は当時一般的だった数え年で示しています。日付や年齢表記は、史料・年表によって差が見られる場合があります。
まとめ
名門旗本の歴史が忠順の責任感を育てた
小栗忠順は、徳川家に古くから仕えたとされる2,500石の旗本家に生まれました。父・忠高も新潟奉行を務めており、幕府への奉公は忠順にとって身近なものでした。ただし、名門の家柄だけで後の活躍を説明することはできません。小栗家の由緒によって培われた責任感と、自ら積み重ねた学問・武芸・実務経験が組み合わさり、忠順を幕政の中心へ導いたのです。
学問と人間関係が独自の判断力を形づくった
忠順は安積艮斎のもとで儒学を学んだとされ、政治を担う者の責任や物事を筋道立てて考える力を養いました。また、林田藩主家の道子との結婚によって、旗本家の枠を越えた人間関係も築いています。青年期の逸話には後世の伝承が含まれるものの、周囲に流されず意見を述べる性格は、その後の行動とも重なります。この独立不羈の精神は、近代化を進める力と孤立を招く危うさの両方を持っていました。
地道な幕臣経験が目付への登用につながった
忠順は書院番として出仕した後、進物番や使番を経験し、安政6年(1859)に目付へ昇進しました。父の死後には家督を相続し、旗本家の当主としても責任を負っています。井伊直弼が忠順を登用した理由を一つに限定することはできませんが、家格、城内勤務、監察実務、外国問題への関心が評価の土台になったと考えられます。目付就任によって、忠順は翌年の遣米使節へ参加し、世界を知ることになるのです。
参考史料・参考文献
本記事の作成にあたり、小栗家の系譜、忠順の少年期、学問、婚姻、幕臣としての出仕、家督相続、目付への登用について、以下の史料・文献を参照しました。後世に伝わった逸話は、確認できる経歴と区別して記載しています。
一次史料・近世史料
小栗家の系譜や幕府での役職歴を確認するため、江戸幕府が編纂した系譜集や幕臣の職歴記録などを参照しました。
- 堀田正敦編『寛政重修諸家譜』
小栗氏の系譜や、徳川家との歴史的な関係を確認するために参照しました。 - 根岸衛奮編『柳営補任』
書院番・使番・目付など、幕臣としての役職歴を確認するために参照しました。 - 東京大学史料編纂所編『大日本近世史料』所収『柳営補任』
忠順の任官・昇進と、幕府内における役職の位置づけを確認するために参照しました。 - 『小栗上野介関係文書』
家督相続や使番・目付への就任など、忠順の経歴を確認するために参照しました。 - 『江戸切絵図』
小栗家の屋敷があった神田駿河台周辺の地理や、江戸の武家屋敷配置を確認するために参照しました。
研究書・参考文献
小栗忠順の生涯を扱った研究書や評伝を参照し、一次史料だけでは把握しにくい家庭環境、人物関係、学問、青年期の逸話を補いました。
- 村上泰賢『小栗上野介―忘れられた悲劇の幕臣』平凡社
小栗家の家柄、忠順の出生、少年期、家督相続などを確認するために参照しました。 - 村上泰賢編『小栗忠順のすべて』新人物往来社
忠順の出自、人物像、教育環境、家族関係を総合的に確認するために参照しました。 - 市川光一・村上泰賢・小板橋良平『小栗上野介』みやま文庫
忠順の前半生と、父・忠高を含む小栗家の歴史を確認するために参照しました。 - 森田健司『評伝 小栗忠順』星海社
安積艮斎の教育や、忠順が目付へ登用されるまでの経緯を確認するために参照しました。 - 蜷川新『維新前後の政争と小栗上野の死』日本書院
建部政醇との対面や、忠順の青年期に関する逸話を確認するために参照しました。 - 蜷川新『維新前後の政争と小栗上野』マツノ書店
忠順の人物像や家族・親族に伝わった証言を確認するために参照しました。
※蜷川新氏の著作は、忠順の親族関係者から聞き取った内容を含みます。少年期の言動については、同時代史料で確認された事実ではなく、後世に伝わった逸話として扱っています。
Webサイト・公的機関の解説
生没年、出生地、家督相続、役職歴などの基本情報は、国立国会図書館や自治体が公開する解説とも照合しました。
東善寺「播州林田藩一万石と小栗家」
忠順と道子の婚姻や、建部家と小栗家の関係を確認するために参照しました。
国立国会図書館「小栗忠順|近代日本人の肖像」
忠順の生没年、父・忠高、目付就任などの基本経歴を確認するために参照しました。
国立国会図書館リサーチ・ナビ「小栗上野介関係文書」
家督相続から幕府要職を歴任するまでの経歴を確認するために参照しました。
国立国会図書館リサーチ・ナビ「江戸時代の幕臣を調べる」
『柳営補任』や武鑑など、幕臣の経歴を調べる史料の特徴を確認するために参照しました。
高崎市「本市ゆかりの幕臣・小栗上野介」
神田駿河台での誕生から、目付に就任するまでの年表を確認するために参照しました。
横須賀ルートミュージアム「小栗上野介忠順」
井伊直弼による登用と、遣米使節参加までの経歴を確認するために参照しました。
国立国会図書館レファレンス協同データベース「小栗上野介について資料はあるか」
忠順の基本経歴と、関連する研究資料を確認するために参照しました。
東善寺「小栗上野介忠順の略歴」
父・忠高、母・邦子、妻・道子などの家族関係を確認するために参照しました。

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