戦国時代、日本には「寺社勢力(じしゃせいりょく)」という、仏教のお寺や神社を中心とした、とっても力のあるグループがあったんです!✨
この時代は、強い武将たちがしのぎを削って戦っていましたが、実は寺社も、その武将たちと同じくらい大きな力を持っていたんですよ。💰⚔️
寺社は、自分たちで政治を行ったり、軍隊を持っていたりして、各地の戦国大名と戦ったり、時には協力したりしながら、自分たちの影響力を広げていったんです。💪
日本の政治や社会にとって、寺社はすごく大切な存在だったんですね。これから、どんな寺社がいたのか、もっと詳しく見ていきましょう! 😊
本願寺ってどんなお寺? 🏯
「本願寺(ほんがんじ)」は、浄土真宗(じょうどしんしゅう)という仏教の宗派の中心だったお寺です。最初は京都の山科(やましな)というところにありましたが、その後、大阪の石山という場所に移り、最後は金沢にも拠点ができました。👣
代表的なお坊さんとしては、蓮如(れんにょ)や、織田信長と戦った顕如(けんにょ)が有名です。👨🦲
本願寺は、近畿や北陸、東海、中国地方など、広い範囲にたくさんの信者がいました。この信者のつながりを「門徒(もんと)ネットワーク」と呼んだりします。👫
本願寺の大きな特徴は、民衆や農民の支持を集めた「一向一揆(いっこういっき)」という動きです。これは、戦国大名とも戦うほどの大きな力を持っていました。⚔️
特に有名なのが、現在の大阪城の場所にあった石山本願寺(いしやまほんがんじ)を拠点に、織田信長と11年間も戦った「石山合戦(いしやまかっせん)」です。信長もこの戦いにはとっても苦労したんですよ。でも、最終的には話し合いで決着し、本願寺は城を明け渡しました。🗣️

本願寺の信者たちは、みんなの心が一つにまとまっていて、武装した信者の軍隊も持っていました。🛡️みんなで「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」の旗を掲げて、まるで大名のような力を持っていたんです。🚩
比叡山(ひえいざん)というお寺と同じように、お寺の周りに堀や土塁(どるい)を作って、まるで城のような要塞になっていましたし、鉄砲などの新しい武器もどんどん取り入れていました。💥
石山本願寺のお坊さんたち(僧兵)も、実際に戦いに参加して、地域を守るのに貢献したんですよ。🛡️
また、加賀国(かがのくに)というところでは、長い間、浄土真宗の信者たちがその地域を治めていて、「百姓の持ちたる国(ひゃくしょうのもちたるくに)」と呼ばれたこともあったそうですよ!このことからも、本願寺の力がどれだけすごかったかがわかりますね。
比叡山延暦寺ってどんなお寺? 🏯
「比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)」は、滋賀県と京都府の境にある比叡山という山の上にあった、とっても大きなお寺です。⛰️仏教の「天台宗(てんだいしゅう)」という宗派の一番大切な寺だったんですよ。🙏
このお寺は、「山門(さんもん)」とも呼ばれていました。✨戦国時代には、なんと数万人ものお坊さんの兵隊(僧兵)を持っていたと言われるくらい、すっごく強い力を持っていたんです!⚔️
比叡山延暦寺は、お寺の周りにも広い土地(荘園)を持っていて、そこでとれる作物などで、たくさんのお金も持っていました。それに、お寺の門の前には、たくさんの人が集まるにぎやかな町(門前町)があって、商売もさかんでした。💰
京都の政治にも口を出すことができて、とても大きな影響力を持っていたんです。武将たちも、この寺を応援したり、時には意見がぶつかって戦ったりすることもありました。😲
そして、延暦寺は武士たちの勉強の場所でもありました。たくさんの武将たちがここで学んだんですよ。✏️
でも、1571年(元亀2年)に織田信長によって、寺が火🔥をつけられ、大きく力が弱くなってしまいました。これは「比叡山焼き討ち(ひえいざんやきうち)」という、歴史に残る悲しい出来事なんです。

上記の画像は、JUNPEI氏よりお借りしました。
高野山金剛峯寺ってどんなお寺? ⛰️
和歌山県にある高野山(こうやさん)には、「高野山金剛峯寺(こうやさんこんごうぶじ)」という、真言宗(しんごんしゅう)という仏教の宗派の中心となる、とっても大切な寺がありました。🏯✨
高野山は、山の中にある聖なる場所として、たくさんの人たちから深く信仰されていました。🙏「高野聖(こうやひじり)」と呼ばれるお坊さんたちが、日本中を旅しながら仏教の教えを広めていたんですよ。🚶♂️

上記の画像は、663highland氏よりお借りしました。
この寺も、僧兵(そうへい)と呼ばれるお坊さんの兵を持っていて、和歌山県(紀伊半島)の広い範囲で大きな力を持っていました。⚔️
僧兵たちは、自分たちの寺の土地や、信仰している人々を守るために、地域の領主や戦国大名と、時には協力したり、時には戦ったりしていたんです。🤝💥
高野山は、武士たちにとっても大切な場所でした。たくさんの武将たちがここで修行をして、心の支えにしていたんですよ。🧘
戦国時代には、周りの雑賀衆(さいかしゅう)や根来衆(ねごろじゅう)といった強い勢力とも手を取り合うこともありました。🤝だから、戦国時代の武将たちにとっても、高野山金剛峯寺は、無視できない、とっても大事な存在だったんです!🌟
雑賀衆ってどんな人たち? 👫
「雑賀衆(さいかしゅう)」は、和歌山市のあたりを本拠地にしていた、ちょっと特別な集団です。🏡
彼らは「一向宗(いっこうしゅう)」人たちが多かったのですが、宗教的な勢力というよりは、「傭兵(ようへい)」、つまりお金をもらって戦うプロの兵隊さんという感じだったんです。💰⚔️
特に有名なリーダーは、鈴木孫一(すずきまごいち)という人です。👨🎤
雑賀衆の一番の大きな特徴は、鉄砲をものすごく上手に使う集団だったことです!🔫当時の日本では、鉄砲はまだ珍しい武器でしたが、雑賀衆はこれを使いこなして、戦国時代に大活躍しました。💥
彼らは、一向一揆(いっこういっき)という民衆の反乱や、根来寺(ねごろじ)という寺とも協力して、織田信長や豊臣秀吉といった天下統一を目指す武将たちと、敵対することが多かったんですよ。🔥
高野山という大きな寺ともつながりがあったりして、宗教的な勢力との結びつきも強かったんです。このことから、雑賀衆が単なる鉄砲集団ではなく、当時の社会の中で複雑な役割を果たしていたことがわかりますね。🤝
根来寺ってどんなお寺? 🏯
和歌山県にある根来寺(ねごろじ)は、「新義真言宗(しんぎしんごんしゅう)」という仏教の宗派の寺です。🌸
このお寺の一番の特徴は、鉄砲を作るのがとっても得意だったことなんです!🔫戦国時代の武将(ぶしょう)たちにとって、根来寺は新しい鉄砲を手に入れるための、すごく大切な場所でした。🌟
根来寺には、「根来衆(ねごろしゅう)」と呼ばれる、鉄砲を上手に使うお坊さんの兵隊がいました。⚔️彼らの技術力と戦う力は、戦国大名たちも恐れるほどだったんですよ。この根来衆の中には、伊賀(いが)や甲賀(こうが)の忍者集団と協力して、いろんな戦国大名に仕える人もいました。👣
また、同じ和歌山県の雑賀衆とも協力して、織田信長や豊臣秀吉といった強い武将たちと戦いましたが、1585年(天正13年)に豊臣秀吉の「紀州攻め(きしゅうぜめ)」という戦いで、寺の建物(伽藍(がらん))が焼き払われ、根来寺の力は大きく削られてしまいました。🔥
それでも、根来寺が戦国時代に果たした役割は、とっても大きかったんですね!✨
興福寺ってどんなお寺? 🦌
奈良市にあった興福寺(こうふくじ)は、「法相宗(ほっそうしゅう)」という仏教の宗派の、とっても大切な寺でした。🌸
この寺は、大和国(やまとのくに:現在の奈良県)で、すごく大きな力を持っていました。✨「南都北嶺(なんとほくれい)」という言葉があるくらい、比叡山と並んで、力のあるお寺のグループの中心だったんですよ。💪
興福寺は、大和国のほとんどの土地(荘園・しょうえん)を治めていたので、とってもお金持ちでした。💰

上記の画像は、663highland氏よりお借りしました。
そして、比叡山と同じように、僧兵と呼ばれるお坊さんの兵も持っていました。⚔️時には、京都へ行って、自分たちの要求を通すために、強い態度で訴える「強訴(ごうそ)」ということもしたんですよ。🗣️だから、政治の世界でも大きな力を持っていたんです。
興福寺は、大和国にいた地元の武士たち(国人衆・こくじんしゅう)とも、とっても仲良しでした。🤝だから、地域の政治にも関わっていたんですよ。😊戦国時代には、大和国をめぐる戦いに巻き込まれることもあったんです。💥
このように、興福寺は宗教だけでなく、経済や軍事、そして政治の面でも、とっても大きな役割を果たしていたんですね!🌟
神社もすごかった!伊勢・出雲 ⛩️
「伊勢神宮(いせじんぐう)」や「出雲大社(いずもたいしゃ)」といった神道(しんとう)の神社も、戦国時代にはとっても大切な力を持っていました。🌟
伊勢神宮は三重県に、出雲大社は島根県にありますよ。🗺️
神社は、寺のようにたくさんの兵(僧兵)を持っていたわけではありません。⚔️なので、直接、戦う力はあまり強くなかったんです。🙅♀️
でも、神様をまつる場所として、昔から人々から深く信じられていました。👑天皇や武士たちも、神社をとても大切にしていたので、その「宗教的な権威」 で、大きな影響力を持っていたんですよ。✨
戦国時代には、戦国大名が神社にお金や土地を寄付してくれました。それで、神社は自分たちの生活(経済的基盤)をしっかり守ることができたんです。💪💰
出雲大社は、毛利氏(もうりし)や尼子氏(あまごし)といった大名から守ってもらいながら、その地域の人たちにとって、とても大切な信仰の中心として、ずっとあり続けました。🤝
神社は、戦国大名が「自分たちは正しい!」と示すための、宗教的なシンボルとしても使われることがあったんですよ。🚩
それから、日本では昔から、神様への信仰と仏教が一つになっていた「神仏習合(しんぶつしゅうごう)」という考え方がありましたよね。😊だから、神社もお寺の勢力と協力することがあったんですよ!🤝
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