010 山内・扇谷 両上杉家の関係

戦国時代の基礎知識

みなさん、こんにちは!

今回は、戦国時代の日本で大きな役割を果たした「上杉家」についてお話しします。特に、ふたつの上杉家、つまり「山内上杉家(やまのうちうえすぎけ)」と「扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ)」の微妙な関係に焦点を当ててみましょう。

戦国時代は、たくさんの武将や一族が勢力争いをした激動の時代です。その中で、両上杉家は関東地方で大きな力を持っていました。でも、なぜ「ふたつの上杉家」が存在し、どうしてその関係が微妙だったのか、歴史を勉強し始めたみなさんにわかりやすく説明しますよ!

さあ、一緒に戦国時代に飛び込んでみましょう!


🏯 上杉家とは? そのルーツを簡単に知ろう!

では戦国時代の重要な一族「上杉家」について、一緒に学んでみましょう!

上杉家は、もともと平安時代の貴族・藤原氏の流れをくむ勧修寺家の一族で、鎌倉時代に上杉重房(うえすぎ しげふさ)が「上杉」の姓を名乗ったことから始まりました。その後、関東に下って、武士として頭角を現していったんですよ!

室町時代に入ると、上杉家は「関東管領(かんとうかんれい)」というとても大事な役職を任されるようになります。これは、鎌倉府のリーダー「鎌倉公方(くぼう)」を補佐し、関東地方の政治や軍事を管理する役職なんです。この地位により、上杉家は関東で大きな影響力を持つようになったんですね。

でも、ここで一つ問題が起こります。それが「ふたつの上杉家の台頭」です。

室町時代の初めごろ、上杉家の家系は分かれていきました。「山内上杉家」や「扇谷上杉家」のほか、「宅間上杉家(たくまうえすぎけ)」「犬懸上杉家(いむがけうえすぎけ)」といった分家も存在していました。でも、後者の二つは次第に衰退していき、最終的に山内上杉家と扇谷上杉家が主な勢力となったのです。

この二つの家が、後に「両上杉」とも呼ばれ、関東管領の地位や勢力をめぐって対立するようになったことから、上杉家内で複雑な関係が生まれてしまいます。

どうしてこんな関係になったのか、さらに深掘りしていきたいですね!

🗡️ 分裂の原因:永享の乱とその背景

上杉家の分裂を語る上で、1438年に起こった「永享の乱」は重要な背景となります。

この乱は、関東の支配者である鎌倉公方・足利持氏(あしかが もちうじ)と、室町幕府の6代将軍・足利義教(あしかが よしのり)との対立から勃発しました。関東管領として幕府から派遣されていた上杉憲実(うえすぎ のりざね)は、幕府の命を受けて持氏と敵対し、最終的に持氏は敗れて自害し、鎌倉公方は一時的に滅亡しました。

この戦いで、上杉憲実は幕府への忠誠を示しましたが、関東の在地勢力との軋轢を深めていきます。このような中、永享の乱後の上杉憲実の隠居や、その後の鎌倉公方の再興を巡る動き、さらには上杉氏の家督争いなどが複雑に絡み合い、さらに将来の方針を巡って分裂の動きが強まり、やがて「山内上杉家」と「扇谷上杉家」という2つの有力分家が成立していくことになるんですよ。

永享の乱そのものが分裂の直接の原因ではありませんが、この時期の関東の不安定さや上杉家の立場の変化が、分裂の遠因となったのは確かです。

どうしてこんな分裂が起きてしまったのか、もう少し詳しく見てみましょう!

🏰 山内上杉家と扇谷上杉家の違い

分裂したふたつの上杉家は、それぞれ異なる地域を拠点にしていました。それぞれの上杉家を見ていきましょう!

  • 山内上杉家
    山内上杉家は、上野(現在の群馬県)や武蔵北部(現在の埼玉県)を中心に勢力を持っていました。関東管領という重要な役職を代々務めていたことから、「上杉家の本家」みたいな立場だったんですよ。

    でも、血筋の上では完全に分家・本家とは言い切れない部分もあるんです。そして、幕府とのつながりが強く、関東の政治の中心として活動していました。
  • 扇谷上杉家
    一方、扇谷上杉家は、武蔵(現在の東京都や埼玉南部、神奈川県)を拠点にしていました。とくに江戸や河越にお城を持っていて、有名な家臣・太田道灌(おおた どうかん)が活躍したことで知られていますよ!

    鎌倉公方との関係も重視していた時期がありますが、時期によっては山内上杉家とともに鎌倉公方に対抗する立場をとることもありました。地元の武士たちとのつながりも強かったんです。どちらかというと、現場でしっかり動く「現場主義」な雰囲気があったそうですよ。

このふたつの上杉家は、もともとは同じ一族なんですが、拠点や考え方の違いから、協力することもあれば、対立してしまうこともありました。まるで兄弟げんかみたいですよね!

みなさんだったら、身近な人と意見が合わないとき、どうやって仲直りしますか?

⚔️ 微妙な関係の具体例:享徳の乱

ふたつの上杉家の関係があとあと「ちょっと微妙」になっていくきっかけとなったのが、1454年(享徳3年)に始まった「享徳の乱(きょうとくのらん)」です。

この争いは、鎌倉公方だった足利成氏(あしかが しげうじ/足利持氏の息子)が、関東での権力を強めようとしたことに対して、幕府側についていた関東管領・上杉憲忠(うえすぎ のりただ)が警戒していたところから始まりました。

ところが、成氏はついに憲忠を殺害してしまいます。この事件が引き金となって、大規模な戦乱に突入したんですよ。

当初は、山内上杉家と扇谷上杉家はどちらも幕府側として協力していましたが、乱が長引くにつれてお互いの立場や利害がずれていき、次第に関係がぎくしゃくしていくんですね。まさに「戦国時代」らしい展開です!

この時期、扇谷上杉家の当主・上杉持朝は、最初は鎌倉公方の足利成氏と山内上杉憲忠との争いには中立の立場をとっていたんですよ。でも、憲忠が成氏に殺されたことで情勢が一変し、持朝は山内上杉家の支援に回るようになりました。

扇谷上杉家は、関東の地元勢力としての自立性を持っていたので、幕府ともうまく距離をとりながら行動していたんです。だから、山内上杉家とは同じ上杉一族でありながら、政治的には別の方向を向くこともあったんですね。ややこしいけど、そこがまた戦国時代のおもしろいところです!

享徳の乱は、1454年に始まり、その後も断続的に約30年近く戦乱が続く、関東全体を巻き込んだ大混乱の時代でした。

山内上杉家の当主・上杉憲忠は、鎌倉公方・足利成氏邸に招かれたのですが、そこで暗殺されてしまいます。そして、扇谷上杉家も成氏と一定の距離をとることで、複雑な立場に立たされてしまいました。

この争いは、どちらの上杉家にとっても決して「勝ち」と言えるような結果にはなりませんでした。
戦乱の長期化により両家とも勢力が消耗し、さらにお互いの立場のズレや思惑が、関東の混乱をさらに深めてしまったんですね。

歴史って、本当に一つの判断や選択が、大きな時代の流れを変えてしまうことがあるんですよ。そう思うと、ちょっとドキッとしませんか?

🧠 諸説:分裂は避けられなかったのか?

歴史を勉強していると、「もしあの時、違う選択をしていたら?」と考えることがありますよね。ふたつの上杉家の分裂についても、歴史家たちの間ではいろんな意見があります。

  • 諸説1:家督争いが原因
    一部の歴史家は、上杉家の分裂は家督(家を継ぐ権利)をめぐる内部の争いが主な原因だと考えています。室町時代は、家督争いが多くの武家で起こり、分裂や対立がよくありました。上杉家もその例外ではなかった、というわけです。
  • 諸説2:幕府と鎌倉公方の対立の影響
    もう一つの説は、幕府と鎌倉公方の対立が、上杉家を二つの立場に引き裂いたというものです。山内上杉家は幕府の忠実な味方として、扇谷上杉家は鎌倉公方との関係を重視したため、価値観の違いが分裂を招いた、という考え方です。
  • 諸説3:地域の違いによる必然
    また、関東の広い地域を統治するため、複数の拠点を持つ必要があった、という説もあります。山内上杉家が上野や越後を、扇谷上杉家が武蔵を担当することで、効率的に支配できた、というわけです。でも、その分、利害がぶつかりやすかったのかもしれませんね。

みなさんは、どの説が一番納得できると思いますか? 歴史には正解がないことも多いから、考えるのが楽しいですよね!

📜 主要人物の紹介

ここで、ふたつの上杉家の関係に関わった主要な人物を表でまとめてみましょう!

名前略歴役割
上杉憲実室町時代の関東管領。永享の乱で幕府側につき、鎌倉公方と対立。山内上杉家の基礎を固めた人物。
上杉憲忠憲実の後を継いだ山内上杉家の当主。足利成氏に暗殺される。山内上杉家のリーダー。
上杉持朝扇谷上杉家の当主。享徳の乱で鎌倉公方に味方する姿勢を見せた。扇谷上杉家のリーダー。
足利持氏鎌倉公方。永享の乱で幕府と対立し、自害。上杉家分裂の遠因を作った人物。
足利成氏持氏の息子。享徳の乱の中心人物で、鎌倉公方として上杉家と対立。ふたつの上杉家の対立を深めた人物。

📚 キーワード解説

ふたつの上杉家の話を理解するために、重要なキーワードを表で整理します!

キーワード説明重要度
上杉家室町時代に関東で力を持った武家。山内と扇谷に分裂。★★★
関東管領鎌倉公方を補佐し、関東の政治・軍事を管理する役職。★★★
永享の乱1438年に起こった、鎌倉公方と幕府の対立。上杉家の分裂のきっかけ。★★
享徳の乱1454年から始まった長期の争い。ふたつの上杉家の対立が明確に。★★★
鎌倉公方鎌倉府のトップ。関東の支配者だが、幕府としばしば対立。★★

⏳ 略年表

ふたつの上杉家の関係を理解するために、関連する主な出来事を年表にまとめました!

年号出来事
1336年室町幕府の成立。上杉家が関東管領に任命される。
1438年永享の乱。鎌倉公方・足利持氏が敗北し、上杉家に影響。
1454年享徳の乱が始まる。山内上杉家と扇谷上杉家の対立が表面化。
1482年享徳の乱が終結。関東は不安定な状態が続く。

🏁 まとめ

ふたつの上杉家、つまり山内上杉家と扇谷上杉家の「微妙な関係」は、戦国時代の関東の歴史を理解する上でとても重要です。同じ一族なのに、幕府や鎌倉公方との関係、地域の利害の違いから、協力したり対立したりする複雑な関係でした。特に、永享の乱や享徳の乱といった大きな事件を通じて、ふたつの上杉家の違いがはっきりしたんですよ!

歴史を学ぶと、人の選択や時代の流れが、どれだけ大きな影響を与えるか分かりますよね。みなさんも、ふたつの上杉家がどんな風に関係していたのか、少しイメージできたでしょうか? これからも、歴史の面白いエピソードを一緒に探っていきましょう!

🎨 使用したアイコン例

  • 🏯:城や武家の拠点を表す。戦国時代の舞台をイメージ。
  • 🗡️:戦いや対立を表す。永享の乱や享徳の乱を強調。
  • 🏰:山内上杉家や扇谷上杉家の拠点を表現。
  • ⚔️:ふたつの上杉家の対立や戦いを象徴。
  • 🧠:諸説や考えさせる部分を強調。
  • 📜:歴史的な人物や出来事を整理する表を表現。
  • 📚:キーワードや知識の整理をイメージ。
  • ⏳:年表や時間の流れを表す。
  • 🏁:まとめや結論を強調。

❓ 理解度チェック

以下のクイズで、ふたつの上杉家の関係について理解を深めてみましょう!

  1. 上杉家が分裂した主な原因として、どの事件が関係していますか?
    a) 応仁の乱
    b) 永享の乱
    c) 桶狭間の戦い
    d) 関ヶ原の戦い
  2. 山内上杉家の主な拠点はどこでしたか?
    a) 武蔵
    b) 上野
    c) 京都
    d) 鎌倉
  3. 扇谷上杉家が重視した関係は何でしたか?
    a) 室町幕府
    b) 鎌倉公方
    c) 織田信長
    d) 豊臣秀吉
  4. 享徳の乱で、山内上杉家の当主だった上杉憲忠はどうなりましたか?
    a) 鎌倉公方と和解した
    b) 暗殺された
    c) 幕府の将軍になった
    d) 扇谷上杉家と同盟を結んだ
  5. 上杉家の分裂について、どんな諸説がありますか?
    a) 家督争い、地域の違い、幕府と鎌倉公方の対立
    b) 経済的な問題、宗教の対立、外国との交流
    c) 自然災害、疫病の流行、技術の進歩
    d) 朝廷の介入、農民の反乱、商業の発展

解答と解説

  1. b) 永享の乱
    解説:永享の乱(1438年)は、鎌倉公方と室町幕府の対立がきっかけで、上杉家内部の分裂の遠因となりました。応仁の乱は京都での争い、桶狭間や関ヶ原はもっと後の時代です。
  2. b) 上野
    解説:山内上杉家は上野(群馬県)を拠点にしていました。武蔵は扇谷上杉家の拠点、京都や鎌倉は上杉家の中心ではありません。
  3. b) 鎌倉公方
    解説:扇谷上杉家は、鎌倉公方との関係を重視し、現地の武士と密接でした。室町幕府は山内上杉家が重視した相手です。
  4. b) 暗殺された
    解説:上杉憲忠は鎌倉公方・足利成氏の邸宅に招かれましたが、そこで暗殺されてしまいました。この出来事は、山内上杉家にとって大きな打撃であり、享徳の乱が起こるきっかけとなりました。
  5. a) 家督争い、地域の違い、幕府と鎌倉公方の対立
    解説:上杉家の分裂には、家督争い、地域の違い、幕府と鎌倉公方の対立が関係しているとされています。b, c, dの選択肢は上杉家の分裂と直接関係がありません。

みなさん、クイズはどうでしたか? 歴史の勉強は、こうやって一つずつ理解していくと楽しくなりますよ! 次はどんな歴史の話をしてみたいですか?

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